瀝青を割る④

 夕方になると、二人で毛布を持って屋上にあがるのが習慣になっていた。

 黄昏のなか、オナガがその長い尾で水をはじいて飛ぶ姿があった。どうやら、例外的に外から訪れた来客らしい。長い尾から散った水は沈みかけの日に照らされて、空から散るルビーのようだった。

 倒壊しかけのスクランブルスクエアから飛んでくるならば、風の影響が小さくて済む。カラスやトンビも高い空を飛んでいることがある。彼らもいずれはビオトープまで飛んできて、楽園の平和を壊してしまうかもしれない。もしくは、牢獄を破って囚われの生物たちを助けるかもしれない。いずれかはわからない。外の系から来たものは、必ず多少の変化をもたらす。変化が、ユキやエミリーにとって良いものかどうかなんて、生じてみなければ判断がつかないのだ。

 日が完全に山の稜線に隠れると、毛布を膝にかけた。風はまだ冷たいが、ずいぶんと暖かくなってきたようにも思う。金星も沈んだ。馴染みのある星がちらほら顔を見せ始めた。夜を裂くような強い風がびゅっと吹いた。反射的に毛布を手でおさえたが、足元だけはばたばたと音を立ててはためいていた。

「今日は風が強いわね」

 エミリーの鈴のような声に呼応したのか、傍にある風除けの低木からオオミズアオの大群がいっせいに夜空に飛び出した。あわい緑の輝く絹糸でやわらかな絨毯でも編むかのように、線と線がこまかに絡み合って、スロー再生の流れ星みたいに、ゆるやかな残像をいくつも空に描いていった。

 太陽はすでに沈んでいた。夜が近づき、空には星が輝き始めていた。なのに、光もないのに、オオミズアオはあわい緑に輝いて見えた。

「なに、あれ」

「オオミズアオだね。すごい綺麗だねえ」

「いやいや、そうじゃなくってさ、なんであんなに光ってるのって」

 ユキは驚きの中にわずかに不安をはらんだ調子で、早口でいった。怖くなるくらいに不思議で、美しい光景だった。あわい光は蛍に似ていた。オオミズアオの残した光もすぐに消えて、大群もどこにいったかわからなくなってしまった。あっという間になにもかもが夢みたいに消えてしまったのだ。

「光りたいのでしょう。夜なんだから」

 理屈にならないようなことをいう。ユキは、暗い中で隣にいるエミリーの瞳をこっそり覗き込んだ。オオミズアオと同じ、あわい緑の光が、奥の方で、まるで火が燃えるように煌々と輝いていた。

 しばらく沈黙が続いたあと、エミリーが話し始めた。

「私ね、ずっと好きな人がいたの」

「……あの解説員さんのこと?」

 空の藍色は濃さを増し、山の端に深く沈み込んでいく。今日はどうやら山手線周辺の灯りの配電がうまく機能していないらしく、珍しく完全な暗闇に近い夜だった。月も出ていない。アルデバランがもうすぐ沈んで消えようとしている。この春、なんどもエミリーから聞いたその名前も、場所も、もう覚えてしまった。

 アルデバランはアラビア語でアッ=ダバラーン、「後に続くもの」という意味だ。プレアデス星団、M45、つまりは「すばる」の後に続いて昇ってくることから、そう命名されたという。

 ——後に続くもの。

「そうだよ」

 エミリーの笑みは闇の中でも明るく映える。

 ユキは覚えた星の名前と、その数をかぞえる。もう見えないアルデバラン。低い空にベテルギウス、シリウス、プロキオン。リゲルももう消えた。双子座のカストルとポルックス。ぎょしゃ座のカペラ。そういうえば、うみへび座のアルファ星であるアルファルドなんかもあった。

 ユキからすれば、エミリーが星空の解説員だ。

「どこか落ち着かない、不安そうな声でね。薄暗いプラネタリウムに彼の声がぴりぴりと響いていたの……。星を語るその声はどこか悲しげで、神話を語るにも、なんだか長いあいだ忘れていた記憶を偶然どこかで拾ったかのように、大切そうに、でも、とても寂しそうに語るの。不思議よね」

「デートとかしたの?」

「もちろんしたよ。何度も何度も。彼が話してくれたのが、プラネタリウムでのことだったのか、デート中のことだったのか、今ではなんだかわからなくなっちゃったな」

 しんと、ビオトープに静寂が訪れた。水の流れが止まっている。ポンプが詰まったか、給電が滞っているか、どちらかだろう。あまり長く続くようだと確認しなければならない。水がここの命を支えている。

「ペルセウスとアンドロメダの物語を聞かせてくれたのは、プラネタリウムでのことだったかな。私はただのお客さんで、彼がただの解説員だったころ。二人がなにも関係のない頃だったような気がする」

「ペルセウスとアンドロメダの物語?」

 ——前にも聞いた話だ。

「そう。まあ、簡単にいうとお姫様を王子様が助け出す物語って感じかな。ありきたりで退屈かもしれないけど、プラネタリウムで、彼の声でその物語を聞いたときにね、彼こそがいつか私を救い出してくれるんじゃないかって思ったんだ」

「ふーん」

 オリオンはサソリに刺されて死んだ。だから空では逃げるように遠くにいるのだとか。その足下にはエリダヌス川が流れ、さらには一匹のうさぎが獲物としてあてがわれているとか。カシオペヤは娘のアンドロメダを自慢したせいで、ポセイドンの怒りを買って、鎮めるためにはどうにもこうにもアンドロメダを贄として差し出さなければならないだとか。空の星と星との間にはいくらでもものがたりがつまっているのだということを、エミリーが教えてくれた。そのエミリーが自らをアンドロメダにたとえるならば、彼女はその親を憎んでいたのだろうか。それとも、自らを犠牲にしてまで、守りたい何かがあったのだろうか。

「それで、ペルセウスはアンドロメダを救うことができたの?」

 ユキは尋ねた。

「さあ、どうかしら。ペルセウスはメデューサの首を持っていたものだから、それでケートスも退治したんじゃないかしら。その後、アンドロメダとペルセウスは結婚したみたい。幸せな家庭を築いて、子供もたくさん作って、孫だってたくさんいるのよ。でもね、みんな死んじゃったのね。オリオンがサソリに刺されて死んじゃったみたいに、案外、簡単に死んじゃったのよ。それでね、可哀想に……アンドロメダだけが生き残ったの」

「生き残りか……」

 エルフは凄惨な時代の生き残りだ。彼らの寿命がどれくらい長いのか、まだ誰も知らない。

 スクランブルスクエアで暮らしていたエルフたちの大部分は、建物と一緒に潰れてしまい、そこで育つ植物の肥やしとなったのだという。

 すぐ目の前で崩れかけている、暗闇のなかでぼんやりと淡い緑の光をはなっている大木のような、ビルのようななにかは、生き残りたちの屍だ。そう思うと、ユキはなんだか突然、泣きたいくらいに悲しくなった。

 エミリーはどんな気持ちでこれまで生きてきたんだ。エミリーはどれだけの人を見送ってきたんだろう。

「あはは。ごめんなさいね、なんだか辛気臭い話をしちゃって。知ってる? ペルセウスはメデューサの血を瓶に集めたんだって。右側の血管の血には死者を蘇生させる効果があって、左側の血管の血には人を殺す力があったんだってさ」

「うん」

「あのなんだかよくわからなかった病はさ、メデューサの血みたいなものだったんじゃないかな。私はきっと、何度も死ぬはずだったのに、死ねないまま生きながらえている。それって、罰なのかもね。死んだ人だけが許されたのかもね」

「うん」

「ねえ、ユキ」

「なに?」

「約束してくれる。ユキだけは私よりも先に死なないって」

「……うん、約束する」

 アンドロメダは沈みかけていた。ペルセウス座を貫くようにして、青い光の筋が山の稜線に落ちた。一つ落ちると、さらに一つ、二つと続くように落ちた。光の残像が空に生きた軌跡を描いた。

「あら、ごめんなさい。なんだか泣かせちゃったかな」

「ううん、平気。泣いてないよ。ほんとに泣きたいのはエミリーだよね。ごめんね。もっと、もっと、お話を聞かせてね。それで、気が済んだらさ、いつでもみんなのところに戻っていいんだからね」

「……ありがとう、ユキ。そんなことをいってくれたの、あなたがはじめてかもしれないな。ありがとう」

 ユキは嗚咽が漏れそうになるのをこらえ、エミリーの手を握った。大丈夫、暗いから、表情が歪んでいるのもきっとわからないから。強く、つよく、やわらかいその手を握った。

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