夜明け⑯

 逃避行が三日に至った夕暮れのことだった。

「誰か来る」

 そういったのはリリスだ。

 全員の足が止まる。レナートが一番後ろで皆を庇うように立った。並んでケインも立つと、レナートにいった。

「私がしんがりをつとめます。あなたを失っては私たちに逃げることはもうかなわないでしょう。前を行ってください」

 彼のいう言葉の意味を誰もが理解できた。レナートだけが道を知っている。彼がいなくなれば、どこへ逃げればいいのか誰にもわからない。となれば、他の誰かが身を挺して皆を守る必要が出てくるのは当然のことだった。

「ああ。わかった」

 レナートはその提案を素直に受け入れた。彼を先頭にし、ケインが最後尾で、体の大きな二人で他のみんなを挟むようにして歩くことになった。

 森はしんと静まり、人の気配など感じられない。それでもリリスはしきりに誰かが来ているという。感じるのだ。森は大地で結びついている。一つの樹木は別の樹木へと、根を通じて言葉をやりとりする。風が香りを乗せ、森で起こるかすかな変化を伝えてくれる。リリスは些細な変化を鋭敏に感じとっていた。

 ひたすら歩いた。足は重く、柔らかな森の土を踏むたびに、そのまま沈んで終わりが訪れたならどんなに楽だろうかと、リリスは何度も心が折れそうになった。心が止まれば、命もそこまでなのだ。森もそれをよく理解しているのか、彼女を励ますように、ぞぞぞっと葉や枝を震わせ、賑やかに黄昏の音楽をかき鳴らした。

「……近い。もう追いつかれるよ」

 恐怖が大きくなっていく。背後から迫り来るのが単なる短い夜でなく、終わりのない永遠の夜だとわかっているのだ。

 隣を歩いていたトマスがリリスの手を握って、その瞳を覗き込んだ。彼は思いを言葉にはしなかった。トマスも恐怖を感じていた。森の冷たい囁きが、土の中からゆっくり手を伸ばしてくるかのように、そっと心臓を握りしめているような感覚。死の予感。森が警告するだけではない、森は人一人の、エルフの血のことなど気にも留めないかのように、土の下へと人々を誘い込もうとしている。森は、その土は、常に肥やしとなる命に対して多くを与え、育み、いずれは殺し、またその一部として受け取るのだった。

 森はますます暗くなっていった。後を追う黒い影は、夜が近づくにつれて大きくなっていく。可能性としての死が、不安とともにぶくぶくと膨らんでいく。だが、握る手から伝わる熱が、その体温が、わずかばかりの勇気を与えてくれる。

 ——森はつながっている。

 彼らのすぐ後ろでレイラとアリアも互いの手を取り、見つめ合った。意を決したようにケインを見やった。彼も黙って頷くと、三人は立ち止まった。

「四人は先に行って。私たちがここでどうにかする」

 そういったのはレイラだった。その声は自分の未来を予期しているかのような悲しみに満ちていた。夜が近い。薄暗い森にはひとつとして光がない。暗い中で、レイラの瞳だけがわずかに光をたたえていた。

「駄目だよ、危なすぎるよ」

 リリスが振り返っていった。橙の空に紺が滲んで、昼の光をにわかに奪い去ろうとしているのがわかった。

「平気だって。様子を見るだけだから、すぐに追いつくよ」

 明るい声は闇を照らすように抜けていった。アリアの声にはかたい決意があるようだった。遠くで鳥の羽ばたきが聞こえ、やがて消えた。

 リリスは項垂れるようにして森の豊かな土へと視線を落とした。暗い中を蟻が這っていた。死んだ昆虫の一部が運ばれているところだった。森には生命が満ちている。同時に死も、その可能性も、同じ数だけ満ちている。生きるものがあるならば、死ぬものもあるという、それだけのことなのに、心のなかにはそうした自然の摂理に対する怒りのようなものが湧き上がってきていた。どうして、人と人とは必ず別れなければならないのだろう。当然なのことなのに、リリスはどうしたってそのことに納得がいかなかった。

「わかったよ。四人で先に行く」

 アリアンは諦めるように頷くと、レナートを見た。彼らは結末を受け入れる準備ができているかのようだった。すでに運命は定まっている。誰かが助かるには、少なくとも今は、誰かの犠牲が必要だった。そうしてつないで、つないで、その先になにが残されるのかは、二人にもまだわかっていなかった。だが、それ以外に方法はないと思った。

 森の樹々もそれを肯んずるかのように上下に梢を揺らし、ぞっ、ぞっ、と低い音を鳴らしていた。

 強い風がどっと吹いた。

「……駄目だって。死んじゃ嫌だよ」

 リリスのか細い声は、ほとんど誰の耳にも聞こえなかった。


 四人はレナートを先頭にして、トマスとリリスが並び、アリアンが最後尾となって歩き始めた。リリスの手を、トマスがしっかりと握っていた。そうでなければリリスはその場にとどまりそうだったからだった。

 しばらく歩くと森が騒ぎ立つのがわかった。レナートは理解していなかったものの、他の三人はなにが起こったのかがよくわかった。エルフの血を引く、三人の命が失われたのだ。誰もそれを口にしなかった。いつのまにか空を夜が埋め、梢の隙から煌めく星空が覗いていた。農場で見る星よりずっと光の強い、深い星だった。リリスはそこに、流れる星を見つけた。空がかわりに涙を流しているのだ。歩き疲れて、苦しくて、そんなこととは無関係に失われていったたくさんの小さな命に対して涙してくれているのだ。そんなふうに考えている自分が、なんとなくずるい気がした。トマスの手を強く握った。

「今日は夜のうちに山脈の麓の森にまで入ろう。あそこには道と呼べるような道はないから、そこまでいけば追っ手だってそう簡単にはこっちを見つけられないはずだからな」

 レナートの言葉に返事をするものはいなかった。誰一人、そんな気力が残っていなかった。

 夜の逃避行は続いた。森の奥深くへ進むにつれ、たんなる湿り気とは違う、粘るような重みを空気に感じるようになってきた。人やエルフだけではない。あらゆる命を育み育て、そしていつか奪う、そうした自然の循環の力がみなぎっている。回り続ける、そのことを受け入れ、その一部になること。それを認めさせる、諦めさせるような森の声が聞こえてくるのだ。逆らうことも抗うこともできはしないこの力。圧倒的な力を、是認してこそ、森の力を借りられる。エルフの知恵。奪った分はいつかきっちり返さなければならないのだ。結局、誰もが同じだ。公平だ。これこそが自然の正しさだった。

 ——力を使い過ぎた。僕はそろそろ、この身体を森に返さなければならない。

 アリアンは立ち止まった。真夜中を過ぎた頃だった。星空は一層深さを増し、煌々と照る光は眩しいくらいだった。空から声が降るみたいに、アリアンの声は澄み渡っていた。

「僕もそろそろ、仕事をしなくちゃいけないみたいだね」

「アリアン?」

 レナートだけがその言葉を理解しかね、訝しんだ。

 リリスとトマスにはわかっていた。森の要請だろうか、あるいは追っ手の執拗な追跡によるものだろうか。いずれにしても、人はあらかじめ死ぬことが定められていて、運命を森に委ねることを、アリアンは受け入れた。

 残った三人だって同じだ。リリスやトマスだっていずれはその肉体を森に返す日が訪れる。問題は、それがいつになるかという違いだけだった。

「ちょっと待てよアリアン。まだケインたちがどうなったのかもわからないってのに、お前まで行っちまう理由はないだろう」

「ケインたちなら、ついさっき、森にその肉体を返したところだよ。僕にはわかるんだ。森が教えてくれるから」

「でも、お前がいなくてどうやってこれから——」

「大丈夫だよ。リリスとトマスがいるじゃないか。二人は働き者だ。きっと三人ならうまくやれるから」

「でも、だって……」

 リリスとトマスはなにも言わなかった。二人もまたアリアンと同じように、森が求めることが、森の言葉が、よく聞こえていたから。

 アリアンが三人からゆっくり遠ざかろうとする。レナートは懇願するような目で、その背中を見ている。真夜中の森に風が吹き抜けて、枯れてもいないはずの樹々の葉が舞い散った。レナートは一瞬、その目を閉じた。そこにはもう、アリアンの姿はなかった。

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