夜明け⑮

 アリアンと奴隷の隊列は、はなから乱れていた。誰もが言葉もなく、ただ森の奥へと向かって歩いた。

 森の続く先は高い山脈になっている。奴隷たちはもちろんのこと、アリアンだって軽装で越えることなどできるはずがなかった。山脈に当たったところで北か南に進路を取る必要がある。あるいは、その前に追跡者の手が届くかもしれない。

 しばらく歩いた。背後の空が白んで来るのを感じた。朝が近い。日が出ると、梢のわずかな隙間から、時々光がさして背をあたためてくれる。

「……太陽」

 その光にわずかばかりの力を得て、さらに森の奥へと進んだ。

 梢から漏れる日の光は、森の言葉にならない声をはらんでいる。奥へ進むにつれ、森の命がよみがえってくるかのような気がする。それも錯覚なのだ。奪われた場所から遠く離れたからそう感じるだけで、実際には森の命は限りなく削られている。もはやその勢いは止められないのだ。

 ——だとしたら、僕の生きたことになんの意味があるのだ?

 いつのまにかアリアンの周囲には誰もいなくなっていた。ひとり、またひとりと離れていき、奴隷たちはばらばらになったか、あるいは、アリアンだけが彼らと別れてしまったのかもしれない。元々彼らと一緒にどこかへ逃げようなどとは考えていなかった。目立つだけだ。彼らを救う方法だって知らない。彼自身はあてもなく歩く。マルコが死んだ。マルコがいなくなった。今となっては、森を守ることも、奴隷たちを守ることも、どうでもいいような気がした。

 足を止め、木陰に腰掛けた。

 一度歩みを止めてしまうと、鉄の枷でもつけたかのように足が重くなった。すこし湿った苔に腰をおろすと、ゆっくりと沈みこんでいく。樹に背を預ける。温かかった。根が地からぐんぐんと水を吸う音が聞こえる。自分もその水と一緒に根に吸われていくような気がする。そうであって欲しいと望んでいるのだ。森の一部に、人間的な煩わしさから逃れて、森の、樹々の、土や水、風の一部に戻ることを望んでいる。

 ——僕はここで一人きり。だけど、森はここにある。

 目をつむった。心はここを最後の場所に決めた。


 ざっと、草を踏む音が聞こえた。生き物の気配だった。二人か、あるいは三人くらいの足音だ。音だけじゃない、風にかすかなにおいも乗っている。

 アリアンは本能的に音のする方角から身を隠すようにしてからだを屈めた。心は終わりを決めたはずなのに、体はまだ生きようとしている。

 草の間から、音の方角を見た。生き物の姿は見つけられない。向こうもこちらの存在に気づいているなら、身を隠しているのかも知れなかった。無闇に相手を探ろうとしては危険だ。頭を下げ、なんとかやり過ごそうとした瞬間だった。ちょうど彼らと目が合った。リリスとトマス。それに、農場の他の奴隷もいた。

「アリアン!」

 彼らの声は森には似合わない。鳥や虫の声、風や水の音とは違って、とても懐かしい音だ。アリアンの耳から入ったその声たちはみなぎる血液のようにその体を熱くした。一瞬、息ができなくなる。喜びのせいか、苦しみのせいかわからない。あるいはその両方なのかもしれない。

 アリアンはやっとのことで言葉を口にした。

「……どうして、ここに?」

「逃げ出してきたんだよ」

 もう一人、遅れて木の陰から顔を見せたのは、レナートだった。奴隷と監視人の逃亡者。奇妙な組み合わせだ。

 アリアンは立ち上がった。彼らは駆け足で近づいてきた。きっと彼らは歩き通しなのだろう、顔にはあきらかに疲労の色が見える。とりわけレナートは、他の者より疲れているように見えた。

「グレイはおそらく……投獄されるだろう。以前から言いがかりをつけてくる奴らはいたが、そいつらが裏で手を回したらしいんだ。反乱の責任の一端を負わされることになる」

「なんで、全然そんなの関係ないじゃないか」

「……立ち話をしている場合じゃないだろうな。歩きながら話そう」


 アリアンはリリスとトマスの話を聞いて、彼らがその場にいたことを知った。

 トマスはアリアンの後を追って森に行くことを主張したが、リリスが強い決意を持って反対した。リリスは後に起こるであろうことを予想していた。奴隷たちの反乱が起こっていたことは明白だったことに加え、このままではグレイの農場だってただではすまない、と。

 トマスはリリスの真剣な説得に屈した。リリスの強い決意のこもった瞳は無視できるものではなかった。二人が宿舎に戻る頃には、すでにそこは取り囲まれていた。レナートと、国王直轄の農場の監視人と思われる者たちとが激しく言い争っているのが聞こえた。中にはまだケイン、レイラ、アリアの三人が残されていた。一歩遅かったとトマスが思った途端、リリスがじっとトマスを見つめ、小声でいった。「あたしたちでどうにかしよう」というとトマスの手を握り、高く掲げ、風を呼ぶ呪文を唱えた。

 夜のことだ。空は凪いでいたものの、遠くの煙を呼び込むことくらい二人にとってはそれほど難しいことではない。たちまち遠くの煙が風に乗って、監視人たちとレナートを襲った。視界が閉ざされた。その隙に宿舎の裏手に回り込むと、窓を叩いた。

 レイラがすぐに気づくと、三人は順番に窓から外へ出た。煙はあたりを取り巻くように広がっていて、五人になった彼らは身を屈めながら小麦畑に飛び込んだ。そうして身を隠してしまえば、監視人たちにしたって容易に見つけることはできないはずだった。

 だが、レナートは違った。監視人たちが煙に巻かれているなか、状況をすぐに理解したのはレナートだった。彼はいちはやく奴隷たちが窓から出たことを察し、その畑の先の、さらに森へと続いている農道で待ち伏せしていたのだ。

 五人の前に立ちはだかる彼がいった。「このまま無闇に進んだところですぐに追っ手に捕まるだけだ」と。レナート一人に奴隷が五人。五人は戦うことすら覚悟したが、さらにレナートが続けていう。「知ってる道がある。そこを通ってなら西の山脈にいたり、さらにはそこから北上して逃げ切れるかもしれない。まあ、運が良ければだけどな」

 こうして合流した六人は、まずは山脈を目指して進んでいたというわけだった。


「でも、どうしてレナートまで?」

「グレイが捕まったんだ。自分だってこのままでいられるわけがないからな。まあ、お前たちを連れてきたのはついでだよ」

 話を聞き終えると、今度はアリアンが伝えるべきときだった。

「……そっか。わかっているかもしれないけど、マルコは死んだよ」

「……リリスとトマスの話を聞いて、それは覚悟していた。あいつが森を焼くことを許すわけがないからな」

「そうだよ。馬鹿だよね……死んだらしかたないじゃないか」

「そうかもしれないな」

 黙祷の意があったわけではない。七人になった逃避行はやがて、沈黙のまま続けられることになった。

 さらに森の奥へと進むにつれて、道と呼べるような道からはそれて、ほとんどまだ人の足の踏み入れていないであろう領域まで到達した。それでも誰も言葉を口にせず、やがて日が暮れる頃になって、ようやくレナートがいった。

「そろそろ今日は休もう。焚き火はできない。生木を焚かなくとも、火の形跡は簡単には消せないからな」


 未だ見ぬ追っ手からの逃避行は、短期間で彼らを疲弊させるには十分だった。

 旅支度でもできていたなら違ったかもしれないが、そんな猶予は許されなかった。食料は道行く途中で兎などを捕まえられれば贅沢なもので、ほとんどが食べられる野草や木の実でその場をしのぐばかりだった。水は沢を見つけるたびに飲んだ。川や沢沿いは捜索が及びやすい。それを避けつつ最短で安全な場所へ逃げようと試みた。

 ここまで来ればレナートだけが頼りだ。アリアンも、他の奴隷たちも、広い世界を多くは知らないのだから。

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