夜明け⑭

「こんなの無意味だよ。戦ってどうするんだよ。逃げなきゃ。こんな場所から逃げ出さないと、みんな殺されるだけだよ」

 アリアンが必死に説得しようとするが、誰も耳を傾けようとはしなかった。

 しばらくの間は共に働いていたとはいえ、もはや奴隷たちとアリアンの立場は大きく隔たっていたからだろう。その声は届かない。

「奴らにはたっぷり借りがあるからな、それをきっちり返済してからじゃないと本当の自由が得られないんだよ。夜な夜な奴らにいじめられたことを思い出すんじゃ、おちおち寝てらんねえってもんだ」

「恨みや憎しみなんて貸し借りできるもんじゃないって」

「馬鹿いっちゃいけねえぞ、坊主。できようができまいがやるんだよ。やらなきゃ俺たちの気が済まねえってんだよ」

 荒々しい口調でそういう男はアリアンを押しのけると、弓を構えた。あまり様になっていない。風も感じられていない。これでは到底、遠くの相手を射抜くことなどできそうにはなかった。

 血が薄いのだ。奴隷の中にはこの騒ぎに乗じて逃げ出したものもいるというが、その大部分は反乱の戦いに参加している。結末は見えていた。監視人たちを皆殺しにしたところですぐに国王からの追手がかかる。今までにない酷い仕打ちが待っているのだ。

「……なら、僕もできる限りのことはするけど、監視人への復讐を果たしたらそれで終わりだよね、それ以上はないんだよね」

 アリアンが訴えるようにその男にいう。男の顔をよく見ると、それはかつて自分と同室だった、無知に打たれていた男だった。顔があの頃とはかなり変わっていて気づかなかった。エルフらしい美しさはそこから消え、憎しみに歪んだ顔には醜い皺が無数に刻まれていた。

「……ああ、そうだな。それもいいだろう」

「約束してよ。そしたら僕だって力を貸してもいい。簡単な治療だったらできるし、弓も引ける」

「わかった。約束しよう」

 その言葉を、そのまま信じていいものかわからなかった。アリアンは迷いながらも、彼らに力を貸すことに決めた。

 アリアンのすべきことは明らかだった。エルフの血を引くものには、弓の才が備わっている。とはいえ、暗闇のなかで遠くの的を射るのは容易ではなかった。いくらか風を操ってやればいい。的に届くように、そして当たるようにしてやる。数だけは揃っているのだ。

 見たところ、監視人は全部で二十人いるかいないかくらいだ。マルコも混ざっているかもしれない。

「まずは宿舎を完全に焼き落とす」

「うん、わかった」

 監視人たちは反撃に出ることはできないまま、ほとんどが消火にあたっているらしかった。彼らには指揮を取る人間がいないらしかった。一方、奴隷の指揮はその男が取っている。闇に慣れてくると、その服が真っ赤な血に染まっていることがわかった。既に、監視人を手にかけたようだった。

 森の声が聞こえてくる。迫り来る危機を察しているのか、葉擦れがいつもよりも激しくさざめき、アリアンに訴えてくる。殺される、焼かれる、助けてくれ、と。もうここからは戻れないのだ。始まってしまったものをなかったことにはできない。だとしたら、流れる方向へと進む中で、アリアンとマルコにとっての活路を見出す以外にないのだ。それが、互いに対立するとしても。

 ——この人たちのどこがエルフだっていうんだ。森のことなど考えていない。エルフからは程遠いじゃないか。

 奴隷たちはどこから用意したのか、大量の弓と矢、そして火矢を作るための油と紙とをたくさん用意していた。森に隠してあったようだ。だが、それを持ってきたはずの誰かがいる。奴隷たちを利用して混乱を起こそうとしたのか、あるいは彼らを救おうとした誰かがいるのか。いずれにしても農場の中の人間ではない。

「さあ、焼き尽くすぞ!」

 男は声を上げた。一斉に数多の矢が夜を切り裂き、赤い光が放物線を描いて飛んでいった。アリアンは手を合わせ、静かに風に語りかける。火矢の半分ほどは手前で落ちてしまったが、半分ほどは宿舎に届いた。

「さあ、次の矢を!」

 再び火矢が闇を裂いて飛び、アリアンが風を呼ぶ。赤い光がいくつも空に線を描く光景は、まるで夜が傷ついて血を流しているかのようだった。少なくとも、アリアンはそう思った。

「もう十分だよ」

 アリアンは男にいう。

「いや、まだだ」

「僕が風を送る。そしたら一気に炎は膨れ上がって、どうしたって止められなくなるはずだよ。監視人たちと戦うんでしょう。次の準備に移って。それまでには宿舎は燃え尽きているから」

 アリアンは男の返事を待たなかった。

 手を高く掲げると、淡い緑の光を放った。男も一度は見たことのある、蛍のようなはかない光だ。光は渦を巻くように高く昇っていき、空で夜と混ざり合って消えた。

 なにも起こらないように見えた。だが、息を吐く間も無く宿舎の炎が巨大な赤い夕陽のような激しい光を発して、建物全体を覆うようにおおきく膨らんだ。男がアリアンに返事をする前に、なにもかもが十分だとはっきりした。

「なにをしたんだ」

「だから、風を送ったんだよ。火には風が必要だから」

 高く上がった赤い炎は宿舎を一瞬にして焼き尽くした。がらがらと鈍い音を立て、崩れていく。一つ目の仕事は終わった。

「次はどうするの?」

「弓だ。火はもういらない。火が消えないうちに、監視人たちをすべて射殺せ!」

 男がそういった瞬間のことだった。

 監視人たちの反撃が始まった。森に火矢が勢いよく降り注いでくる。木に刺さるとゆっくりと生きたままの木を燻していくが、容易くは燃えない。むしろ下に落ちた枯れ枝や、落ち葉についた火が問題だった。

「ひるむな。地面の火から消していけ。こちらも応戦するぞ!」

 奴隷たちは誰かのいいなりになるのに慣れていた。男の扇動によって、多くの奴隷たちは弓を構え、矢を射た。

 反撃の矢は高くあがり、監視人たちのもとへ降り注ぐ。森の樹冠に守られている奴隷たちのほうが有利な立場にあった。加えて、人数も圧倒的に多い。火の手さえ防げれば、奴隷たちの方がはるかに強かった。

 ——これじゃなにも変わっていない。自由になるために戦っているのに、また人のいいなりじゃないか。なんのために立ち上がったんだ? なんのために戦うんだ?

 アリアンの腹の底では怒りがふつふつと沸騰していた。早く終わらせたい。早く終わらせて、マルコを、他の皆を連れて遠くに逃げたい。今ならまだ間に合うはずだから。逃げ切れるかもしれないから。希望があるうちに。

「さあ、矢を放て!」

 男の号令で一斉に矢が空を飛び、奴隷たちに向かって飛んだ。アリアンは躊躇った。今度はただ宿舎を落とすというのではない。彼らを殺すのだ。魔力を、森や植物のためではなく、人間を殺すために用いることになる。はたして、風はそれを受け入れてくれるのだろうか。

 アリアンは手を合わせ、祈るように風に語りかける。これで終わりだから。最後だからと、言葉にならない声を、風は受け入れ、同時にその代償を要求した。胸深くに矢の刺さるような冷たい痛みを感じた。そうか、誰かが射られたのだ。また鋭い痛みが走った。今度は首だ。また誰かが射られたのだ。今度は腹。足。脳天。アリアンはその場に蹲って頭を抱えながらも、両手をしっかりと握りしめて、風に願い続けた。これが最後だからと、もう二度とこんなことに魔法を使わないからと。

 雨のように降る矢は的確に一人ひとりの監視人をとらえては、その命を奪っていった。監視人たちはちりぢりになった。最後に残された数人は、矢に射られる前に逃げ出した。あっというまに戦いは終わった。だが、全身に焼けるような熱さを感じた。矢とは違う、炎に焼き尽くされるような熱さだ。

「……これで終わりでしょう。早く逃げよう。いずれ、軍が辞退を収集しに来るはずだよ」

 アリアンは男にいった。だが、男は顔を醜く歪めながら、アリアンを睨みつけた。

「これで終わり? 俺たちの苦しみがこんなことであっさり贖われてたまるか! まだ戦うぞ、俺たち全員の命が尽きるまで戦うぞ!」

 怒りをこもった声で男が叫ぶと、森がざわざわと唸るように鳴いた。

 愚かな人間に対する、森の怒りを感じる。あるいは、これは哀れみなのかもしれない。

 森はすべてがつながっている。土も、風も、水も、虫も鳥も動物も、木も草も花も、なにもかもがひとつにつながった大きなかたまりとなって有機的に生きている。その全体が、わなわなと震えていた。地中で水が透明な声をあげる。空では風が梢を揺らして激しく音を鳴らす。鳥たちはすでに飛び去っていた。これが森の終わりなのだろうか。

「……もう、好きにすればいい。まだ復讐ごっこを続けたいならそうしなよ」

 彼は男や他の奴隷たちに背を向けると、そのまま立ち去ろうとした。だが、別の男がアリアンの前に立ちはだかった。

「このまま行かせるわけにはいかない」

「そうだ。お前はマルコとかいう監視人とつるんでいただろうが。お前だって、まったく罪がないとはいえないだろう」

 アリアンは足を止めた。怒りに任せて反論しようとした刹那、また激しい熱がアリアンを襲った。今度はさっきとは比べようにならないくらいの苦痛を伴うもので、立っていることすらままならない。

 アリアンは森と共鳴するような長い叫び声をあげた。全身を焼く熱と、喉が焼けただれて呼吸もできない苦しみ、皮膚のぷちぷちと焼ける音が耳の奥で鳴り響き、視界が暗くなり、死が近づいていくのがわかった。終わるのだ。

 アリアンは理解した。マルコが死んだのだ。火に焼かれ、燃やされた死んだのだ。エルフの血は、森のつながりによく似ているからわかる。近しいものの死が、その痛みが、苦しみが、土や水、風を通して伝わってくる。これも、さっきかわした風との契約の一部だったのかもしれない。近しい者の死の苦しみを、その身で代わりに引き受けることが。

 アリアンのあまりの急変ぶりに、男たちは驚きを浮かべ、一歩後ろへ退いた。

「お、おい、どうした?」

「……うう、ううぅ、ううううぅううぅ」

 狼が唸るような、低く鈍い呻きが漏れるだけで、アリアンは言葉を発することがもはやできなかった。

「お、おい。放っておけよ。俺たちの戦いはまだ続くのだ。使えなくなったものは放っておけ、行くぞ!」

 指揮をとっていた男が叫んだが、後に続くものは少なかった。

 彼らもまた、たとえそれが薄くてもエルフの血を引く者たちだ。アリアンが感じた痛みを、風や水、土や草木を通してわずかばかりでも感じたのだった。

 ようやく痛みが落ち着いたのか、アリアンは仰向けになり、梢から覗く小さな空を見た。小さな星が瞬いている。頼りなく、弱々しい光であったが、確かにそこに存在している。目をつむった。音が、水の声が、風の声が、土の声が、草木の声が聞こえた。大きく息を吸い込んだ。そして、腹の中でいっぱいになった感情に押し出されるかのように、空気を震わす声を絞り出した。

「自由になりたいなら自分のために戦え! 自分の大切なものを守るために戦え! どうでもいい復讐なんかのために、命を捨てるんじゃねえ!」

 アリアンの怒りの声は同時に、森の叫びでもあった。

 しんと、森に沈黙がひろがった。風はやみ、監視人たちの騒動も、もはや聞こえなかった。死によく似た夜が森に沈んで、肌をじっとりと湿らせる。戦う意味がもはやないことに、誰もが気づいていた。

 年の若い少年が、手に持っていた弓を落とした。地面に置いたというより、手から力が抜け、自然とこぼれ落ちたかのようだった。すぐ隣りにいた青年は、おもむろに弓を地面に置いた。彼らに従うように、次々と弓が手放されていく。最後に残されたのは指揮をとっていた男と、その取り巻きの数人だけだった。

 武器を捨てた奴隷たちは勝利を勝ち得たはずだったのに、まるで敗走兵かのように項垂れながら、重い足取りで、森の奥へ、奥へと逃避行を始めた。

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