夜明け⑬

 マルコは宿舎に向かって走った。途中、細い杭が地面に突き立てられたかのように、垂直にぴんと伸びた棒が目に映った。足を止めている暇はない。過ぎ去ろうとしたが、足は自然と釘付けになった。

「ヴォルガー……」

 細い杭の先端には、苦痛に顔をゆがめたヴォルガー・ブラッドスパーの生首がさらされていた。首元は木の杭に突き刺されて、そこから下はすべて赤い血で染まっている。茶色い大地がヴォルガー・ブラッドスパーの血をたっぷり吸って、夜の闇と同じ色に変わっていた。

 ヴォルガー・ブラッドスパーは「奴隷の血が養分になるんだから、鞭で打ったっていけないことはないだろう」と笑っていたことがあったが、彼は自らの血が、こうして畑の肥やしになるだなどと考えても見なかっただろう。その血も、脳髄も、眼球も髪も頭蓋のなにもかも、いずれは畑の肥やしになる。明日の朝にはここに烏が群がるだろう。鳥の腹を経てぐちゃぐちゃに砕かれた彼の頭部は、糞となって土に戻る。誰よりも奴隷に残酷だったヴォルガーが、その報いを受けたのか。マルコは目をそむけ、再び宿舎へ向かって走り出した。

 矢は降り止んでいた。奴隷たちの矢の残りがなくなったのか、あるいは一時的におさまっているだけなのかはわからなかった。マルコが宿舎に到着した頃には、火の手はもはや消しようのないほど巨大な炎へと成長していた。

「おい! なにが起こっているんだ!」

「なにって……見ての通り、反乱だよ。だからいったんだ、奴隷に少しの自由でも許してはいけないって。こうなることがわかっていた。くそ、ちきしょうが……」

 ヴォルガーを除けば、他に傷を負っているものはいないらしかった。

 火事でほとんどの監視人が着の身着のまま外へ飛び出し、消火活動にあたっていたが、次々とどこからともなく飛んでくる火矢のせいで、消すよりも火の勢いが強まる方がずっと早かったのだという。

 柱が焼け切ったのか、監視人の宿舎はめきめきと鈍く軋みながら、ゆっくりと傾いていった。

「倒れるぞ!」

 誰かが叫んだ。蜘蛛の子を散らすように、消火にあたっていた監視人たちが建物から離れた。地響きのような音が闇のなかで轟き、赤い炎が一時的に強まったかのように竜のように高く昇ってから、あたかもそれが幻だったかのように、刹那に夜の藍色の空に溶けて消えた。

 皮肉にも、建物が倒れることで火は消えた。同時に、必死に消火活動を続けていた監視人たちはただその場に立ち尽くしていた。火とともに、彼らの息も止まってしまったかのように見えた。

「燃えちまった……なにもかもがなくなっちまった」

「全部奴隷たちのせいじゃねえか」

「燃やされた。なにもかも」

 火はまだくすぶっていた。焼け落ちた建物のあちこちで、ぷすぷすと興奮した犬の息のような、空気を吐き出すような音が聞こえていた。消えてしまったかのように見えた火が再び、ぐずれてしまったあちこちから、その赤い顔を覗かせた。夜の闇をところどころ照らす赤い光は、監視人たちの目にも確かに映っていた。

 マルコはこの瞬間、すべてのことを理解した。胸騒ぎの意味。ずっと感じていた、拭うことのできなかった疑念、順調だったはずなのに、森を守り、奴隷たちを救い、だれもが幸福になれる未来があったはずなのに。

 ——違う。はじめからそんな未来はなかったのだ。

「……誰か武器は持っていねえか」

「国王への報は走らせたか」

「森を焼いちまおう。あいつら、どうせ森に隠れていやがるんだ。あそこから俺たちを射殺す気なんだ」

「武器を!」

「森を焼け!」

「奴隷たちを皆殺しにしろ!」

 ——こんなはずじゃなかったのに。森を、奴隷を守るはずだったのに。

 マルコは、どうすべきか判断がつかずにその場に立ち、ただ遠くに見える暗い森の影をぼんやり眺めた。風が感じられる。そこに、エルフの血が感じられる。水の流れ、土のにおい、樹々のさざめき、葉擦れの音に鳥の声。訴えている。危機が迫っていること、終わりが近いこと、互いの憎しみがありとあらゆるものを焼き尽くしてしまうようなそんな結末が、まだ見てもいない未来が、目の前にありありと浮かんできた。

 ——今頃になって、未来がこんなにはっきり見えるなんて。

「おい、お前……マルコじゃねえか。まさかお前が奴隷たちを?」

「馬鹿をいうな。だとしたらこんなところにのこのこと顔を出すはずがないだろう。火の手が上がっているのが見えてすぐに来たんだ」

「……だが、奴隷たちと手を組んで農場をやってるって噂じゃねえか」

「そうだ。お前たちの、お前さんとグレイ殿の農場が成功したからこそ、奴隷たちが冬に時間を持て余すようになったんじゃねえか」

「それからだよな、あいつらがとかを口にし出したのは……」

「やっぱり、マルコ。お前が奴隷たちをけしかけたんじゃないのか」

 監視人たちが集まってきて、マルコの周りをぐるりと囲んだ。この光景だってもう、マルコの目にはすでに映っていた。見えてしまっていたからこそ、あえてその運命に逆らおうとも思わなかった。マルコの胸騒ぎはよく当たる。今まで一度だって外れたことがないのだから。

「……なにをいっても無駄なのだろう。俺はここで無実を訴える。国王の裁定が下るまで、縛るなりなんなり、してくれて構わない」

 意を決したようなマルコの堂々とした態度に、監視人たちは怖気付きながらも、当然ながら引くことはなかった。数で圧倒している。十数人で一人を囲み、追い詰めているのだ。

「縛ろう。なにもおそれる必要などない。無実だとしたって、野放しにはできないだろう」

「ああ、そうだ。裏切り者がいなきゃ、あんなふうな大量の弓矢なんて用意できるわけがないんだ」

「縛ってどこかに括り付けておけ。……ほら、あそこの木でいいだろう」

 グレイの農場と同じように、プラタナスの樹が一本、畑への道の途中にぽつんと立っていた。マルコは素直に監視人に従い、その樹を抱き抱えるようにして縛られた。両手首はがっちりと縄で固められて、両足も開いて幹に絡むようにした状態で、両足首を縛られた。全身で樹を抱える、赤ん坊のような姿だった。

「さあ、森を焼くぞ!」

 監視人の一人が叫んだ。森が焼かれる。そうだ。こういう未来が確かにさっき見えていたのだ。マルコは目をつむり、再びその光景を思い出そうとする。

 森が燃えている。火の粉が夜の闇にきらきらと散って光を放ち、流星のように降り落ちる。まばゆい橙色の光、紅の光、時には白い光があちこちに飛んでいた。火矢で宿舎を焼かれた監視人たちは、火矢で森を焼き返そうという考えだった。

 縛られているマルコにはもうできることはなかった。ただ、森が焼かれるのを、文字通り手も足もでないまま見ているしかない。

 監視人たちが矢の準備を始めた。武器となるものの大部分は宿舎にあったが、少し離れた納屋にも予備がある。監視人たちのいくらかが走ってそこへ向かい、弓と矢、それに油と紙を持ってきた。即席で火矢を作る。誰も森に入っていこうとは考えなかった。ほとんどすべての奴隷が逃げ出したとなっては、数では圧倒的に彼らが優っているのだ。森に入れば、たちまち返り討ちにあう。国王からの支援軍でも来れば別だが、そんなのを待っている間もない。

「さっさと準備しろ、さもないと奴ら、逃げちまうぞ」

「そうだ。このまま逃してたまるか。収穫目前だっていうのに」

 にわかに、森から奴隷たちの声と、指笛の音が聞こえた。

「なんだ、どうした? 攻めてく……あっ」

 と、話途中の監視人の胸に矢が刺さった。火矢が尽きたわけではない。宿舎を焼き落とすという目的を果たした後は、今度はその照準を監視人に変えたのだろう。奴隷たちの監視人に対する憎悪はすさまじい。怒りは時間と共に消えかけていたものの、自由の片鱗を目の当たりにした彼らは、身の内に長く宿っていた瞋恚の炎を再び烈しく燃やし始めたのだ。

「殺せ、皆殺しにしろ!」

 人間の声だ。と、マルコは思った。エルフの血を引く人間、つまりは奴隷たちから発せられたのか、あるいは残虐な監視人たちから発せられたのか、その区別はつかなかった。

「殺せ、殺せ! 復讐だ!」

 矢が飛び交う音がする。びゅん、びゅん、と風を切るような音だけが夜を無数に引き裂き、間から赤い光が漏れていく。ついに森に火がともった。同時に、マルコの胸に矢の刺さるような痛みを感じる。だが、矢は刺さっていなかった。森と共鳴しているのだ。森の叫びが、苦悩が、そのまま胸に突き刺さるような痛みを感じさせるのだ。森に逃げ込んだ奴隷たちのいくらかは、きっと同じ痛みを感じているはずだった。ただ逃げればよかったはずだ。反乱などせずに、そのままどこか、国王の目の届かないとところへと逃げてしまえば良かったのだ。

 ——だが、そんな場所があるのだろうか。

 自由を求めていたのはマルコだって、アリアンだって同じはずだった。だが、失敗に終わったのだ。森を燃やす赤い炎は夜を飲み込もうとするかのようにぐんぐんと成長していく。赤い。まるで夜明けの朝のように赤い空から、まだ無数の矢が飛び出してくる。そのいくらかが監視人の胸や首を貫き、そのたびにうめくような低い声が聞こえた。夜が長い。もう明けてもいいころだと思っていたのに。まだ夜は終わらない。長い、長い、長い。森が赤く燃えている。森の声が叫びが聞こえる。この声を聞いていないのか、アリアン。リリス、トマス。みんな。マルコは心の中で必死に叫ぶ。助けてくれ、森を助けてくれ、救ってくれ。目をつむる。朝日を浴びる、焼けこげた森の姿が映った。火がくすぶっている。かつて人間であったであろう、その形を残したままの黒い物体がいくつも地面に転がっていた。それは焼け落ちた木と、そう区別のつかないものだった。終わったのだ。なにもかもが終わったのだ。監視人たちもそのほとんどが命を落としたらしい。朝の太陽の光の中で、金色の野に、土色の肌をした肉体が転がっていた。烏が飛んできて、さっそく朝食にありついていた。王の軍が到着するころには、肉の大部分は喰らわれていることだろう。ご馳走の山に烏だけでなく、多くの動物が空から訪れる。やがて彼らは肥やしとなり、あらたな豊穣をもたらすだろう。金色の野に夜が降る。暗くなる。マルコの視界にはまったく別の光景が映し出される。まだ日も出ない曙に、年老いた男と若い男女の三人が、冷たい大地を必死に掘り起こしている姿だった。長い冬を越え、土が柔らかくなり、短い夏にほんのわずかな実りを得る。ささやかだが、人も、土も、草木も、風も水も、なにもかもが厳しい自然を乗り越えようと共に働きあっていた。やがて朝日が顔を出す。そうか、これが自分がずっと求めてきた光景なのだ。よかった。ここではない、遠いどこか北の地で、新しい芽が出るのだ。よかった。大丈夫。胸騒ぎではないけれど、これもひとつの未来だから。よかった、よかった。

 マルコは目を開けた。

 一本の火矢がプラタナスに降り、火を灯した。焼けていく、火の粉がマルコに降り注ぐ。明るい。炎が肌を焼くが、不思議と痛みはなかった。あるいは、もうとっくに終わりが訪れていたのかもしれない、とマルコは思った。明るい。朝日のように眩い光が目の前を覆い、あまりの明るさになにも見えなくなった。朝だ。夜が明けたのだ。

 ——無意味ではなかった。

 マルコの肉体は緑色の炎を高くあげると、蒸発するように、煙になって空にのぼった。あわい緑色の煙はゆれながら風にのると、遠く北へ、北へと流れていった。

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