夜明け⑫

 月のない暗い夜だった。

 リリスはひんやりとした空気が足に触れるのを感じ、不意に目が覚めた。こうして夜中に目が覚めるのは久しぶりのことだ。国王直轄の農場で働いているときには、眠れないことなどよくあった。グレイに雇われてからは、身体の疲れで深い眠りにつくことができる。嫌な気はしなかった。

 ベッドから出た。なんとはなしにカーテンを引き、窓の外を見た。理由があってのことではない。ただ、自然と体がそのように動いただけだ。遠くの空が夕暮れのように赤く染まり、その遥か上空では夜より暗い黒い煙が立ち込めていた。

 目を擦り、あらためてその光景をまじまじと見る。現実だった。

「起きて、火事だよ!」

 リリスは声を張り上げると、まだ寝息を立てていた他の奴隷を無理やり起こした。朝は遠い。彼らからは、不平をいうかのような低い呻きが漏れるだけで、誰も起きあがろうとはしない。

「みんな、起きてってば。遠くで火事が起こってるんだって!」

 グレイたちの農場からはいくらか離れていたが、街の方角ではない。となれば、あれは奴隷農場の方向だ。

 リリスは一番そばにいたケインを揺り起こすと、強引に立たせて窓の外を見せた。ケインもしばらくはその光景を理解しかねていたが、年長者でもある彼は、いかにも慎重な様子で、声を低めていった。

「これは……まずいことになったかもしれない」

 ケインが窓から遠くの空を望むと、幾本もの火矢が流星のように藍色の夜を裂いて飛ぶのが見えた。

 エルフが巧みな弓の使い手だったように、エルフの血を引く者には弓の名手が多くいた。

 奴隷農場でなにかが起こっている。

「まずいことって?」

 ようやく起き上がってきたトマスが尋ねた。彼の目にも遠くで燃える炎の様子は映っていたはずではあるが、まだどこか寝ぼけているようだった。

 続いてレイラ、アリアも目を覚まし、寝ぼけ眼のまま窓の前に立った。五人は窓の前に並ぶと、ゆっくりと頭がはっきりしていく。これは、なにか尋常ならざることが起こっている。誰もが理解し始めてきたころ、ケインが再び口を開いた。

「まあ、反乱だろうな。……こっちの農場にも飛び火しなければいいけど」

 ケインがいった。他の四人の視線は驚きとともに彼に集まった。慎重というよりかは、どこか呑気にすら感じられるケインの言葉を、誰もが理解しかねた。

「反乱って……え、飛び火しなければ良いって、そういう問題じゃないでしょ!」

 レイラは血相を変え、高い声で叫ぶようにケインを非難した。反乱が起こっている、それは多くの奴隷たちが死ぬ可能性を意味していた。彼ら五人もまた、かつては国営直轄の奴隷農場で働いていたのだ。あそこには、いくらでも顔を知っているものがいた。

「……わかってる。わかってるけど、この農場にいて、今彼らのためにできることなんてないだろう」

 ケインがそう応じると、誰もが口を閉ざした。

 そもそも、ずっと以前から彼らは奴隷農場よりもずっとまともな環境で暮らしてきた負い目がある。安全で、安心して働ける環境。毎日おいしい食事を食べ、たっぷり眠って、たっぷり働ける環境。時にはともに談笑したり、監視人とすら対話ができる農場など、普通は考えられなかった。

 そこで暮らしてきた彼らが、自らそれを捨て、奴隷農場で働く者たちのことを心配するなど、どこか傲慢な気がした。だからこそ、それを誰も言葉にできなかったのだ。

 薄暗い部屋の窓から、遠くで燃える赤い空を見ていた。悪魔が大地の裂け目から空に向かって赤い舌を伸ばし、地の中へと引き摺り込もうとしているかのようだった。恐怖心と保身とが、彼らを黙らせ、硬直させる。誰もが、ここでの生活を守りたかった。

 ——だが、こうしてなにもしないでいて、この生活が守れるのだろうか。

 ケインはなにかを口にしようとした。だが、やはり言葉がでず、赤い空だけがその下で起こっているであろう不幸の数々を多く語るばかりだった。

 誰一人身動きがとれないまま、静寂が長く続いた。

「それはきっと言い訳でしょ、ケイン」

 沈黙を破ったのはアリアだった。

 やわらかな声とは裏腹に、厳しい言葉だった。その厳しさはケインを非難しようというものではない。むしろ自戒を孕んでいる。誰もが似た感情を腹に抱えたまま、言葉にはできなかったのだ。それを今、アリアがあらわにしようとしていた。

「私たちは確かにこの農場で平穏に暮らしてきたわ。でも、奴隷であることには変わりないの。彼らが戦うならば、私たちだって武器を手に戦うって選択だってできるはずよ。私たちが守りたいものが奴隷たちの自由ではなく、私たち五人だけの自由になってしまったのでしょう。それを天秤にかけたときに、あまりに私たちの暮らしが大きくなってしまった。この平和、手放したいわけがないもの」

 緩やかな口調で、もっとも大胆なことをいってのけるアリアに、他の四人はあっという間に気圧された。

「……だから、ね。まずは状況を知ること。反乱とわかれば、私たちは選択を迫られる。共に戦うか、逃げるか。きっと一度こうしたことが起こってしまえばもう次はないんだから。私たちだって今までのような生活が許されるわけがない。いずれにしたって私たちの平和は失われるの、この瞬間に。もし反乱ならば、この束の間の平和の時代がついに終わったっていうそれだけのことよ。私たちははなからなにも持っていなかったんだから。ほんの一瞬間、安穏とした日々を過ごせた。それだけで十分に自由だったし、幸福だったんだから」

 暗い部屋に再び沈黙が訪れた。

 五人は互いの出方を伺うように、表情を確かめ合った。だが、疑いが強くなる一方で、意思が一つであるとはいえそうにない。言葉にしなければ伝わらないのに、誰もが言葉にすることを恐れている。アリアが明らかにした現実を噛み締めるだけでも精一杯なのに、今、この瞬間に、一つ目の選択を迫られていた。

 まずは知ること。知って、行動すること。選ぶ以外に生きる道はなかった。

「……なら、おいらがまず確認してくる。一番足が使えるし、体も小さいからそうみつからないだろうからね。でも、どうするかってのはそれぞれが決めよう。恨みっこなしでさ。戦うもよし、逃げるもよし。あるいはここに残るもよし」

「……わかった、そうしよう」

 レイラはどこか納得していないように見えたが、自分の思いを抑え込むようにして頷いた。

 ケインとアリアも頷く。リリスだけが容易く肯んずることはなかった。

 言葉もないまましばらく眠るように目をつむって考え込んだ。その沈黙はほんの刹那のことだったが、他の四人には一時間にも二時間にも感じられた。

 細い声で、リリスがいった。

 闇にぽっと照る、蝋燭の火のような細い声だ。

「わかった。あたしもトマスと一緒に行くよ。足は遅いかもしれないけど、見つかりにくさだったらトマスよりも優れている自信はあるよ。それに、風や樹々の声もずっとよく聞こえるから」

 トマスは驚いたような表情を浮かべたものの、すぐにそれは微笑に変わった。うん、と深く頷き、いった。

「……わかった、一緒に行こう」

 内心、トマスは一人きりで様子を見に行くことを恐れていた。それでいて、リリスを危険な目に合わせるかもしれないと思うと、それも気が引ける。二つの感情がせめぎ合う中、孤独という恐怖が一つ上回っていたのだ。

 残りの三人は彼らにいうべき言葉も見つけられず、ただ扉の外に立った。薄闇へと、リリスとトマスの背が消えていくのを、言葉もなく見送った。


「リリス、こっちの方が見えにくいよ。ほら、頭下げて」

「うん」

 二人は畑の中を通って行った。

 マルコやレナートに見つからないようにするだけではなく、農場を出てからは街の人などにも見られるわけにはいかない。街道や農道へ出てしまっては、夜更けとはいえ、すぐに人目につく。なにせあの騒ぎだ。

 喧騒と人混みに紛れるという手段も考えたが、それにしてはリリスもトマスも目立ちすぎる。どう見ても田舎の農民の子であるトマスに、こざっぱりとしたリリスとの組み合わせでは、兄妹というにも通用しないし、逃げ出した奴隷と疑われるのが、まずまっさきに考えられることだ。

 グレイの農場の畑を抜け、農道に突き当たった。

 農場には柵も塀もなく、また、監視人のレナートが四六時中見張っているわけでもない。実際には、いつだって逃げられるはずだった。もちろん、その農道も、何度も目にしたことがある。なにせ、農場の端は、完全な自由と接している。憧れてその道を見たことも一度や二度はあったが、農場での生活が充実していくにつれ、限られた世界にいつの間にか自由を見出すようになっていた。

 躊躇いつつも、二人は一歩を踏み出した。

 農道に沿って立つ数軒の農家さえ避けて横切れば、そうそう人には見られることはなかった。

 ここより外のことはほとんど知らない。国王直轄の農場からグレイの農場へと移されるとき、街道と小さな農道を通ったのを覚えているが、もう二年近く前のこと、しかも一度きりだった。

「ここからは道もわからないし、安全な場所もわからない。それでも来るか?」

「うん」

 リリスは頷いた。

 奴隷農場には着実に近づいていた。遠くから大人の男の叫ぶような声がかすかに聞こえ、さらには空高くに煌々と輝く火矢が飛び交っているのも見えた。宙に放物線の残像を描いて飛んでいくその先が監視人の宿舎だろう。となれば、矢の飛び出してくるその根元が奴隷たちの宿舎か、あるいは反乱のための隠れ場所かなにかがあるはずだった。

 農道を横切ると、また畑が広がっている。暗闇の中で、それがなにの畑かまではわからなかったものの、背が高く、隠れるには都合がよかった。

 トマスが腰を屈めながら前を進み、その後ろで似た姿勢で屈みながらリリスがついていった。

 しばらく進むと畑が途切れていた。切り倒され、切り株だけが残された森の跡地が暗闇のなかに見える限りひろがっていた。森が殺され、ここから再び開墾していくのだろう。一度は止まっていたはずの森の伐採は、マルコやグレイの知らぬ間に、再び進められていたのだった。

「ひどい……」

「この森を甦らせるのに百年、いや、二百年はかかるかもしれないね……」

 トマスは近くの切り株に触れた。声が聞こえる。痛み、憎しみ、恨み。切られてもまだなお生きているが、次には根を切られ、株ごと抜かれ、焼かれるのだろう。そのやるせない樹々の怒りの声が、トマスの心臓を破るように鋭く突き刺さった。

「……許せない」

「トマス」

 リリスが彼の袖を掴んだ。

 二人はもう子供ではない。今この瞬間に監視人たちに憎しみを募らせたところで、彼らの抵抗する術などなにひとつとしてなかった。

 リリスはふと顔を上げた。

 遠くの空の矢の勢いが弱まると、夜の闇が裂け、どっと深い闇が漏れ出すかのような男たちの鬨の声があたりを震わせた。腹の底から揺さぶられる不快感に、リリスは思わずしゃがみ込む。

「平気だ、まだ遠い」

「……違うの。たくさんの奴隷が殺されてる。監視人もいっぱい死んでる。あたし、そういうのがわかるの。命が消える瞬間の震えのようなものが感じられるから」

 トマスはリリスの隣にしゃがみ込むと、肩を抱くようにしていった。

「ここで引き返すか。それとも、自分たちの目で見て、ケインたちに報告するか。おいらは先へ進むよ」

 そういうと、トマスはすぐに立ち上がった。

「……あたしも行く。あたしたちにできることだってあるはずだから」

 トマスが手を差し出す。その手をリリスがつかみ、立ち上がった。

 ここからは切り株の間をすり抜けながら森の方へと向かうのが賢明だろう。言葉を交わしたわけでもなく、二人は夜の森の囁きに耳を傾けるように、見えもしないその方向へと歩いていった。


「トマス、止まって」

 リリスがトマスの裾をつかみ、姿勢を低めた。なにかを感じ取ったのだ。遅れてトマスもなにかを感じたとのか、とっさに頭をさげ、切り株に身を隠すようにして伏せた。

「あのあたり、誰かいる」

「……あれ、マルコじゃないか」

 遠くで燃える監視人の宿舎が見えていた。そのあかりのせいで逆光になっているため、その顔を仔細に眺めることはできない。ただ、トマスの言う通り、その影はマルコのものによく似ていた。対するのはアリアンだろうか。背の低い少年に見えた。彼はマルコが行こうとするのを必死に止めているように見えた。

「まずい、アリアンだよ。彼だったらこの闇でもおいらたちに気づくかもしれない。早いところ戻ろう」

「……待って」

 リリスは再び、トマスの袖をつかんだ。

 遠くからうめくような叫びが聞こえたあと、束の間の静寂が訪れた。二人の会話が聞こえてくる。

「このままじゃ森が焼かれちまう。止めに行かなきゃならないんだよ」

「仕方ないだろう! 反乱が起こったんだ。監視なんてもはやいってられないんだよ。これは、もう戦なんだから!」

「……とにかく俺は行く。監視人たちと話せるのだって、自分かグレイくらいだけなんだ。グレイは国王のもとへ向かった。でも、たった今目の前で森が焼かれようとしているんだ。少なくとも時間稼ぎくらいはできるはずだろう。こうして手を拱いているだけじゃ、これまで積み上げてきたことが無に帰す。アリアンは、本当にそれでいいのか。俺たちがやってきたことが無駄になっちまうんだ」

「なら、……僕も行くよ。一緒には行かない、でも、僕は森に行くよ」

「……わかった。アリアン、きっとそこにはお前にしかできないことがあるんだろう。俺もそれは同じだ。ただ、森を守るために」

「うん」

 反乱の騒動と、その叫喚とが次第に近づいていた。二人の話し声はすぐに聞こえなくなった。

 暗い影がかたく抱き合う姿が見えた。そしてその二つの体は離れると、一方は炎の上がる戦場へ、もう一方は暗い森へ向かって駆け出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る