夜明け⑪

 春が訪れた。約束の夏がもうすぐ訪れる。

 小麦の冬の休眠期間が終わると、丈が伸びるのも早く、葉や青々と茂り、日の光を目一杯吸い込んでは、風に揺れて呼吸をしていた。

「……今年はなんとかなりそうだね」

「ああ」

 胸騒ぎは消え、すっきりとした春が迎えられるものと思っていた。

 マルコは畑を見渡す。一面を淡い緑色の葉が埋め、風が吹くたびに波立つように太陽の光を反射して揺れながら、爽やかな草の香りを運んでくれる。アリアンのいうとおり、今年こそはなんとかなりそうだった。課題がすべて解決しただけでなく、天候にも恵まれていた。なに一つ問題なく日々が過ぎ、ほんの数ヶ月で夏の収穫が訪れようとしている。なのに、胸の疼きが少しも消えずにいた。去年の嵐の前から、ずっと続いている。

「なんだか浮かない顔だね。不安でもあるの?」

「いや。……なんとかなりそうではなく、今年こそなんとかするぞ!」

 自らの胸の奥に燻るうろんな空気をかきけそうとするかのように、マルコは畑中に響くくらいに大きな声を張り上げた。

「わ、気合い入ってるねえ」

 アリアンがからかうようにいう。近くにいたケビンとレイラがくすりと笑う。監視人と奴隷が共に笑顔で働いている。二年前には考えられなかったような光景が、そこにはあった。

 ——理想としていた光景だ。

 マルコは、奴隷たちの力によって農場の生産性が向上するとは期待していなかった。エルフの血をわずかでも引く彼らの力が農業に役立つことは誰よりも理解していたものの、些細な力に過ぎないだろうと考えていた。それ以上に、共に理解し合い、協力することで、大きな力を生み出せるはずだという確信があり、それを現実にするために、国王直轄地の農場でも、グレイの農場でも、奴隷たちとの関係を築きながら働いてきた。その努力の成果が、たった今マルコの目の前に現実としてあるのだ。

 ——あとは森を守るだけだ。森さえ守れれば、彼らも一緒に守れるのだ。

 畑に自ら入り、腰をかがめて、小麦の脇にはえた小さな草をむしりとっていった。こればっかりは数人の奴隷ですべてを終わらせることはできない。レナートも、時にはグレイですら、畑に入って働く。やるとやらないとで大きな差異が生まれるでもないが、やれることはやっておきたい。マルコの、夏の収穫にかける思いだった。


 やがて春が過ぎ、夏が来たらしい。山の端に白い衣がひるがえり、太陽に日に照らされているのがよく目に映る。夏の間、祭りの巫女がまとう衣装がああして干されている。毎年のように見るなにげない景色なのに、なぜか久しく見ていなかったように思った。マルコにとってはそれだけこの二年間が緻密かつ充実していた証だった。

 もはや収穫は目前だった。確実に四倍の量を確保するために、最盛期を摘み取りたかった。とはいえ、もはや十分なほどの量は期待できる。準備は万全だった。

「これはさすがに国王だって認めざるを得ないだろう」

 グレイがいった。

 彼はこの二年間、方々に政治をして回らざるを得なかった。監視人の同業者にとっては死活問題になりかねないグレイの農場の成功を、彼らにとっても利益になるものとしなければならない。王に明らかにならない程度に、いくつもの密約を交わした。もちろん、袖の下だって忘れてはいない。また、王やその周辺への根回しだって十全に果たした。グレイには、自分がこの事業の中心人物であるという責任と矜持があった。同時に、もし成功に導くことができたなら国王からのさらなる信頼も勝ち得るだろうという期待もあった。

「まあ、そうだろうね。でも、俺はこれ以上に農場を広げることに賛成はできないな」

 ここまではマルコとグレイは同じ道を歩んできたが、ここからは別々の道を歩まざるを得なくなる。マルコは奴隷たちの立場を回復すること、そして森を守ることを目的としてきた。だが、グレイは農場の繁栄を第一義としてきた。どこかで利害が対立するくらいならば、早いところ、道を別つのが賢明だろう。

「なぜだ。王に匹敵するまでの力は持てないまでも、ここいらでは一番の権力が手に入るというのに、どこに拒む理由があるという」

「わかってる。グレイがそれを望むならば、あなた自身でそれを行えばいい。でも、俺はそれに力を貸すことはできない」

「それでは話が違うのではないか。私は地位を得たい。そのためにはエルフの血の力が必要だし、もちろん、お前の力も必要だ。そうして森を守り、農場を繁栄させ、奴隷たちの立場も守るのだから、お前の望んだ通りではないか」

「いえ、それではいずれ森が壊されることは目に見えています。賢王と名高いかのカイロス・ドラコニウスですら、森の、エルフの血の誘惑にはあらがえなかったのですから」

「ではどうするというのだ」

「それは——」

 マルコはいつも、ここで思考が止まってしまう。では、どうすれば良いのだろうか。少数の奴隷を引き連れて、小さな農場を営むことはきっとできるだろう。だが、森がいずれ奪われることには違いない。森を失わず、生産量を増やす。今それをやっているが、結果的には増えた生産に比例してさらなる欲望を掻き立てるばかりで、なにも変わらない。エルフの血を引く者たちを守り、森を守り、さらには国王や監視人たちの利益をも守るには……。これ以上は進めなかった。

「まあ、とりあえず今はまず国王の要求に応えることが第一じゃない? それが達成できなければ、奴隷も森も、地位だって、なに一つ得られないんだからさ」

 二人の議論が行き詰まりそうなのを見てとったのか、アリアンがそういった。

「それもそうだな……」

 マルコは頷く。グレイはまだなにかいいたそうにしていたが、顔を顰めたまま二人の前から姿を消してしまった。

「ねえマルコ」

 黙ったまま畑に戻ろうとするマルコを、アリアンが呼び止めた。

「本当はマルコはどうするつもりなの? もしかして、変なことを考えてはいないよね。奴隷の立場を回復することと、森を守ることと、さらにはグレイにそれなりの地位を与えることの三つを同時に叶えるなんてできないことは、マルコもよくわかってるでしょう」

 マルコが振り向いた。アリアンはその顔をまじまじと見た。瞳の輝きはエルフそのものだった。他の者が気づいていないわけがない。濃い眉と深い彫りとで本人は誤魔化せているつもりかもしれないが、エルフの血の濃いアリアンが騙されるわけがないのだ。マルコが森を守りたいのは結局のところ、アリアンと同じく、エルフの血を濃く引くものだから、ただそれだけだった。

「そうだな。俺はそのうち、どれかを選ばなければならないのだな」

 マルコは寂しそうに笑った。


 収穫目前だった。高い太陽に照らされた金色の小麦が目の前に広がり、豊穣を祝うような風がさわさわと静かに歌っていた。

「明日、収穫しよう」

「いよいよか」

「いよいよだね」

 マルコ、レナート、アリアンの三人は顔を見合わせ、喜びをあらわにした。五人の奴隷たちも少し距離をとりながらも、こみあげる喜びを隠しきれぬようだった。

 奴隷とグレイを合わせると、全員で九人になる。国王直轄の奴隷農場に比べるとほんの小さなものに過ぎないが、この二年間で生み出した成果は決して小さいとは言い難いものだった。

「マルコはこれからが勝負でしょ」

 アリアンはいうが、マルコはそれに答えなかった。黙したまま、金の野に走る白い光の波をぼんやりと目で追っていた。やがてその波は実りの香りを運び、鼻に新しい季節を知らせた。

 収穫が終わり、国王から認められれば、それがようやく新たな始まりとなる。直轄地へ戻り、同じことをすれば良いはずだ。マルコはそう考えていた。奴隷たちの力を引き出し、さらに森を回復すれば、力だってより大きくなっていく。そうすればまた国王は納得する。森を守り、奴隷を守ることができる。まだ課題は多くあるものの、ここまでやってこれたのだから、これからだってやっていけるはずだ。

 ——だが、いつまでそれを続ければいいのだろうか?

 にわかに胸騒ぎがした。単に不安のせいか、悪い予感があるのか。マルコには判断がつかない。ただ、今までに感じたことのないほど、鈍く、重く、心臓が打つようだった。あらたな一歩が近い。今、物語の第一章が終わろうとしている。マルコは心中で自らに言い聞かせる。まだ、これからなのだ、と。

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