夜明け⑩

「まあ、怪我の功名ってやつかね」

「馬鹿いうな、下手をすればいっぺんに奴隷を二人失うところだったんだぞ」

 レナートは声を一生懸命に低め、努めて厳かな調子でそういった。だが、どこか表情が定まらない。怒ればいいのか、責めればいいのか、あるいは心配すればいいのか。いかにも迷っている。

「そんなこといって、レナートが一番彼らの身を案じていたじゃないか。奴隷とかいっちゃって、リリスが、トマスが、とかいってあたふたしていたじゃないか」

 アリアンが揶揄うようにいった。

 この言葉でレナートの立場がはっきりと決まったかのように、胸を張り、毅然とした態度に変じた。

「そんなわけあるか。奴隷は大事な労働力に過ぎない。いや、確かにあいつらは普通の奴隷と比べればはるかに重要な労働力であることには違いないからな、やっぱり特別だ。それにしたって、笑い話で済ませられるような問題じゃない」

 レナートは顔を真っ赤にし、あたかも憤っているかのように必死に弁明した。

「はいはい。能力があるからね。他の奴隷とは違うよね」

「なんだアリアン、なにか言いたいことでもあるのか」

「いや、なにも」

 と、アリアンがそっぽを向いてみせる姿に、マルコは思わず笑みを漏らした。

 怪我の功名、要するにトマスとリリスが危険な状況に陥ったことで、トマスのエルフの血が目覚めたということだった。

 以前からアリアンがいっていたように、トマスの能力は奴隷たちの中でも最も優れたものだった。嵐の日以降、開花した彼の力はアリアンに匹敵するほどのもので、互いに呼応し合うエルフの血の影響なのか、リリスや他の奴隷の魔法も一段と強力になっていった。

 風や水を引き込むだけではない。小麦の成長の度合いや、土の状態などを敏感に耳に聞くことができるようになった。もっと水が欲しいのか、もっと光が欲しいのか、もっと肥やしが欲しいのか。それに応じて、彼らの魔法の用い方も変化する。

 最大の力は、薄い雲なら皆の力で避けられるようになったことだ。日の光を借りられるならば、それほど大きなことはない。以前からアリアンがマルコに訴えていたことの一つだ。その変化が、劇的に生産量を増やす。だが、四倍となると——。

「まあ、なにもかも順調なのだからいいじゃないか。リリスもトマスも無事だったわけだし、もうすぐ迎える収穫だって一昨年の水準の三倍は下らないはずさ」

 グレイは今日もいない。三倍では足りないのだ。四倍に至らないまでも、それに近ければ、かろうじて交渉材料になる。加えて、その売り上げによって農機具の刷新ができる上に、さらには国王直轄の奴隷農場の監視人に袖の下を交わすことだって可能なはずだ。となれば、グレイは農場にとどまってばかりはいられなかった。金の力を存分に用い、根回しして、国王の周辺からしっかりと地盤を固めていく必要がある。農地を改革するのに政治を行わなければならないとは、なんという皮肉だ。マルコは思わず苦笑せざるを得なかった。


 夏の収穫は一昨年を基準にして三倍超だった。悪くないどころか、奴隷農場をはじめ、街の商売人などの噂にまでのぼるほどだった。効率でいえばすでに奴隷農場の四倍は超えているが、王が求めるのは、グレイの農場における収穫量を四倍にすることだった。

 グレイが政治的な根回しに奔走したことで、当初の約束通り、二年の猶予が与えられることになった。賄賂をたっぷり得て肥えた監視人たちの中には、それでもなおグレイの農場を認めないものもいた。吸い取れるだけ吸い取ろうという魂胆なのだろうが、どこまでも与え続けることもできない。また、賄賂すらも受け取らずに、グレイの農場を悪くいう者もいる。彼らは仕事が失われることを恐れているのだろう。奴隷の力や立場が強くなれば当然、監視人の仕事や地位は危うくなるのは必定。政治はまだまだ長引きそうだった。

 次に小麦を収穫を迎えるのは来年の夏。トマスがようやく力を発揮したことで、四倍の収穫を実現するのも難しいことではなくなった。すべてが完璧とはいえないまでも、順調すぎるほど順調だ。困難や課題をいくつも乗り越えてきた。これからも同様に乗り越えるべき障害が多く現れるだろう。だが、農場の組織はもはやそれを容易く乗り越えられるくらいに堅固なものとなった。マルコはそう確信していた。


 夏が過ぎ、秋に大豆の収穫も終えると、冬が訪れた。

 去年と同じく、その年も森に手を入れられないことは約束された。そのため、国王直轄の農場の奴隷たちには、再び束の間の自由が与えられた。

 少しずつ、目に見えないところで変化は生じるものだ。それは小麦の根が地中深くに根を伸ばして水や養分を吸うのと同じことで、地上で生きる者からすればよく気をつけていないと見ることのできぬくらいの、ほんの小さな変化だった。奴隷たちはかつて完全に分断され、同部屋の者たちのみの付き合いだったのが、監視人を含め、冬の間に交流が増えていった。ある変化が別の変化を生み、つらなった鎖のように振動を伝え、ついには屋台骨を揺るがすほどの事態を生じさせる。この冬、確かに変化が生じたのだが、マルコもアリアンも、もちろんグレイやレナート、他の奴隷たちだって、なにひとつとして知るはずがなかった。

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