夜明け⑨

「トマス、トマス!」

 雨の打つ音に混じって、トマスの耳にかすかに自分の名を呼ぶ誰かの声が聞こえる気がした。

 だが、そんなことに構っている暇などない。

 マルコやレナートの会話を聞いてしまった。王は四倍もの収穫量を望んでいると。そして、今のままでは到底その量には達しないのだ、と。当然だ。自分だけ力を発揮できないでいるのだから、きっと計算と違っていたのだろう。それに、そもそも同じ土地で四倍なんて現実的ではない。そんなことが可能なのだろうか。いや、あの人たちがいうのだから可能なのだろうけれど、まだ足りない。つまり、彼らの抱える問題の中心は自分にあるのだ。

 植物を育てるには豊かな水と土と風、そして太陽の光が必要だった。それ以上に、人間がたっぷりと手をかけてやると、なお成長は促進される。

 エルフの血を引くものは、草花の心が読めるという。風や水と同じように、植物の声が聞こえるのだとか。

 ——そんなの、ほんとうにあり得るだろうか。

 自分にはエルフの血など流れていないから聞こえないのだろう。父も母も平凡な農民だった。その両親が死んだ。運が悪いことに、トマスには頼りになる親類もいなければ、兄弟もなかった。行くところなどなく、街をさまよっていたら連れて行かれたのが奴隷農場だった。

 嬉しかった。仕事があること、土に触れられること。作物が育てられること。住む場所が、食べるものがあることが。街でさまよい物乞いをしている生活よりかはずっと充実していた。監視人から飛んでくる鞭の痛みだって、生きていることの証だというくらいにしか思わなかった。苦しみが絶望なのではない、喜びも楽しみもないなかで無意味に生きることの苦しみが絶望なのだ。トマスはそう考えていた。

 農場で必死に働くうちに、マルコとグレイの目に留まった。ちょうどその頃、グレイが国王から与えられた土地で新しい農場を始めようという話が持ち上がったばかりで、うってつけの奴隷を五人、連れて行くことを許された。

 強く推薦したのはマルコだったという。

 トマスがグレイから聞いたところによると、単に手先が器用なだけでなく、体力も知力も申し分なく、この上ない働き者だということだった。

 ——違う。

 トマス自身は、働き者であるだとか、手先が器用だとか、そんなことを考えてみたこともなかった。ただ、目の前のすべき仕事、したい仕事を徹底して突き詰めるのが好きだという、彼からすればそれだけの話だった。

 そうしたマルコの期待に応えるだけでなく、今となってはそれ以上の働きが必要なのだと理解した。だが、それができない。しかも、選ばれた五人の奴隷のなかで自分一人だけが。

 ——力が足りない。もっと、もっと。

 トマスの視界の近くにまばゆい閃光が弾けた。暗くなった畑は一瞬だけ光で照らされ、成長の悪い区画があることを見出した。

 ——追肥だ。

 肥やしのたっぷり入った桶を担いで立ち上がった。他の奴隷の姿はとうになくなり、監視人の姿もなかった。皆がいない、そう思った刹那、また声が聞こえた。

「トマス、トマス!」

 リリスの声だ。

 彼女は少し離れたところで首を振りつつ、濡れ鼠になりながら声を振り絞っていた。彼女の濡れた全身が煌々と赤い光を放っていて、その時はじめて、プラタナスの樹が燃えているのに気がついた。

 ——こんな近くに雷が? いつ?

「危ないよ。雷に打たれちゃうよ。トマス、トマス!」

 リリスは彼のいる場所には気がついていないようだった。

 あと一区画だけ肥料を巻いてから引き上げたい。だが、確かにこれ以上は危険かもしれない。

 トマスは迷いながらも、成長の今ひとつな区画へ近づいて行った。それはちょうど、リリスのいる場所からも遠く離れてはいなかった。

 ——あそこだけ撒いて、引き上げよう。

「トマス、どこにいるの」

「ここだよ」

 トマスはようやく声をあげると、暗い中でリリスと視線が重なるのがわかった。

「はやく戻ってきて。見て、プラタナスが燃えている。雷が落ちたんだよ、死んじゃうよ」

「わかってるって。そこの区画だけ肥料を撒いたらすぐ戻るからよ」

 桶には絶え間なく雨が降り注いで、もたもたしているともっと重くなる。服が濡れ、力も入らない。それでもゆっくりと区画に近づいていく。

 リリスはほとんど泣くように叫んだ。

「馬鹿いわないでよ。早く戻ってきて!」

 雨を裂くように高く響いた声に呼応するように、突如、青い光の筋が、空を駆ける竜の如き炎がひらめき、再びプラタナスに直撃した。

 二度目の衝撃を受けたプラタナスは根本から揺らぎ、薄暗い闇のなかを赤々と燃える大木がめきめきと音を立てながら傾いていく。

「リリス、危ない!」

 次に叫んだのはトマスだった。傾いたプラタナスはゆっくりとリリスに向かって倒れていった。

 リリスは振り返り、倒れてくるそれに気づいて急いで避けようとした。だが、畑の畝に蹴躓いた。跪き、再び振り返る。まるでリリスが引き寄せてでもいるかのようにまっすぐに、赤い炎に包まれた大木が襲いかかってきた。きゃあ、ともはやリリスは声をあげることしかできず、死という運命をほとんど受け入れたかのように見えた。

 瞬間、淡い緑の光が現れた。燃えるプラタナスが、その火の粉がリリスに襲いかかる直前に傘のように彼女を守り、倒れそうになった大木をそっと手で包み込んでそっと脇へと避けた。淡い緑の光は風のようでもあったし、水のようでもあった。残像が闇にかかる光の帷のように揺れてから、すぐに消えた。目をつむっていたリリスが顔を上げると、トマスの手にはまだ淡い光がまとわりつくように残っていた。

「トマス……?」

「リリス、大丈夫か」

 トマスはリリスに駆け寄り、抱え上げるようにして彼女を立たせた。リリスの体は冷たく、震えていた。恐怖のせいか、あるいは、寒さのせいなのか、彼女自身にも区別がつかなかった。倒れたプラタナスが大地を割るような音を轟かせながら燃えていたはずなのに、それもすぐに消え、黒焦げの幹とへし折られた小麦だけが残された。

「トマス、さっきのどうやったの?」

「……わからない、でも、ただ助けてくれって願ったんだ。それだけだった」

 リリスは彼の腕に支えられながら、すぐ近くでじっと見つめる。雨と汗に濡れて、すっかり汚れも流れ落ち、深い肌の色がよくわかった。黒い瞳はその奥に静かな光を宿している。綺麗な顔をしていた。

「なんだ、やっぱり魔法使えるんじゃない」

 リリスは笑った。

 空にはまだ鈍色の雲。そして降り続く激しい雨。だけどきっと、すぐ晴れる。トマスは思った。

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