夜明け⑥

「マルコは誰が一番力があると思う?」

 アリアンは尋ねた。ちょうどレナートは休憩していて、グレイは畑には出ていない。畑で二人きりで話せるいい機会だった。そうでないと、どこにいても常に誰かがいて、常にどこかで気を張らなければならない気がした。

「……まあ、リリスだろうな」

「やっぱりそうだよね、同感。まずは彼女の力から引き出してみるよ。といっても、引き出すってほどじゃないかもしれないけど」

 森に足を踏み入れた時のすこし湿った空気と、微かに梢から降るような葉擦れの音、柔らかな木漏れ日に豊かな鳥の声、ほんのり冷たい風、土のにおい。リリスはどこかそうした森の豊かさを備えているように思えた。

「潜在能力からいえば、他にも期待できる者はいるが……」

「うん、そうだね。でも、そういう意味ではさ……できれば、そのうちマルコも力を貸して欲しいかな。リリスよりもはるかに大きな力がありそうだし」

「……それは、どういう意味だ」

 アリアンは少し困ったように眉を寄せてから、すぐに諦め、微笑した。

「いや、いいんだ。気にしないで。さっそくリリスと話してみると。僕が彼らみんなの力をうまく引き出せれば、二倍どころか四倍だって夢じゃない。グレイとマルコで、最高の農場を作ることができると思うよ」

「……もちろん、俺はそのつもりだ」

 マルコは遠くを見据えた。その視線のはるか先にあるのは広大な森だった。森はあと一年半近く、切られずにそのままの姿を保ち続けることが約束されているものの、その先はわからない。たとえマルコたちが国王との約束を果たせたとしても、国王がその約束を果たすとも限らない。そもそも国王からすれば国が豊かになるならば手段など二の次だ、森が残ろうが消えようが、エルフの血が続こうが途絶えようが、そんなことは関係なかった。


「リリス、さっそくいいかな」

 リリスは黒い瞳でじっとアリアンを見据え、黙ったまま深く頷いた。

「まずはじめに、君は自身に魔力があるのは気づいている?」

 リリスは再び頷く。言葉はなかった。

「じゃあ、使ったことはあるってことでいいかな」

「はい」

 アリアンはリリスの腕を取ると、それを高く掲げさせた。そして西の方をみやると、目をつむる。左手でリリスの手首をつかんだまま、反対の手を高く掲げて言葉を発した。

「シンディリス・アルカラミア」

 風が吹き始める。と同時に、アリアンの右手があわく光を放ち、共鳴するようにしてリリスの手も光っていた。

 日が傾き、橙色の光が畑を照らしていた。その中で、ほのかに冷たい緑色の光は目立っている。刈り取られたばかりの小麦がさざめき、リリスのことを噂し合っているかのようだった。

「さあ、リリスも唱えてごらん」

「……シンディリス・アルカラミア」

 にわかに高い空が色づき始めた。風を巧みに農場へと引き込むことに成功したのだ。カラスミロスがもたらす栄養素がゆっくりと畑に降り注いでいった。西日に煌めき、細かな宝石が降るようだ。砂に含まれる豊かな栄養と鉱物とが、いっぱいに太陽を吸って輝く。不思議な光景だった。

 リリスは目を丸くして、隣に立つアリアンを見た。アリアンがうんと頷く。

 一度きりで成功するのはアリアンも想像していなかった。それだけリリスの力が豊かな証拠だ。

 ——これなら順調に進むかもしれない。

「今まで風や水を呼んだことはなかったの?」

 リリスはまだ驚きが抜けきらないのか、しばらく口を開いたまま、深い息をしていた。そして、自らの心を落ち着けるような緩やかな口調でいった。

「なかった……です。声はよく聞こえていたけど、あたしの声が届くとは思わなかったから」

「じゃあ、まずは言葉を覚えないとね。彼らには、彼らにしか通じない言葉があるから。風も、水も、植物たちも。そしたら一人でもこれくらいのことはできるようになるから」

 リリスは眉を寄せて首を振る。

「どうしたの?」

「違う、あたしの力は消えていくのがわかる……わかるんです。このまま時間が経てばどんどん薄れて、あたしはきっと役立たずの奴隷になっちゃうから」

 うん、とアリアンはいってから、握っていた手を離した。そして真正面からリリスの瞳を覗き込むように立った。

「そう。だからこそ君たちの力が必要だし、森が失われれば、僕だって力を失うんだよ。エルフの血を多少なりとも引くならば例外はない。その時には魔力が失われるだけでなく、生命だって絶たれるんだ」

「……あたし、死にたくないです」

 二人の様子を見ていたマルコが近づいてきた。彼の髪は、その一本いっぽんが日の光を反射する銀か金の繊維で編まれたかのような眩い輝きを見せている。どうしたって、人間のそれには見えなかった。

 ——これで隠し通せると思っているんだもんな。

 アリアンは思わず笑みを漏らした。

「どうかしたか?」

「ああ、いや。森とエルフの生命の話をしたんだ。森が絶えれば、僕たちの命だって同様に絶えるのだってね」

 リリスは涙目になって、罠に捕らえられた小鹿ようなあわれに潤んだ瞳で、必死にマルコに訴えかけていた。

「命は限りあるものだ。森が生きようと、死のうと、長いか短いかの違いしかない。それ以上に俺たちは、エルフの血や、森そのものの生命のことを考えるべきだろう。永遠ではなくとも、永遠のように長く続くものごとだってこの世界にはあるのだから」

「あたしたちは死んでしまうのに、どうして森や農場のために働かなければならないのですか……」

 リリスの言葉は理にかなっていた。

 アリアンとマルコは顔を合わせ、苦笑した。まったくその通りだ、反論の余地もない。

 本当はなんの意味もないのかもしれない。未来に森をつなぐこと、今を生きている人間に残る、薄まりきったエルフの血を守ること、そしてそれもいずれは薄れ切って失われてしまうであろうこと、さらに奴隷たちを解放へと導くこと。わかっていたが、わかっていながらも、そうすべきだと彼らは考えた。今、この瞬間に自分の確かさ、自分たちの正しさに向かって進む以外にしかたがないのだ。生は、本来的に無意味であってしかるべきなのだから。

「俺は今、俺にとって大切なものを守りたい。俺が死んでからの世界でも、それが長く続いてくれることを、その美しさを保ってくれることを、今この瞬間も望んでいる。ただそれだけだよ」

「僕も同意見かな。なにより森は素晴らしい。あの豊かな空気と、風と水、樹々の囁き、鈴のような小鳥の声。音楽が、豊かな実りが、日の輝きが、馥郁たる花の香りが、あちこちに溢れているから。それが長く続いてほしいと願うことは、それほどおかしいことかな。たとえそれが永遠ではなくても、僕の目の前で終焉を迎えてほしくはないって願うことはさ」

「でも、……でも、それと農場は関係ないんじゃないですか?」

 リリスに躊躇いは消え、遠慮せずに、思うままのことを語っていた。奴隷であったはずのリリスにとってはとうに踏み越えてはいけない領分を大いに越えてしまっていたが、そんなことを微塵も気にかける様子がなかった。あくまで三人は対等な関係のつもりで話をしていた。まるでエルフたちが森と樹々と、そして草花と会話でもするかのように。

 それでいて論理はどこまでも人間的であった。リリスに限らず、マルコもアリアンも同じだ。彼ら三人の間で交わされる会話の背景にある論理は、人間の倫理観に従ったものでしかなく、その範囲を出なかった。当然だ。ここに純血はいない。純血のエルフは、ただそれだけを、ただそのままを受け入れて生きる。調和のみを重んじ、抗うことなどしなかったはずだ。

「その通り。でも、国王を納得させない限りは僕たちは森を守れない。あるいは、他にも手段が——」

 アリアンが言い切る前に、マルコが遮る。それ以上のことを、アリアンに語らせんとしたのだ。

「そうだ。農場を成功させて、国王を納得させれば森を守ることができるかもしれない。それに、奴隷たちだって今よりいい生活が約束されるかもしれない。自由が与えられるかもしれないんだ」

「……自由?」

 リリスは首を傾げる。

 少し離れたところで、レイラとケインが残された麦の茎や葉を畑にすき込んでいた。ちょうど降ったばかりの砂も一緒にすき込まれる。そうして土は再び肥え、回復する。繰り返しだった。

「自由なんてもの、この世界に本当にあるのですか? あたしには、みんな自由には見えない……奴隷だけが自由から遠いんじゃないと思います」

 そういったきり、リリスは涙目になって黙ってしまった。

 またしても、マルコやアリアンに反論する言葉はなかった。彼らにもきっと、自由がなにかなどわかっていなかったし、たとえわかっていたとしたって、それが手の内にあるとは確信できなかったからだ。

 日が沈み、作業が終わった。暗い畑を歩くリリスの背中は、徐々に夜の闇に飲み込まれて消えた。


 その日からリリスはアリアンに協力するようになった。涙を見せていたものの、森を守る試み、農場を守る試みになにか意味があるものと、すがるような気持ちだったのだろう、翌日からは熱心にアリアンの教えを乞うた。

 リリスに続いて他の四人もアリアンに従い、魔力を用いることを学んだ。

 結果として風や雨を呼べるようになったのはリリスだけだが、レイラ、ケイン、アリアは次第に風や雨、草木の言葉を解するようになった。

 最後にトマスが残されたが、彼が能力を開かせることはなかった。


「トマスは懸命に働いている。十分ではないか」

 そういうのは、意外にもレナートだった。

 確かにトマスは機敏に働き回り、収穫や作付けの際には、人の二倍も三倍もよく働いた。

 魔力を用いた風や水の誘導も、他の四人だけで十分にも思えたが、アリアンは納得しない。

「トマス自身に力がないわけじゃないんだ。彼が彼自身の力を信じていないから、力が発揮されないだけだよ。おそらく彼はリリスの次に力がある。これから冬になって、春まではできることが少ないから問題ないけど、いざ春になれば空や風の様子がどうなるかなんてわからないよ。僕たちの予期しないことが起こるかもしれない。もっと大きな力が必要になるかもしれない。今は四人でどうにかなっているからって、これからも四人で十分だってことを意味しないんだから」

 マルコはアリアンの言う通りだと理解しながらも、レナートの言い分にも一理あると思った。今は他に仕方がない。なによりもまず、本格的な冬が訪れるまでに、今できることを終えなければならない。迅速に、すべきことを済ます。それが肝要だ。

「とりあえず、今できることをやる以外にないだろう。アリアン、お前の言い分は俺にだってわかるが、すべてが思い通りにいくわけじゃあない。一つずつ、課題を乗り越えていくしかないだろう」

 アリアンは不満そうに眉をひそめたが、マルコの言葉を黙って受け入れたようだった。

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