夜明け④

 グレイが王に掛け合い、二年間は森の一画には斧を入れない約束を取り付けた。つまり、その間に成果を出し、かつ、エルフの魔力が役に立つことを証明できたならば、森が守られることは約束されたということだった。

 また、奴隷のうち、エルフの力を濃く残しているものたちだけは、決められた労働と引き換えに、限られた自由が与えられる。

 あらゆる奴隷が救われるわけではないが、少なくともいくらかの奴隷の待遇は大幅に改善されることが予想された。

 ——まあ、奴隷よりかはいくらかましか。

 種まきの季節はとうに過ぎていたものの、その年から始めるしかなかった。秋蒔きの小麦は冬を越えて、再び成長を始めようとしていた。じゃがいもの作付けも大部分が終わり、芽を出し始めている。それでも、これからできることを一つひとつ地道に進めていく以外、すべきことはない。


「紹介する。レナート・シャドウウォークだ。私が雇っている唯一の監視人だ」

 グレイが初めて農場を見せた日、マルコとアリアンに一人の男を紹介した。

 年齢はマルコよりもいくらか上だろうか、少なくともグレイよりかは若い。背は高く筋肉質で、力をもって奴隷を制するのが容易いのが一目でわかる。黒い短髪で、ハの字型の太い眉が特徴的だった。口周りの髭は綺麗に剃られているものの、濃い青が肌の下に透けて見えていた。

「よろしく、マルコ」

 レナートはアリアンには目もくれず、マルコだけに向かって手を差し出した。

「ああ、よろしく」

 アリアンは特に気にもかけなかったが、マルコが気まずそうに視線を逸らした。

「レナート、彼はアリアンだ。エルフの血を濃く引いている。元は奴隷だが、太古のエルフの力を持ち合わせている。仲良くしてやってくれ。私たちの命運を握る大切な仲間の一人なのだ」

「……ああ、よろしくたのむ」

 そうはいったが、レナートは手を差し出そうとはしなかった。

 ——まあ、そんなものだろう。

「うん、よろしくね」

 アリアンは微塵も邪気を見せることなく、満面の笑みでレナートに応じた。その勢いに気押されたのか、レナートは少しだけ眉を寄せ、ハの字は一層急勾配へと変じた。

「彼に加えて、あと奴隷が五人いるが……」

 グレイはアリアンを盗み見る。

 アリアンは構わないんだとでもいわんばかりに、軽く首を振った。グレイには、その奴隷たちの名前がわからなかった。そもそも監視人は奴隷の名前などいちいち覚えていないことなど当然だった。彼らにとって、奴隷は道具に過ぎなかった。

「これだけの人数でこの農場をやりくりしている。そこに今日からマルコとアリアンが加わるわけだが、それで今までの二倍ないし四倍程度の収穫が期待される」

「四倍!」

 レナートが吠えるように声を放った。

 同じ土地から四倍の量の収穫など、常識的にはありえない、実際、二倍でもありえないのだ。労働力の問題だけではない。実りが増えれば当然のように土地は早く痩せてしまうし、土地を休ませるにも再び肥やすのにも多くの時間を割かなければならない。

 どうすればそんなことが可能だというのかと、レナートは半ば憤るようにグレイに歯向かった。

「そんな馬鹿な話がありますか。二倍ですら無理ですよ。そもそも私たちの畑では国王領より一割、多い時では三割は収穫が多いんですから。昼夜働き通しにしてみたって不可能です。そんなの人間業じゃな——」

「いや、不可能ってことはないと思うけどな。……まあ、確かに人間業じゃあないけどね」

 アリアンは舌を出し、子供っぽく笑った。

「少しだけ実演してみようか」

 そういうと、手を高く掲げた。白い肌が太陽に透けるように輝いていた。その指先から燃えるように青い光が一瞬だけ立つと、すぐに消えた。それから、なにも起こらなかった。

「なにも起こらないじゃないか」

「まあ、もうちょっと待ってみてよ」

 少し経つと、西の方から乾いた風が吹いてきた。太陽を濁らせるかのように、空を黄色いもやが覆っていった。砂だ。細かな粒子が宙空できらめきながら、ゆっくりと畑に降り注いでいく。寒い冬の朝の凍てつく空気が、日に照り輝くような美しさだった。

「……なるほど、カラスミロスか」

 グレイは恍惚とした表情でつぶやいた。

「まさか、カラスミロスを自らの力で起こしたと?」

 レナートはそういってから口を半ば開いたまま、ぼんやりともやのかかった空を眺めやった。

「必ずしも、僕の力ですべてやったわけじゃないよ。自然の持つ力を、ちょっと手助けしてあげただけ。あなたたちがカラスミロスと呼ぶは元々、遠く西方の砂地から吹く風なんだよ。そこには太古の湖があった。今じゃ涸れてるけどね。その砂の底には、無数の湖の生き物の死骸が埋まっている。その生き物たちのかつての命が、僕たちの植物の新しい命に変わる。あらゆる生命は循環している。僕たちのからだは、太古の生物の命によって支えられているんだ」

 アリアンを除く三人は、彼の説明をただ聞いていた。エルフの血が、風や水を操る魔力を持つとは聞いたことがあったものの、いざそれを現実として目の前にすると、脅威を感じざるを得なかった。いや、恐怖といってもいい。例えばこれが、エルフの血を引かない人間に対して向けられたら。到底、勝ち目などなかったのではないか。なぜ、ヴァレンシアンの王カイロス・ドラコニウスは、これほどの力を持つエルフの森を奪うことができたのだろう。

 三人は三人とも、目の前で起きたこと、過去にヴァレンシアンの国で起きたこと、そしれこれから起こるかもしれないことに考えを巡らせていた。それくらいまでに、アリアンの力は強大だと感じた。

 それを察したのか、アリアンが弁明するようにいう。

「なんていうか……。すごい期待してくれてるところ申し訳ないんだけど、さっきも言った通り、僕がやったのは自然の持つ力に対してちょっとした手助けをしただけだよ。風は吹き始めていた。その風に、僕の意思と植物の願いを託した。本当はこの畑までは届かなかったであろうを、空の道を通じてここまで通したっていう、ただそれだけの話だよ。樹々や草花の望みを叶えるためにしか、僕たちの力は使うことはできない。たとえば人や動物の命を奪ったり、危害を加えたりすることに用いることはできないんだよ。……なんだか期待に添えなくて申し訳ないんだけどさ」

「いや、これだけの力があれば十分すぎるだろう。レナート、なにかアリアンに申すべきことはあるか」

「……アリアン。是非とも、あなたの力をお借りしたい」

 レナートは遠慮がちに、手を差し伸べた。

「もちろん。僕はそのつもりでここへ来たから」

 アリアンは、今度もさっきと同じように満面の笑みをみせ、力強くレナートの手を握った。



 夏になると小麦の収穫期を迎えた。

 アリアンの助力によって収穫量は五割ほど増えたが、目標としていた二倍以上の収穫には至らなかった。

 グレイが王に報告したものの、その反応も芳しいものではなかった。当然ながら、はなから二倍や三倍を期待させるようなことはいわなかったものの、森を切り開くことを止めるということは、その程度の収穫が期待できなければ意味がない。でなければ、さっさと森を切り開いて畑地にして、効率は悪くとも、広大な土地によって作物の生産量を増やし、さらには国力を増大していけばいいのだ。

 当初の約束通り、猶予期間は二年だった。春に始めて、まだ夏が過ぎただけだ。アリアンの力は凄まじかったが、それだけでは十分ではなかった。


 秋の種蒔きまで手をこまねいて待つわけにはいかない。グレイの農場では夏の間、豆を育てている。奴隷農場の大部分では畑を休ませるため、秋にすき込み肥やしとなるような草を育てていたが、グレイはその間、畑を休ませておくのはもったいないと考えたのだ。

 肥やしがなければ作ればいい、グレイはそう考えた。

「これを畑にまくの?」

「ああ、そうだ」

 レナートが表情ひとつ変えずにそう答えると、アリアンは眉をひそめた。

「だってこれ、人の排泄物でしょ。感染症とかそういうのは平気なわけ? 病気にならない?」

「糞尿に木屑を混ぜて発酵させるんだ。カラスミロスに匹敵するか、それ以上の肥やしとなる。感染症は……」

 レナート少し気まずそうに目を逸らした。視線の先には奴隷たちの姿があった。

 わかっている。アリアンだって例外ではないが、彼らはあくまでも自分たちの利益のためにこの試みに手を貸しているのだ。奴隷たちを解放するためではない。アリアンもまた、それを目的としていない。森を守るためだ。目的は一致しなくとも、目的に至るための手段と、その過程で得られる利益が一致しているのだから、手を取り合わない理由もない。それだけだ。だが——。

「奴隷が死ぬことは珍しくはない。ここの農場では、むしろ死人は少ないほうだと思うぞ」

 マルコがレナートに助け舟を出した。

 実際問題として、そこで作業する奴隷たちにとっては感染症や病のリスクがある。だが、死をもたらすほどの重病になることは多くなかった。グレイの農場では、奴隷たちにたっぷり栄養を摂らせていた。働くには、まず肉体が第一義だ。朝昼晩三食の飯と、農場での十分な労働さえあれば、健康な身体を保つには十分だった。

「少なくとも、われわれにはさほどの危険はない。直接土に触れることもなければ、奴隷たちとの接触だってないのだから」

 レナートがいう。

 アリアンは広い畑を見回した。小麦の収穫より少し早く豆を蒔き、畝には芽を出した短い草が青々と茂り、日の光を浴びていた。

 小麦と豆の相性は良い。交互に植えることでそれぞれの成長に役立つのだが、それでも土地は自然とやせていくことには変わりなかった。奴隷たちは木桶をかつぎ、小麦と豆とのわずかな隙間を縫うように歩きながら、そこに追肥していく。一年に何度もこの作業を行わなければあっというまに土地は痩せてしまうという。

「まあ、この農場の奴隷の心配をするよりもまず、俺たち自身の心配をしなけりゃならないだろう。来年の小麦は、少なくとも去年の倍は収穫しなければならないんだからな」

 マルコがいう。そこに暗い調子はない。胸を張り、遠くを見据え、自信ありげに高々と声をあげる。グレイの前でなければ、マルコは堂々とした、ひとりの立派な監視人に違いなかった。

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