夜明け③

 門番の同僚にはいつもの三倍の額を支払った。

「お前がそういう趣味の持ち主だったとはなあ」

 揶揄うように笑う男は、アリアンの顔をちらりと盗み見た。そして再び、いやらしい笑みを浮かべる。の品定めをするように舌舐めずりして、熱い息を漏らしていた。

「三倍の額を支払ったんだ。内密に頼む」

「わかってるっての。良かったら、今度俺にも試させてくれよな」

 ——畜生め。

 マルコは微笑を浮かべ、誤魔化すようにその場を後にした。

「平気なんですか。あの人、いい人間ではなさそうでした。告げ口するのでは?」

「時間の問題だろうな」

 そもそも奴隷の宿舎からアリアンを連れ出し、監視人の宿舎へと連れて行くとしたなら、すぐにでもあらゆる監視人に知れてしまう。連れて行ける場所など、一つしかない。

「頼れる人を、一人だけ知っている。そこへ行く」

 奴隷の宿舎周辺は厳重な警戒網が張られているものの、そこを出てしまえば警備がゆるくなる。農場は広く、その広大な土地の周囲をぐるりと人を立たせておくことなど現実的ではなかった。マルコ自身、警備に立つときにその配置や人と人との距離などを前もって把握していた。いつか役立つことをのだ。

「東の外れに、グレゴリウス・アイアンハートという人の家がある。かつては農場の一部だったが、彼が国王から直々に賜わった土地だ。奴隷農場の何倍もの小麦やじゃがいもが収穫されている。鶏や山羊もいるから、卵や乳だってある。グレイが作り上げた、豊かな土地だよ」

「そのグレイって人、あなたの大切な人のようですね」

 アリアンはさも当然のようにいった。

 マルコはどう答えるべきかわからず、ただ頭を掻いて、首を傾げてみせた。

「そういえば……」

 奴隷農場のはずれあたりまで来ていた。東南東付近の農道からそれた、畝と畝との間の細い道を抜けていた。春でまだ作物は背も低く、身を隠せるような場所もないが、今晩は運良く、月は出ておらず、暗い。篝火も遠い。見張りもここからは遠い。見つかることはないだろう。

「まだ名乗っていなかったな。マルコだ。監視人を始めて、もう二十年以上になる」

「二十年……というと、今は三十代の半ばくらいですか?」

 なぜ年齢など訊くのだろうか。あまり意味のある質問には思えなかったが、マルコは特に気にするでもなく答えた。

「三十一になった。十歳くらいからずっとここで働いている。ちょうど、お前くらいの年齢か」

「……ええ、そうかもしれませんね。……それにしてもマルコさん、どうしたって三十代には見えませんが」

 マルコの肌はつやつやとした張りがあり、瑞々しく澄んでいた。軍神に由来するその名には似合わず、気を抜くと本来の柔和な表情が顔にあらわれてしまう。頬は丸みを帯びてゆるやかで、金色の髭は薄く、生えていてもほとんど目立たない。マルコは、自身の容姿を嫌っていた。なにより仕事がしにくい。監視人には威厳と威圧感、風格がなければならない。奴隷に素直に言い聞かせるには、説得力が必要なのだ。眉間の皺は欠かせない。

「……黙って歩け」

 アリアンは唐突に無愛想になるマルコを見て、気づかれぬようにクスリと笑った。なるほど、悪人どころか、悪人面すら上手に演じることのできないほどの善人なのだ。アリアンは自分の見る目の正しさを、また、この選択の正しさをも確信した。当然のように自分をひとりの人間として扱う、相手の人間。人と人との関わりに見られる当然の関係性が、あの小さな宿舎の中では、あるいは農場の暗い空の下では、あっという間に失われてしまう。同部屋のあの男も、あるいは女だって、アリアンを都合の良い魔法使い程度にしか見ていなかった。だけど、マルコだけは違う。久しぶりの感覚。懐かしい感覚。自分が一人の人間だという当たり前のことを、ようやく思い出した。

 畑のやわらかな土の上を歩きながら、ふと振り返った。次第に遠ざかっていく奴隷宿舎の篝火が、ぼんやりと闇に消えていくのがわかる。そして、新しい光が東の果てに見える。

 ——そうか、もう僕は奴隷ではないのだ。

 アリアンはあらためて踏み締める畑のやわらかさに足をとらわれないよう、しっかりと、その感触を確かめながら、またあらたな一歩を踏み出した。



 ドン、ドンッと、マルコは家の扉を乱暴に叩いた。深夜だ。まだ日の出までは時間がある。

「誰だ!」

 こんな時間に人が尋ねてきたとなれば、警戒しないわけがない。中から怒鳴るような声が返ってきた。

「俺だよ。マルコだ」

 鍵の音が鳴り、扉が開いた。そこには初老の、だがいかにも頑健な肉体を持つ、農夫らしき男がいた。彼がグレイ、グレゴリウス・アイアンハートなのだろう。暗がりの中、アリアンは彼の姿を観察するようにじっくりと見た。

「こんな時間になんの用だ」

「エルフの血の濃い人間を見つけたんだよ。グレイ、あんたはずっと言っていただろう。森をよみがえらせ、農地を豊かにするには、彼らの魔法が必要だって」

「……馬鹿者が。いいから中へ入れ」

 二人を中へ招き入れると、グレイは燭台に火を灯した。橙色の光が、部屋をほんのわずかに照らしたが、この時間はどうしたってまだ暗かった。

「ついに見つけたんだよ。ほら、どう見たってエルフだろう」

 マルコがアリアンの両肩と背後からつかみ、グレイの目の前に突き出した。監視人のやるような、いかにも乱暴な所作だった。グレイを前にして興奮しているのか、彼はぎらぎらと瞳を輝かせていた。アリアンはその両肩に、マルコが握りしめる指の重みを嫌というほど感じた。

「……ああ、間違いないだろうな。だが、まずは落ち着かんか。そこに座れ。茶を淹れる」

「……ああうん。わかった」

 ついさっきまでは堂々と振る舞っていたはずのマルコが子供のように見えた。自由、これが自由か。そんなわけがない。農場から出たはずのこの場所で、もともと自由の身であるはずのマルコは、なにかに囚われているようにしか見えなかった。

「アリアン、座れ」

 マルコの低い声は、いかにも威厳を込めているかのようだった。

「はい」

 アリアンは素直にそれに応じた。

 台所でグレイは茶を淹れている。一人暮らしなのだろうか、こぢんまりとした部屋の中には物が少ない。書棚と食卓、長椅子を除けば、ほとんどなにもないに等しい。台所にも最小限のものしか置かれていないだろう。春の夜はまだ冷える。暖炉もつけずに初老の男性がこの部屋で眠っていたのかと思うと、アリアンは少し寂しい気持ちになった。

「ほれ、まずは茶を飲め」

 コップを三つ並べると、グレイは二人の正面に座った。

「温まるだろう。この時間は冷えていけない」

「起こしてしまったよね。すまなかった」

 マルコは落ち着きを取り戻して、平らかな声でいった。

「お前さんがどうして興奮しながら我が家を訪れたのか、理解できなくもないよ。ほれ、そなたはなんと申すか」

「アリアンです」

「……アリアンか。その瞳、その耳、輝く髪と透き通るような肌。見紛うことなきエルフの血筋じゃな。年齢は……三十過ぎといったところか。マルコとそう変わらぬだろう」

 マルコは「えっ」と思わず声を漏らした。容姿は子供だったが、アリアンはもはや子供と呼べる年齢ではなかった。

 エルフの時間は遅い。アリアンのように濃いエルフの血が混ざっていれば、人間であってもそれなりに時間は遅くなる。成熟した大人のような容姿になるには、あと十年は必要だった。

「百年、いや、二百年くらいは生きるだろう」

「いえ。森が死ねば、僕の命もその限りです」

「……森が生き延びれば?」

「三百年はくだらないでしょう。だから、僕はまだ子供のような容姿なんですよ」

「ふむ、なるほどなあ……」

 グレイはコップを持ち上げると、熱い茶をためらいもなく飲む。マルコ、アリアンも続いて口をつけるが、熱すぎて飲めたものではなかった。

「で、マルコ。お前はどうするつもりでアリアンを私のもとへ連れてきたのだ?」

「……それは。それは、この農場をより豊かにするため、それと、森を取り戻すためです」

「農場を豊かにか……」

 アリアンは二人の表情を盗み見るものの、その関係性が理解できなかった。マルコは遠慮しているように見えながらも、甘えているようでもある。グレイはそれに手を焼いているかのようだが、許しているようにも見えた。

 似てはいない。親子ではないらしい。師弟か。それにしては、二人の距離はあまりに近すぎるようにも思えた。

「お前の思いはありがたいが、そのためであるならば、私に構ってもらわなくても良い。私は、私のやりかたでこの農場を、森を奪うことなく豊かにしていくと決めた。お前に出会った日から、ずっとその決意は変わっていない。だが、お前が森を取り戻したいというならば……ならば、私は力を貸そう」

「……では、力をお貸しください」

 グレイは睨むような鋭い視線でアリアンを見やる。

 アリアンは目を逸さなかった。その視線を正面から受け止め、その意図を読み取ろうとした。やがてグレイは口を開いた。

「となれば、そなたの力を貸りたい。私は王に掛け合うことができる。かつて王の直轄地の食糧生産を向上させた功績の報いに、私はこの地を得たのだ。王からの信頼も篤い。いわんとすることがわかるな。エルフの血を継ぐものと人間とで、共に手を取る時がついに訪れたのかもしれない」

 ——なるほど。

 アリアンは項垂れるようにして、机に置かれたコップに視線を落とした。

 つまり、王の許可を得たうえで、エルフの魔力で農業生産を向上しようという話だろう。だが、いうほど簡単ではない。散々エルフの血を引くものを奴隷として使役してきたのに、今になって手を取り合って協力しようなどという道理は通らない。奴隷たちをすべて解放するのか、自由を与えるのか、あるいはそれ以上の権利を与えるのか。となれば、今度は国王がそれを許すわけがないし、監視人だって仕事を失うんじゃないのか。

 マルコが不安げに視線を揺らす。アリアンを見たり、グレイを見たり、白み始めた窓の外の空を見たりと、見るべきもの、行くべき場所に迷っているかのようだ。アリアンはその様子に当てられたかのように、にわかに鼓動が高まるのがわかった。

 ——本当に大丈夫だろうか。

「もちろん、ある程度は覚悟の上で僕はここへ来た。でも、他の奴隷たちは僕と同じ考えとは限らないし、エルフの血の濃い奴隷だって今じゃそう多くはなくなってしまっていると思う……。それだけの材料で王に掛け合えるほどの信頼を得ているって言い切れるの?」

「わかっておる。今すぐには難しいだろう。だからこそそなたの力を貸してほしいと願っている。まずは私のこの土地を使って、証明して見せなければならない。劇的な生産性の向上を示してみせれば、王だって首を縦に振らざるを得んだろう」

 ——そんな簡単に行くわけがない。

「……うん、わかったよ。力を貸そう。ただし先に約束して。もし成果を出しても王が納得しなかったら、その時こそそっちが僕の手助けをして欲しい。僕が、あるいは他のエルフたちが力を貸す時は、あくまで森のためだから。もし森を守れないならなんの意味もないんだ」

「わかった」

 グレイが答えた。後からマルコも追って頷いた。




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