夜明け②

 夜、マルコは唐突に目が覚めた。

 ——胸騒ぎがする。

 奴隷たちの宿舎は監視人の宿舎のすぐ隣に位置している。監視人は夜間、交代で奴隷の監視につく。その手には鞭ではなく、剣や弓がおさまる。当然、逃亡となればその場で殺される。奴隷の宿命だった。見せしめとして殺す以外に手段がない。でなければ、秩序の維持は難しい。一人、また一人と逃亡者が現れた時にはもう、監視人だけの力では対処できなくなるからだった。数は奴隷の方が多い。

 宿舎を出た。

 点々と灯された篝火が農場へと続き、森の手前で途切れていた。隣の奴隷の宿舎の周辺にも同じように篝火が焚かれ、ぐるりと建物を囲んで不気味に照らしていた。マルコは奴隷の宿舎の方へと歩いていった。

 宿舎の前に同僚の姿をみとめた。

「よお、異変はないか」

「なんだマルコ、お前がこんな時間に来るなんて珍しいな。か?」

「まあ、そんなところだよ」

 戸の前に立った同僚は、マルコを揶揄うようにいやらしい微笑を浮かべた。

 夜に奴隷に用があるとなれば理由は限られる。エルフの血を引くだけあり、稀ではあるが、奴隷の中には極めて美しいものもあった。そのため、ヴォルガーのように嗜虐的な嗜好を持ち合わせてはいなくとも、夜を目当てで監視人になる男はいくらでもいる。

 戸の前に立つこの男も、きっとその一人なのだろう。にやにやと笑みを浮かべて手を差し出した。

「じゃあ、もちろん」

「ああ、わかってるさ」

 マルコは小銭を同僚に握らせた。特別に禁じられているわけではないが、王の直轄地である農場でそんなことをしていると告げ口されれば、なんらかの処分があって然るべきだろう。監視人たちの間でその日の門番に賄賂を渡すのが慣習となっていた。

 マルコは中に入った。もちろん、彼は奴隷を抱くために入ったわけではない。単に勘が働いたからだ。

 小さい頃からマルコには不思議な力がそなわっていた。家に押し入った賊に両親が殺された時も、マルコは家でなにかが起こっていることを察し、畑仕事から家へは戻らず、森の薄闇の中、夜が明けるまで隠れていた。奴隷農場の監視人に拾われたのも、自身が奴隷になるかならないかの瀬戸際で勘が働いたのだと思う。養父であるグレイは見るからに厳しい監視人だったが、仕事に対して徹底していて、合理的、実践的だが、根は優しい人だった。拾われたのは運が良かっただけじゃない、マルコは自身の勘に頼って、監視人としてグレイに弟子入りを志願したのだ。それだけがきっと、生き延びる道だった。森を出て、広々とした畑で働くのも、結果的には悪くはなかった。

 マルコはそうして、自分の勘というものを信じるようになった。

 建物の中は長い廊下が一本中央に走り、その両端に奴隷の部屋がある。その長い廊下から、それぞれの奴隷たちの部屋が監視できる。格子窓になっていて、廊下側からはよく見えるが、部屋から廊下は見えにくい。

 マルコは音を立てぬよう静かに扉を開け、忍び足でゆっくりと歩いた。大半は眠っているらしかったが、奥の方でなにか気配がした。部屋ごとに並ぶ蝋燭の光ではない、あわい緑の光が見えた。森で見る、蛍の光のようだった。

「誰だ」

 マルコは思わず声を出した。光は消えた。

 さっき光が見えたあたり歩く。さっきの声で起きないわけがない、どうやらどの奴隷も眠ったふりをしているらしい。この時間に監視人が訪れるとなれば、夜の付き合いに決まっている。顔を見られ、見初められれば、相手をすることを避けられない。どの部屋を覗き込んでも、奴隷たちは顔を隠すようにうつぶせで眠っていた。

 蝋燭の火を頼りにして、ちょうど光の見えたあたりの前の格子窓を覗き込んだ。三人用の部屋で、十歳くらいだろうか、小さな少年が一人と、昼間にヴォルガーの鞭でひどく打たれていた男の奴隷、それに若い女の奴隷が一人いた。

 男と女は身を寄せていた。恋人同士だろうか。だとしたら、小さな少年は奴隷の子供か。家族三人で暮らしているのか……。

 マルコは薄闇にじっと目をこらす。よくみると、少年だけが美しい金色の髪をしていた。そして、その髪から覗き見える耳はわずかに尖っていた。

「おい、近くへ寄れ」

 ガタッと、音を立てて女が起き上がった。男がそれを庇うように立ち上がると、うめきながら近くに来た。

「こいつだけは勘弁してください。私の大切な妻なのです。私がどんなご奉仕でもして差し上げましょう。私も、夜のお供は過去に数えられぬほど経験して参りましたから」

 男の顔は確かに美しかった。その顔が打たれて歪むのをヴォルガーは楽しんでいたに違いない。恐れ慄きながらこちらを見る女も、また美しかった。だが、二人とも赤髪で、鳶色の瞳だった。エルフの血は限りなく薄い。つまり、少年は二人の子ではないのだ。

「おい、そこの少年、近くへ寄れ」

 奴隷の男はさらに近づいてくると、悲痛な声でマルコに訴えた。

「まさか、そんなの酷すぎる。この子はまだ十にもなってないってのに。妻も、この子供も勘弁してください。私がなんだってしますから、ご奉仕いたしますから」

「俺にそんなつもりはない。少年、近くに寄って顔を見せろ」

 マルコは冷たい声でいった。

 くだらない戯れ事だ。子供に手を出す男だって無数といるだろうに、どうして少年を庇おうとするのか。他人だ。奴隷同士の馴れ合いならば、即刻彼らを引き離さなければならない。武器は監視人の方が多く持つが、人数は奴隷の方が圧倒的に多い。反乱が起これば互いに多少の犠牲では済まない。それだけに、奴隷たちの結束は監視人の危険を意味し、同時に、奴隷たち自身の危険をも意味する。この男の奴隷は、それを理解していないのか。

 マルコは苛立ちを感じた。美しいが、愚かな奴隷だと思った。

「おじさん、僕は平気だから」

 少年は立ち上がった。その声に奴隷の男は圧倒されたのか、黙り込み、ただ立ち尽くしていた。少年は部屋の扉の格子越しの、マルコの目の前に立った。

 予想していたことではあるが……それでもマルコは驚嘆せずにはいられなかった。尖った耳は、もはや隠されてはいない。瞳は深い翡翠色で、かつてカイロス・ドラコニウスが奪い去った、太古の輝きを底に宿している。誠に、エルフの血を引く者だった。

「少年、名はなんという」

「アリアン」

 マルコはその響きに、古代エルフ語とは違う雰囲気を感じた。この土地とは、別の系譜のエルフの末裔だろうか。彼は慎重に、優しい口調で尋ねた。

「アリアン、さっきの光はお前か? まだ魔力を残しているのか?」

「はい。おじさんの背中の怪我を治療していました」

 奴隷たちの中には、いまだに魔力を隠し持っているものがいるという噂は以前からあったが、それを本気にする監視人はいなかったし、実際、奴隷たちもそれを信じるものは多くはなかった。

 マルコはいざ本物を目の前にし、どうすべきかと困惑していた。

「ですが、僕の力は限られています。長続きもしないでしょう。森が尽きれば僕の力も同じく途絶えてしまいますから」

 翡翠色の瞳は一分の揺れも見せずにマルコを見据えていた。嘘のない、誠実な言葉。竪琴の音のような、澄んだ声。信頼に足ると、マルコの勘が判断した。

「その限られた力でなにができる。治癒のみか、植物を豊かに育てること、農地を肥えさせること、水を呼ぶこと、風を呼ぶこともできるのか」

「森がよみがえれば、それも不可能ではないかと。ですが、森は死のうとしています。森が死ねば、すべてが終わります。エルフなんて、最初からいなかったかのように」

 マルコは思案した。

 アリアンの言葉の通りならば、森を再生させることで農業の生産性を向上させられるかもしれない。アリアンに限らず、多くのエルフの血を引くものが、力を取り戻せる。つまり、森を守りながら食料を、富を増やすことができる。奪うことなく増やせる。労働力としての奴隷を最大限に活かすならば、これ以上の手段はない。

「……アリアン、俺と一緒に来る気はないか」

「馬鹿なことを。その子はまだ少年ですよ。何を背負わせる気ですか」

 しばらく黙って様子を見ていた男が、急に割って入ってきた。さっきまで見せていた遠慮は消え、醜悪な表情を闇の中に浮かべていた。

 そうか、とマルコは納得する。この奴隷の男からすればアリアンは傷を治療してくれるし、魔力があるということは、いずれ反乱などが起きたときに、大いに役に立つに違いないと考えているのだ。奴隷たちを守る力を持っているアリアンを奪われたくないのだろう。結びつきは情ではなく、利益の方がずっと強いということか。

 ——ならば、俺とアリアンの方が大きな利益を生み出せるじゃないか。

「なら、お前がこの農場を、奴隷たちの現状を変えるだけの力があるのか?」

 マルコの強い言葉に男は黙った。

 少年が振り返って、その男の手を優しく握ると、再びさっき見た淡い緑色の光がぽおっと暗黒を照らした。

「大丈夫。この方は悪人じゃない。僕にはわかるんだ。大丈夫、きっと皆を救い出せるから」

 鍵を開けると、マルコは少年を外へ出した。

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