夜明け

夜明け①

「こらっ、止まるんじゃない。働け!」

 宙で蛇のようにくねりながら、奴隷の背に鞭が飛んだ。服の上からでも肌が裂けるのがわかる、パチンという軽快な音が空に抜けた。それに驚いたのか、樹上から小鳥たちが飛びたった。空から軽やかな歌声が聞こえた。

「春には種を蒔くはずだったのが、半年遅れちまった。これで一年まるまる損することになったじゃねえか。俺の給料は半額、お前らだってまともな飯は食わせてもらえねえ。それじゃあ互いに損じゃねえか、馬鹿野郎!」

 ——それは、その通りだが。

 再びヴォルガー・ブラッドスパーの手から鞭が放たれると、奴隷の背中を激しく打った。パチンと響く軽快な音。打たれた奴隷の足の歩みは遅れ、手も余計に動かなくなった。続けて鞭が飛び、空に乾いた音が抜け、その繰り返しだ。

 監視人は気分次第でどの奴隷に対しても鞭を打ちつけることができる。ヴォルガーのように嗜虐的な思考の持ち主にはうってつけの仕事だが、あいにくマルコはそんな趣味を持ち合わせてはいなかった。

 マルコはヴォルガーの肩に手を置いた。

「なあ、ちょっとやりすぎじゃねえか。それ以上やったら動かなくなっちまう。そうなりゃ俺たちにとったって損だろう。さっさと働かせようや」

「おお。……まあそれもそうだな」

 ヴォルガーの鞭はようやく腰に落ち着き、彼はそのまま森の木陰の方へと歩いていった。春とはいえ、日中に日の光の中で立ち続けていると疲れる。監視人もそれは奴隷と変わるところがなかった。彼は端の木の下に座り込むと、手のひらを枕にして昼寝を始めた。その樹上では、小鳥たちが清らかな歌をうたっていた。

「さあ、あと半日の辛抱だ。一仕事頼むぞ!」

 マルコは努めて明るく、朗々と声を張り上げた。奴隷たちは活発に動き始めた。

 ——そう、これで良い。

 とマルコは思う。

 無理やり働かせなくとも、奴隷は自分たちの仕事を心得ている。鞭ではなく、ちょっと言葉で背中を押してやれば、それで動く。その方が作業効率だって格段に上がる。これで良い。この方が、大事な労働力を損なうこともなく、労力も少なく働けるはずだ。

 ——まずなにより、はじめに用いるべきは言葉だ。鞭ではない。


 日が傾き、西の空が暖炉のように赤々と燃え始める頃、ようやくヴォルガーが目を覚ました。今日すべき抜根の作業をおおかた終え、八割程度にはすでに鍬が入れられていた。予定の半分くらいなら、春のうちに種を蒔けるかもしれない。少なくともヴォルガーがああして眠り続けてくれれば、マルコももう少し仕事がやりやすくなるし、効率だって格段に上がるだろう。

「ありゃ、すっかり進んでるじゃねえか。マルコ、こりゃエルフの魔法かなんか使ったんじゃねえのか」

 そんな冗談を飛ばずが、マルコは苦笑するしかなかった。笑えない冗談だ。エルフから魔法を奪ったのはヴァレンシアンの民、つまりは自分たちなのだから。

 奴隷たちは被差別民族で、その大半にはエルフの血が流れている。

 エルフには樹々と会話をしたり、風や水の声を聞いたり、それを利用して植物を豊かに育てる力を持っていた。森が豊かで、また、森の豊かさから命を与えらるエルフたちは、人間に比すべくもなく長命だった。

 それに目をつけたのがヴァレンシアンの王カイロス・ドラコニウスだ。

 エルフの長寿の秘密を探ろうとしたのか、あるいは植物を育てる魔力を奪おうとしたのか、その美しさに魅了されたのか、動機の詳細はもはや明らかにはならないだろう。

 エメラルドウッドではかつてエルフたちが安らぎと調和の中で生活していた。豊かな森にはいくつもの小川が流れ、多くの動物が棲み、生命の限りを謳歌していた。

 だが、栄枯盛衰、平穏に永遠はない。

 ヴァレンシアンは容赦無くエメラルドウッドに攻め入ると、エルフの平和はあっさり壊された。西の山脈の麓に残されていたわずかな森を焼き払われ、弓の名手であるエルフも、森という要塞なしではヴァレンシアン軍の騎馬に対抗する術はなかった。戦いはあっという間に終わった。

 人間と交わることを禁じられていたはずのエルフだったが、森を失えば彼らの住む場所はなくなり、当然、森とともにあったはずの長い命も限られるものとなってしまった。

 美しいエルフに人間たちが魅了されるも必然だった。たちまち人間とエルフの血は混ざり、エルフの血が急激に薄まっていき、エルフだけが持つ特別な力は失われ、人間とほとんど同化した。しかして、エルフの純血は途絶え、魔法も、森も、消え去り、残されたのが農場の奴隷たちだ。

 ヴォルガーだってその歴史を知らないはずがない。ヴァレンシアンの繁栄の礎はカイロス・ドラコニウスが築いた。現国王は先祖の栄光に胡座をかくだけでなく、さらなる繁栄を求め、あらたに森を切り倒し、農地の開拓を進めている。

 その農場でマルコとヴォルガーは働いていた。王の直轄地で働くからには、その程度の歴史は勉強していて当然なのだ。

「あはは、確かにエルフの魔法かもな。もし、そんなものが残っていたらだけど」

「残ってたんなら、奴隷たちの扱いにだってこんなに苦労はしないさ。魔力でさっさと草や木を育ててもらえりゃあ、俺たちはいつだってこんな鞭は捨ててしまってもかまわないってのにな」

 ヴォルガーはそう言って腰に手を当てた。赤茶けたその色は、数多のエルフの血を吸った証拠だ。マルコの腰には、プラタナスの樹皮のような淡い灰緑色の鞭が垂れ下がっていた。

「さあ、明日も早い。今日はここいらで終わりにして明日に備えよう」

 マルコはヴォルガーに帰るように促した。

 これ以上、奴隷を傷つけさせたくはなかった。大事な労働力を自ら減らすような失策を犯したくはない。彼はそれを理解したのか、あるいは早く帰って眠りたかったの、ああ、といって欠伸をしてから、監視人の宿舎へと歩いていった。背を低い日が照らし、長い影を伸ばしていた。

 これでもう大丈夫。少なくとも今日だけは、これ以上大事な労働力を傷つけられることはない。

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