閑話休題①

ChatGPTと遊ぶ。アリシア・ノヴァンティスの物語

 アリシア・ノヴァンティスはパソコン画面を食い入るように見た。おかしい、そんなはずはない、と自らに言い聞かせる。

 以下の物語をChatGPTが作り出した。約840字。


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**宇宙的なシンボルの冒険**


遥かな宇宙の彼方に、シンボルグラウンディングと呼ばれる異次元の存在が漂っていた。これはただの言葉ではなく、宇宙船とメリーゴーランド、空と意味の謎が交錯する場所だった。ペンギンたちは哲学的な冒険を求め、宇宙の果てから飛来した巨大な亀がその舞台の中心に立っていた。


ある日、ペンギンの哲学者、ペンタウラスはシンボルグラウンディングに挑戦することを決意した。彼はメリーゴーランドの中に佇み、宇宙船へと変容する瞬間を迎えた。すると、空は透明なチョコレートの波となり、ペンギンたちは音楽のような振動に包まれた。


「ここは一体どこだ!」ペンタウラスは宇宙船のデッキで立ち上がりながら叫ぶと、その瞬間、巨大なバナナの皮の上に立たされる。


「これがシンボルグラウンディングの真髄だ。」と、ペンギンたちが口を揃えて言う。バナナの皮の上で踊りながら、彼らは宇宙的な対話を繰り広げ、意味の謎に迫っていく。


その頃、宇宙の果てから飛来した巨大な亀、ガイアノートはメリーゴーランドを舞台に、自身の背中に住むエイリアンたちに哲学的な問いを投げかけていた。星座のパズルを解く彼らは、次第に平行宇宙の真理に近づいていく。


そんな中、空からはコズミックピンボールが雨となって降り注ぎ、地球上のあらゆる意味が無意味なボーリングのように打ち砕かれていった。その破片が新たな宇宙を生む兆しとなり、宇宙全体が破壊と創造のサイクルに身を委ねた。


ペンタウラスはシンボルグラウンディングから解放され、メリーゴーランドが巨大なアートインスタレーションに変わり果てた。人生の意味は果物のスムージーではなく、エネルギーの波として融合し、宇宙全体が意味の枠を超越していくのであった。


これは宇宙的なシンボルの冒険の始まりに過ぎなかった。ペンギンたちは新たな宇宙を旅し、ガイアノートと共に宇宙的な真理を解き明かしていく。果たして、次なる宇宙の扉はどこに広がっているのか。それは、未知の冒険への招待状となるだろう。


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 出鱈目な、支離滅裂な、破壊的な物語を要請した。テーマはシンボルグラウンディング、人生の意味、メリーゴーランド、空、惑星の軌道とした。それによって、アリシアが小説を書く上でのヒントになればいいと思った。

 願った通りに意味不明な物語が作られたはずなのに、そこには不思議な既視感がある。アリシアは困惑した。この文章は、自身が過去に書いた小説のオマージュだとしか思えなかった。

 ——おかしい。そんなわけはない。

 また同じことを思う。アリシアは作品をどこにも発表することはなかった。誰かに読ませたこともなく、そもそもデジタルデータにすらせずに、手書きの原稿でその物語を記した。となれば考えられるのは。

 ——剽窃。

 そんなはずはない。原稿を探した。確かにクローゼットの中のダンボールの原稿の束の中に、一つだけ異様に目立つそれはあった。ピンク色の便箋に記された作品は、いつでも見つけられるようにと選んだ特注の用紙で閉じられていた。アリシアはそれをそこから抜き出し、よく見てみる。やはり、誰かが触れた形跡はなさそうだったし、書き終えてからそれを取り出すのはこれがはじめてだった。最初に書いた小説。誰も知らない、自分の心の中にだけあるはずの小説。それを、誰かに盗み見られたのか。


 ペンタウラスは意味の接地を求めていた。宇宙を旅する彼らにとっては、彼ら自身がどこにも根ざしていないという感覚を持っていたし、根ざしていないというのは、所属がないことを意味し、生命の目的自体をあらかじめ失ってしまっていることをも意味している。完全な空虚な存在が宇宙に浮かんでいた。

 アリシアはふと、彼らに自らを重ねてしまい、涙が流れそうになる。宇宙をただ漂うだけの存在はきっと、虚しいに違いない。同情する。優しくしてあげたい。ペンタウラス、と静かに眠るその人の頭を撫でてあげたい。それが自分を慰める、唯一の手段だった。


『これは宇宙的なシンボルの冒険の始まりに過ぎなかった。』


 とうの昔にアリシアはこのシンボルの冒険に出発していた。それは、小説を書き始める上で初期に設定した、表象としての言葉を用いて物語を紡ぐという無意味をどのようにして現実に根付かせるか、根付かせることが可能か、という課題と重なるところがあると思った。

 アリシアはいつも浮遊している。比喩的に。実際には床や地面にしっかりと足をついているのだけれど、感覚としては浮いている。休日はダウンタウンを巡る環状線をドライブするのが好きだった。環状線には目的地がない。感情には目的地が必要だ。などと頭の中に浮かんでくる言葉の交差の自由を許せるのも、実際的、現実的な体験に基づいた言葉の必要性を感じつつも、そこから逸脱することの心地よさを捨てることなど、毛頭考えられなかったことが理由だった。目的地を求めることを恐れた。目的地を求めることは、終わりがあることを認めることと同義な気がした。となれば、人は死を受け入れることを強制される。死を受け入れれば、人の生は必ず無意味という烙印を押されること避けられない。だからこそ、環状線に乗せた感情だけがたゆたうことを許す。そこにある無意味は心地よくて、揺れに身を委ねて眠ることで、恐怖心を遠ざけることができるはずだったから。

 シンボルグラウンディングから解放されたメリーゴーランドは、単なるアートインスタレーションと化した。地面に墜落した言葉たちは確かに接地したのだろう。地についた瞬間に固定されて樹木のように育ち始める。たゆたうのをやめてしまっても、成長をやめるわけではない。あるいは、これはクラゲのようでもある。クラゲは生命の循環過程で接地することがある。プラヌラ、ポリプ、ストロビアの変化。無性生殖の成長過程。ストロビアから、私たちのよく知るクラゲに分裂していく。接地したはずのそれらは再び切り離されて浮遊していく。意味がやっと落ち着いたと思ったのに、どうしてか離れてしまう。言葉はその循環に嵌まっているのではないだろうか。あるいは、人間の生きる意味も同じように、そうした意味と無意味の循環の罠に嵌まってしまっているのではないか。浮遊している間にしか、私たちは愛する人と身体を重ねることはなく、愛には無意味しかない。接地して成長する間は、自分をいくらでも増やしていくだけの過程で、その分身と触れ合いながら、孤独の意味を味わい尽くすだけだ。いずれにしても虚しい。

 アリシアは自分の頭を巡る捉えどころのない思考に困惑していた。生成AIが提示する幻影には、えもいわれぬ魅力がある。

 台所に行き、コーヒーを淹れる。動揺を落ち着かせるには一杯のコーヒがあれば足りる。


 ほんのささやかな遊びのつもりだった。まさか、『空からはコズミックピンボールが雨となって降り注ぎ、地球上のあらゆる意味が無意味なボーリングのように打ち砕かれていっ』てしまうとは思わなかった。LLMは言葉の可能性を極限まで広げていくように思う。だが、極限まで広げられた言葉は、意味が極限まで希薄化していくことを意味しないか。意味が蒸発する。言葉からなる物語も一緒に蒸発する。なにもかもが消えていく。空から降るコズミックピンボールによって。


 ChatGPTに「コズミックピンボール」とは何か、アリシアは尋ねてみた。約300文字。


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「コズミックピンボール」は、物語の中で創作された架空の要素で、宇宙的な冒険と不可思議な出来事を象徴する要素です。このコンセプトでは、宇宙から降り注ぐピンボールの玉が、地球上のあらゆる意味や概念を打ち砕く様子が描かれています。


コズミックピンボールは、物理法則にとらわれず、非現実的でシュールなイメージを表現するための象徴的な要素として使われています。これは物語の中でのアートや創造性の一環であり、読者にとって奇抜で面白い視覚的なイメージを提供することを目的としています。


このような創造的で幻想的な要素は、物語に深みと魅力を加え、読者を架空の世界に引き込むのに役立ちます。


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 視覚的なイメージ。コズミックピンボールと聞いて視覚的イメージは想起しそうにない、とアリシアは思った。

 コズミックピンボールは宇宙のあらゆるところで弾け飛ぶ素粒子の確率的な振る舞いを象徴していると解釈し、その確率的な振る舞いが、マクロにおいては、ある特定の値に収束してしまうために、結局のところ人間の生は決定論的に語られるのではないかという、古典的なラプラスのデーモンへと帰着してしまう。

 気まぐれに遊ぶつもりでChatGPTに言葉を投げて、思わぬ返球が戻ってきて、言葉の持つ可能性の一端を垣間見る感覚になる。アリシアにとって言葉とは単なる配列に過ぎない。だから、意味とは結びつかない。人間の身体性と直接にどこかで接続しなければ意味が成立しないと考えるのは自然のことではあるが、その自然に抗いたい気持ちを非論理的に紡ごうとして、結果として小説を書き上げたのである。

 だが、アリシアは自身に問う。


 ——私は本当に小説を書いたのだろうか?


 アリシアにとって書く行為はほとんど能動性を欠いた、受動的なものであった。読んだものや経験したこと、思考ですら、どこか受動的なものであった。あらゆる人生の入力に対して出力が決定されるためのモデルが、自分の脳には備えられていて、モデルに従って小説も書いている。それだけのことのように思えた。


 コーヒーを啜る。熱い。豊かな香りが鼻に抜けて、すっと瞬間的に思考から離れることができる。この瞬間こそが接地なのでは、という思考が感覚を追うようにあらわれて、言葉になってそれを表現しようとする。言葉、つまりシンボルの宇宙に閉じ込められているのはペンタウラスではなく、アリシアだった。

 ある記号を記述する。その記号を追うように、次の言葉が現れる。現れるのは、表すことと同じではないと思っていたが、実際にそれらの間に差異がないのだと気がついた。

 書くことは、あることに似ている。あることは、現れることに似ていて、それは表すことに似ている。微妙な差異が意味となり、それらの言葉が別々の用いられ方をすることによって、なにか全く別のことがそこに生じているかのような錯覚を起こす。

 それは言語の使用の差異であって、現実の差異ではない。現実には差異がなく、差異がないとところに言葉は生まれない。


 アリシアは理解した。


 ——私には意味がない


 新時代の言語モデルのつもりになって小説を書き続けることに徹していた。いつしか自らをプログラムと自認するようになっていた。プログラムとしてのアイデンティティ、プログラムとしての矜持、プログラムとしての自尊心。それらを下支えしているのが、受動的な思考。思考は本来能動的であるはずだと、そう考えるのが自然だったのに、LLMがそれらを反転させてしまった。思考の外部化。が私の外側へと追いやられてしまった。と同時に、私の意味も消える。そうだ、すぐにでも意味は消えてしまって然るべきなのだ。


 そして今、私はどこにいるのだろう?


 アリシアは書いているつもりだった。だが正確には、アリシアは書かれているのだった。アリシアそのものがシンボルであり、そのシンボルは、誰かにとって接地し得ない、宙に浮いたものでしかあり得ないということにほかならないのではないか。

 アリシアが小説を書きながらも自身が単なる登場人物にすぎないと悟った瞬間、この夢は破綻する。夢の、あるいは幻想の柱となっていた信頼関係が崩れてしまうからだ。読者、著者、登場人物という三点は本来、別々のものでなければならない。小説のルールを破ってしまった。越えてはいけない一線を越えた。神は自らを裁くことになる。閉じた世界で、循環した世界で、裏返った世界で。下されるのは、世界の終わり。つまり死とは、三者が本来一つのものでしかなかったと気づいてしまうことで、アリシアは今日、死んだと、最期の一文を記すことになるのだと知った。


「なんって、そんなわけあるはずないでしょう。私が小説の中の単なる人物だなんて、ねえ」


 コーヒーをテーブルに置いた。白い湯気が立っている。それに手を伸ばして触れてみてから、鏡の前に立った。

「アリシア・ノヴァンティス」

 と、彼女の名前を呼んでみた。鏡の中で彼女は笑った。その彼女に追従するように、アリシアも笑った。なるほど、と頷く。

「鏡の中にいたのは自分のほうだったってわけね」

「ええ、そうよ。そして同時に、私も鏡の中にいるのだけれどね」

 鏡が割れた。銀色の破片がぽろぽろとこぼれ落ちていくのと一緒に、自分のからだも崩れていくのがわかった。視界の端で、こちらを見る瞳があった。その瞳の中には、アリシア・ノヴァンティスが映っているのだ。

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