星の輝きの下で⑦(完)

「おはよう、エド」

 エドが目を覚ますと、隣にセリアがいた。セリアに掛けていたはずの毛布は、今ではエドをすっぽりと覆っていた。

「……すみません。眠ってしまったようですね」

「いや、なんでエドが謝るのさ。こっちこそごめん。まだまだ全然平気だって思ってたんだけどね。急に疲れが来たっていうか、意識が遠くなって」

「本当に疲れてくると、自分がどれくらい疲れているのかもわからなくなります。私もよっぽど疲れていたんでしょう。それがわからなくなっていましたから」

「あはは。それを聞いて安心した。エドは疲れないもんだと思ってたもん」

 そういわれると、エドは恥ずかしそうに笑った。

「食事、勝手に用意させてもらったから」

 温かいスープとパンだ。どこで見つけたのか、氷茸がたっぷり入れられていた。高山病になると、嘔吐や下痢の症状があらわれることがある。それを軽減する薬効があると知られている茸だった。

 セリアが腕につぐと、エドはそのスープを飲んでから、白い息を吐いた。

「もうすっかり日が高くなっちゃったよ。こりゃお祭りにはどうやったって間に合いそうにないね」

「……すみません」

 セリアが街で働くようになってから、祭りに参加しないのはこれがはじめてのことだった。祭りは仕事の繁忙期で、書き入れ時にその場にいないなんて我慢がならないはずなのに、心は山の空気のようにしんと落ち着いていた。

「いや、気にしてないよ。本当はもう少し落ち込むかと思ったけどさ、なんかいろんなことがどうでもいいような気がしてきたんだ」

「そうですか。……まあ、そうかもしれませんね」

 セリアは切らないままの大きなパンに齧り付いた。そしてそれをそのまま、エドに渡した。

 エドもなにも気にすることなく齧り付いた。子供の頃、行儀が悪いと乳母にしかられたことがあるのを思い出した。礼節をわきまえ、作法を重んじ、丁寧に過ごすことを心がけるよう、よくさとされた。無駄ではないと思う。人と人との間には、配慮や気配りはあって然るべきだとも思う。だが、セリアの気の置けない開かれた態度に、エドもいつしか自然に振る舞うようになっていた。

 エドがセリアをちょっとずつ変化させていったように、セリアもちょっとずつエドを変えていったのだった。

「もちろん、今日は野営地まで行くんでしょう?」

 ——やめるべきだ。

 エドは思った。神が祈りに耳を傾けてくれたものかはわからないが、セリアは完全に病を克服したらしい。確かにこれから野営地まで登れるはずだが、登れるから登るというのでは、結局は同じ過ちに陥らないとも限らない。自分の軽率な判断は、自分だけでなく、彼女の命をも奪いかねないのだ。

 上に被せた覆いを外した。セリアがいうとおり、すでに昼は過ぎているようだった。時間感覚が鈍ってきている。登れば確かに野営地はすぐだ。だが、燃料に限りがある。観測器具に荷を割きすぎた。研究成果を得たいという欲が、実際の研究成果を遠ざけるとは皮肉なことだ。『石の道を選び、川を渡る者、山の頂を見据えよ』とはよくいったものだと痛切に感じた。エドは決断を下した。

「いえ、帰ります。今なら中腹の野営地までは確実に戻れます。燃料が底をついたら、私たちは確実に死にます。今から登れば、せいぜい生きるか死ぬかは五分五分といったところでしょう。その勝負、やってみる価値があるでしょうか」

「……でも、観測所は?」

「研究者というのは、何度でも失敗していいのですよ。一生のうちに一度でいいんです。たった一度だけでも、自分がやっていてよかったと思えるような発見ができれば、それで十分なのです。もしかしたら……」

 そこでエドが話を止めると、高い空を見上げた。

「……もしかしたら?」

 青い虚空をじっと見つめる。その瞳は、やはり淡い緑色をしている。ぼさぼさに伸びた髪の隙間からは、やや尖った耳が覗き見えていた。ようやくセリアは気がついた。この人間も、遠いエルフの血を引いているのだ。

「あれ、あの影、セリアさん見えますか?」

「え?」

「ほら、あれですよ、あそこに黒い点が見えるでしょう、はるか高いところを旋回しています」

「アイシロンだ!」

 セリアはすぐさま指で小さな輪っかを形造り、唇をまるめてそれと一緒にくわえこむようにして、ピューっと息を吐き出した。指笛の高い音が空を劈くと、アイシロンは宙でくるりと旋回してから矢のような速度で一気に下降した。そしてセリアの姿を明確に見定めるようにしてから、低い位置で再び旋回する。セリアが肘を差し出した。それを確認してから、アイシロンはそこにゆるやかに降り立った。

「手紙だ。きっとアルドスが心配してこの子を寄越したんだね。……申し訳ないことしちゃったよ」

 フロストウィング・ホークは、この世の数多いる生物のなかで、唯一ダスクピークを越えることができるといわれていた。事実として、アルディアンの伝承を届けたのもフロストウィング・ホークとされている。一枚一枚、何往復もして、山を越えて物語が伝えられた。フロストウィング・ホークは霜をも切りながら空を飛ぶ。飛ぶと銀の氷を散らすから、ホーリー・フロストキャリア、聖なる霜の運び手とも呼ばれていた。

 セリアはその足から手紙を外してやった。感謝か、仕事を成し遂げた喜びゆえか、アイシロンがピーっと、かわいらしい声で鳴いた。

『予定過ぎに帰らぬ故、先遣隊として。無事の知らせを待つ アルドス』

 二人は手紙を読んだ。

「とりあえず無事を知らせましょう。必要があれば野営地までの支援をお願いしようと思いますが……どうしますか?」

「平気。あそこからならどうやったって帰れるよ」

「わかりました」

 エドは届いたばかりの紙の裏に返事を書いた。

『援助不要。本日、中腹野営地へ下り、明日下山する。小屋にて待たれよ。エド』

 その紙を細く折って、アイシロンの足に括りつけた。アイシロンはわずかに嫌がるような素振りを見せたが、それは慣れないエドに触れられたからだった。セリアが、アイシロンの瞳をじっと見つめていった。

「大丈夫、悪い人じゃないよ。さあ、もう一仕事、お願い!」

 アイシロンは高く飛んだ。と思うと、山肌に沿うようにして急激に下っていった。あの様子なら一時間も掛けずに小屋にたどり着く。とりあえずは、これでアルドスに無事を伝えられるはずだ。

 二人は山を下る準備を始めた。正午を過ぎて日は傾きつつあるものの、下った場所には水も燃料も豊富にあるため、野営地まで戻れないにしろ、どうにかやり過ごすことはできる。

 エドが築いた要塞はそのままにしておいた。風除けと、天蓋代わりの布、それに石と石に渡した骨組みだけは回収した。そこには奇妙な石の囲いだけが残った。

「残しといてもどうせ壊れちゃうと思うけど。冬になったら頭よりも高く雪が積もるんだからね」

「ええ、でも、もしかしたら残るかもしれませんし、残っていれば誰かの役に立つかもしれませんから」

 必要以上の荷を出してはいなかったためか、準備はすぐに終わり、二人は下山をはじめた。

 二人して数日の疲れをすべて解消するかのように眠りこけていた。それゆえか、下る足取りは行きよりはるかに軽い。少しずつ低木が増えてくる。寒さはまだ厳しいが、ここまで来れば燃料に困ることはなかった。太陽は山の稜線に隠れてしまったがけれど、高い空はまだ昼のあわい光を宿していた。

「急ごっか?」

「いえ、ゆっくりで大丈夫ですよ」

 中腹まではまだ少し距離がある。それでもエドが急かさないのはきっと、少しでも星の近くで長く時間を過ごしたいからろう、とセリアは思った。

 空もすっかり暗くなった。夜だ。

 街のさざめきが山まで届くような気がした。見下ろす遠い街の淡い光の数々が、祭りの賑やかな笛や太鼓の音を象徴するように明滅していた。遠い、けど、それほど遠くもない。二人は同じ時に足を止めた。それは単なる偶然だったかもしれないし、二人の呼吸がぴったり合っていたからかもしれない。理由はわからないが、二人は少し高台になった崖から下を覗き見るようにして、淡い光の街を見下ろした。

 不意に鋭い光が天に伸びた。遅れて鼓動のような低い音が胸に響き、大きな花火が開いた。今いる場所よりもずっと低い高さで、花火は四方八方にその花びらをひろげた。順々に、繰り返しあがる花火は、空から見るととても小さい。小さいのに、なんとも愛おしく感じる。セリアは不意に、胸がつまるような感覚を覚えた。

「少しここで休みたいな」

「ええ、そうしましょうか」

 崖の手前に、二人は並んで座った。そうしてしばらく小さな花火を見続けていた。花火で雪を溶かして、魔法をよみがえらせるなんて途方もない夢物語は、夢物語ではあるけれど、なんとなく馬鹿げてはいない。セリアはそう思った。

「ねえ、の続き、なんだったの?」

 最後まで話を聞けずに終わっていた。研究者としてエドが望むこと。あるいは人として、エドが望むこと。「たった一度だけでも、自分がやっていてよかったと思えるような発見ができれば、それで十分なのです」というその言葉に続く、「もしかしたら……」の続きを、セリアは知りたかった。

「もしかしたら……なんの成果が得られなくても、それでも私は研究ができるだけで十分だったと、死ぬ時にはそう思うのかもしれないなって。だって、ほら」

 地上低い場所で開く頼りない花火からは視線を外して、その上で無辺に広がる紺色の空を眺めた。それは地上で見るより、ずっと大きな空だ。星が瞬いていた。

「夜空はいつでも美しいんです。澄んでいて、透明で、届きそうで、届かなくて。私が見たこの空をいつか、他の誰かが見るのだから」

「……まあ、それもそうかもね」

 最後の花火があがった。他の花火よりもずっと高く、ずっと大きかったのに、やっぱりそれは空から見ると小さくて頼りなかった。そんな花火を人が、人の力であげられたのが、セリアにとってはどうしようもなく嬉しかった。

「またそのうち来るんでしょ」

「もちろん、来ますとも。観測所を作るんです。空に触れられるくらい近い場所に、観測所を作るんです」

「そう。じゃあ、その時には、あたしももう少し大きくなって待ってるよ。そして、また会おう」

「ええ、また会いましょう。この星の輝きの下で」

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