星の輝きの下で⑤

 カラン、と外から金属と金属のぶつかるような高い音が聞こえた。テントの布地を透かして朝の光が差し込んでいた。

 セリアがテントの入り口から外を見ると、彼女よりも遅く眠ったはずのエドはもう起きていた。観測道具一式をひととおりまとめら、かまどで薪を焚いている。その上では火で鍋が熱せられ、濛々と白い湯気が立っていた。

「おはようございます、セリアさん。お茶、飲みますか?」

「ありがとう」

 エドは昨日スープを飲んだ椀に、乾燥させた葉と花をいれた。そこに湯をそそぐと、乾いて縮こまっていた花が咲くように開き、周りから赤味がかった液体がにじんでいった。同時に、初夏の草原のような香りがふんわりとひろがっていく。

「シルバーラディアンスという花が入っているんです。花弁はこうして銀色なのに紅色ににじみます。綺麗でしょう。野に咲くときにも、放射状に花弁を散らして太陽の光を四方に弾き返すのです。一面シルバーラディアンスの畑では、淡い緑の海原に銀色の波が立つような、そんな美しい光景が見られるんです」

 セリアは一口すすった。ハーブの香りと、ほんのりアーモンドのような風味がひろがっていく。飲んだことのないお茶だった。

「朝一番にこれを飲むと、すっきり目が覚めます。これが私の日課なんですよ。たとえどんな旅になろうとも、朝一杯のこのお茶だけは欠かせません」

 エドは不思議と雄弁だった。

 セリアは黙ったまま二口目もすすった。夢中になって話す誰かの言葉に耳を傾けるのも悪くはない。宿では旅客の長話を聞かされるのもしばしばだが、それだってセリアは嫌いではなかった。今まで見たこともない土地、見たこともない人、動物、植物、見たこともない魔法の話やお伽話、おまけに神様や妖精だって……。旅人の話を聞いていると、この世界について自分はなにも知らないのだと知ることができる。退屈しないし、いつか自分も、そうした景色が見てみたい。そう思える。

 お茶のおかげか、お腹のあたりから次第にぽかぽかと熱がひろがっていくのがわかった。目が覚めるとエドはいうが、セリアはそのあまりの心地よさにもう一眠りしたくなってきた。

「一晩経って空気にも少し慣れたとは思いますし、なにも問題が起こらなければ、今日のうちに目的地まで向かうつもりです」

 そう、二度寝している暇などない。この山登りには、明確な目的があるのだから、のんびりと未知を垣間見る楽しみの中で、微睡んでなどはいられないのだ。

「うん、準備する」

 セリアがお茶を飲み終えたころには朝食ができあがっていた。ふたりは食事を済ませ、荷をまとめると、早々に野営地を後にした。


 樹々が低くまばらになり、ところどころ岩肌が見えるようになってきた。まだ雪が降り積もるような場所はないものの、冬であれば、ここいら一面が白銀の世界であろうことは容易に想像ができた。

 このあたりまでならセリアも何度か来たことがあった。怪我人や遭難する人が増える場所で、そうした人たちを助けられる限界地点でもあり、アルドスだけの手ではどうしても足りない時に、手を貸すこともあった。ここいらであれば、山の人の野営地を拠点にして捜索するにしても、一日で往復することのできる距離にあり、安全の確保と救助、保護などが同時にできる。「魔法の糸を垂らす者、糸で絡まる」という諺をアルドスはよく口にした。善意をもって誰かを助けようとしたにもかかわらず、自らも窮地に陥ってしまうことをたとえたものだった。かつて山向こうにいた高名な魔法使いアルディアンの伝承についてまとめられた『アルディアン物語』において、彼が谷底に囚われた一国の姫を助けようと魔法の糸を垂らしたところ、自分自身がその糸に絡まり、エルフに助けられたという逸話がもとになっている。大きな叙事詩に含まれるほんのささやかな滑稽譚であるものの、山の人のとっては大切な教訓を与えてくれる。いずれにせよ命が掛かっているのだから、そうそう笑ってばかりはいられない。

 もはや振り返っても岩しか見えなくなった。雲より高い場所に来たといってもいいはずだ。歩くにも道と呼べるほどの道はなく、高い視線の先には白い氷の塊があった。吹く風は冷たい。遮るものがなにひとつないため、乾いた風は直接に吹きつけてくる。今が夏であることを忘れてしまいそうなほどだった。

「寒いでしょう。私の上着を使ってください、鞄の奥に入っていますから」

「うん、ありがとう」

 エドを助けるつもりで来たはずなのに、助けられてばかりだ。代金はきちっと貰うのだから、それに見合った労働をしなければならない。荷運び以外になんの役にも立ってはいない。このままでは面目が立たない。商売の第一義は、金を稼ぐことではなく、信用を稼ぐこと。ヴィッキーに教えてもらった大事な教えだった。セリアは自らの不甲斐なさをひそかに恥じた。

 思いの外、疲れはなかった。昨日のエドのスープに力をもらったのか、夜にたっぷり眠れたおかげか、朝のお茶のおかげか、わからない。

 セリアは山が好きだった。こうして山を歩くのも、草木や動物の気配に囲まれるのも、荒涼たる岩場を歩くのですら、清々しい。寒さは骨身にこたえる。足腰が痛む。酸素が薄くなり、呼吸も苦しくなってくる。だとしたって、登って振り返った時の空のあまりの大きさに、いつだって気分が晴れ晴れとした。

 大地から離れている。天に近い。くだらないもの、小さなもの、瑣末なもの、煩わしもの、あらゆる世俗的なしがらみから逃れて、真に自由に近づいている。単なる解放ではない。かつて勝ち得た自由以上に、もう一つ高いところにある自由が、山の中では感じられる。ならば、空ばかり見ているエドがいるのと、そう遠くない場所に自分も立っているのかもしれない。

 ——だとしたら、なんだってんだろう?

 振り返って見下ろす景色には、当然小さくなった街の姿もある。今まで蓄えた貯金のすべてを費やしたって、あの街の財の、ほんの一部分にすら満たない。そんな魔法に、なんの意味があるのだろう。

 セリアは街から目をそらし、少し先を歩くエドの背中を見た。大きな荷にほとんど覆い隠されてしまうくらいに小さな背中なのに、どうしてか、ずっと見ていたくなるような気がした。

 彼には街の大人の男に対して感じるような嫌な印象がない。アルドスなどの山の人たちにもよく似ている。無精髭のむさ苦しい見た目はともかくとして、エドは清潔な人間だった。にとらわれていない、数少ない人のうちの一人だ。

 が大抵のことはなんだって叶えられる。大きな家に住むことだって、素敵な恋愛をすることだって、美味しい食事を毎日食べることだって、柔らかいベッドで午後まで眠ることだって、なんだって叶えられる。でも、それだけじゃどうしたって、何かが足りない気がしてならない。はきっと人を幸せにしてくれるはずだけど、幸せだけが、生きることの価値なのだろうか。

 


 太陽が高くのぼった。山の午前は長いけれど、午後は短い。昨晩は遅くまで登ることができたが、この高度で夜に動くのはあまりに危険だ。となれば、そろそろエドとの別れも近い。

「もう雲は抜けたと思うけど。どこまで行くつもりなの?」

 よく晴れ、雲などひとつもなかったが、セリアにはわかっていた。この高度なら、とうに雲は抜けている。だが、観測所を作れるような広い平地など見当たらない。

「あと少し登れば、山の人の最終野営地があるはずです。近くには雪解け水も流れていて、今の季節であれば雪も積もっていません」

「そっか」

 本当に別れが近いのだ。とはいえ、二度と会えないわけでもない。帰りには街に立ち寄ることになるだろうし、あるいはさらに仕事を依頼されることだってありえるだろう。そもそも、なぜエドとの別れのことばかり考えているのだろう。セリアは自分がすでにの力にとらわれていないことに、まだ気づいてはいなかった。

 沈黙が続いた。話すべきことがなかったのではなく、空気が薄くなり、喋るだけでも無駄な体力を使うことを互いによく理解していたからだった。たびたび視線は交わした。休憩すべきか、速度を落とすべきか、なにか異変はないか。視線だけでそれを確認し合った。真昼の太陽に岩肌は乾き、黒々とした表面は光を吸って温かくなっていた。気温も高くなる。昼夜の気温差が大きく、上着も脱ぎ着を繰り返さなければならない。日が陰れば途端に寒くなる。温度差が体力を奪い、注意力もどんどんと失われていく。だからこそ、二人で視線を交わし合う必要があったのだ。

「もうそろそろです」

「うん」

 もはやセリアの知らない高度だった。ここからならさぞかし夜の星は近いのだろうと思った。あるいは、手を伸ばせば触れられるくらいに——。太陽に向かって手を伸ばした。と、天を仰いで眩しさを感じる間もなく、意識が遠のき、後ろ向きに倒れた。

「セリアさん!」

 何かが崩れ落ちるような音にエドが振り向くと、セリアが仰向けになって倒れていた。すぐに駆け寄る。目を薄く開き、意識が少し遠いようだった。そのまま頭を確認する。荷物を背負っていたためか、怪我はしていない。脈を確認すると、異常なほど速くなっているのがわかる。

「セリアさん、喋ることはできますか」

 エドは自分の荷物をおろして、中から毛布を取り出した。少しでも平らな場所を確保し、地面にそれを敷いた。

「セリアさん、高山病だと思います。少し休憩してよくならないようでしたら下ります」

「……駄目。……観測所」

 セリアは必死に言葉を継いだ。

 言葉の意味するところは十分にエドには伝わったようだが、彼はその首を横に振って、ゆっくりとした口調でセリアに語りかけた。

「駄目ではありませんよ。命より大事なものなんてないんですから」

 薄い意識の中で、セリアは思わずフッと微笑んだ。エドの言葉を思い出したのだ。

『私が死んだとしても、星は輝き続けますし、やっぱり人は星を見上げますから。それはそれでも構わないかもな』

 馬鹿な人だ、とセリアは再び笑う。

 目の前のぼやけた視界の中で、エドが自分を上から覗き込んでいる。瓶底眼鏡の向こう側に、淡い緑色の瞳がある。なんだ、よく見ると綺麗じゃないかと思う。自分と同じ、淡い緑色の瞳。その視界も、やがて闇に閉ざされた。

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