星の輝きの下で④
「急に黙ってしまってどうしたのですか。少し、休憩しましょうか?」
「いや、大丈夫。先を急ぐんでしょ」
「ええ」
闇は次第に深くなり、足元が見えなくなってきた。月は出ていない。観測のためには新月の方が好都合だとエドはいう。急いでいたのはそうした理由もあったのかもしれない。日が過ぎれば、次第に月が顔を見せ始める。二日や三日でも、観測に多少の影響が出ると嫌ったのだろう。
沈黙は重い。梢の隙間からちらちらと見える星の影が囁いているかのようだ。互いに言葉を交わさないまま、二人は星に近づいていく。歩みは遅く、いつ着くともわからない野営地を目指して、荷を背に歩く。
セリアは背中に疼きを感じた。高度が上がり、寒くなってきたせいだろうか。たくさん歩いて、汗をかいたせいかもしれない。……ちがう、わかっている。遠くにあったはずのものが急速に近づいて、心の奥で捻れてしまっている。痛むのは背中ではないのだ。
歩いている方が気が休まるが、体力は減っていく一方だった。山小屋についたころにはすっかり疲れていたのだから当然だ。それから再び半日以上も歩き通しだった。明るい時間であれば野営地までの距離もよくわかるのだが、こう暗くては見通しが悪い。先が思いやられる。
さらにしばらく登ると、どこからか水の音が聞こえた。シルバリアン・ヴェールの支流だ。
「もうすぐ到着です」
「うん」
少し歩くと、狭い山道が並んで歩けるくらいの幅へと変わっていき、最後に大きくひらけた。山の人の野営地だ。周囲には樹々が少なく、シルバリアン・ヴェール川の支流で水も確保できる。円形の広場のように平らな草地がひろがっていて、中央には石で組まれた簡易的なかまどがあり、食事と暖を取れる。なにより、低い木々に囲まれたその円形に蓋をするように、眩いばかりの星空が輝いていた。
「ここにテントを張ります」
「うん」
歩いてきたときと同じく、二人は黙ったまま野営の準備をした。かまどに火を起こしてからテントを張る。
「水、汲んできてもらえますか」
「ああ」
空の大きな水袋を二つ渡された。それを持って支流へと下りていく。暗い中、足元を一歩ずつ確かめながら、音を頼りに流れに近づいた。細い川の流れに、空が映り込んでいた。セリアは星でも掬うようにして、水袋をそこにひたした。
エドはかまどの火に鍋を置き、干し肉を焼いていた。川岸を登るときに、すでににおいが漂っていた。いざ戻ってみると、さらにそこに香草と野菜を加えるところだった。
「ありがとうございます」
水袋を受け取ると、鍋にそのまま注ぎ込んだ。白い湯気が一気にたちのぼり、香りが一層強く感じられた。エドは小さな四角い固形物を取り出し、鍋に入れ、ゆっくりと溶かしていく。バターのようにも見えた。
「これですか? スパイスとバター、小麦粉を練り合わせて作ったものですよ。日持ちしますし、栄養価も高く、調理も簡単。山にはうってつけです」
訊いてもいないのに、エドは上機嫌になって喋る。パチパチと音を立てて燃える火、空にのぼっていく灰青の煙、空に瞬く無数の星々。エドはセリアに話しかけているというより、空や山、森に向かって話しているかのようだった。
スープが完成した。椀を二つ出し、汁を注いだ。なにも言わず、エドがそれを差し出した。セリアは小さく「ありがとう」といい、受け取った。手のひらに熱を感じる。白い湯気を吸い込むと、香草とスパイス、肉の脂のにおいとが絡み合って、思わず唾を飲み込む。エドが荷から取り出したパンを切り分け、セリアに渡した。今度は礼もいわず、スープに浸してからそれを口にした。
「美味しい」
「そうでしょう。星の下で食べるとまた格別でね」
もはや言葉はいらなかった。セリアはひたすら食べ続けた。一日歩き通しで疲れていたせいもあるし、また、エドの料理がとびきり上等だったというのもある。もしかしたら、なんとなく歩いている間にできてしまった、理由のわからない空白を埋めてしまいたかっただけかもしれない。理由はどうであれ、あっというまに鍋はからっぽになり、パンも丸々一本食べ尽くした。
エドは少し驚いたような顔でセリアを見た。山の中腹あたりで喋らなくなり、元気がないように見えたので気にかけていたのだが、心配する必要はなさそうだった。食事は体だけじゃなく、心にもしっかり栄養を届けてくれる。
「ごちそうさま。美味しかった」
「そうでしょう。これでも昔はひどかったんです。でも気がついたんです、これは化学と同じことだって、錬金術のようなものなのだって。素材、熱、時間。その辺りを支配すれば、いつでも近しいものが作れるんです」
セリアの胸のわだかまりが完全に溶け切ったわけではない。ただエドが少し興奮気味に話す様子を見て、怒りや苛立ちを向ける先を失ってしまったのだ。貴族として生まれ、道楽で星を見上げ、料理を化学だといって喜ぶエド。その一方で、お金のためといって付き添い、本来の目的から離れ、理由もわからず上等な食事で満たされ、なにもかもうやむやにしようとしている自分。エドには、今まで見たこともない多くのものを見せられている気がするが、お金によって、お金という魔力によって、支配される側から支配する側に成り代わってやろうという思いは今も変わらずにいる。だとしたら、すぐにでも帰るべきではないか。対価は既に支払われることは約束されているのだから、街で別の仕事を受けた方が効率的ではないか。そう思いはするものの、なにかがセリアをためらわせる。それがなにか、セリアにはどうしてもわからなかった。
食事を終え、その片付けも一通り済んだ。あとは次の日のため、十分な睡眠を取るだけだった。
「先に眠っていてください。テントの中に寝袋を用意してありますんで」
「うん、ありがとう。エドは?」
「私は少し観測をしてから眠ります。やらなければならないことはいくらでもありますからね」
そう言うとエドは荷の中から長い筒を何本か取り出し、組み立てていった。足元の柔らかい土に杭を打ち込み、足場のようなものを築いていく。エドの身長よりも少し高いくらいの台で、その底部に目盛のついた円盤を嵌め、さらにおもりを垂らした糸を目安に、垂直にも円盤を備え付けた。水平、垂直の角度を正確に出すための道具らしい。最後にその二つの軸の中心に据えるように、覗き穴のついた長い円筒を装着した。
セリアは、エドが観測道具を組み立てていく様子をテントの中からずっと見ていた。
「……眠らないのですか」
「うん。眠くない」
眠くないわけがない。ただでさえ忙しい時期で、セリアはしばらくまともに眠る時間を取れなかった。それに加えて今日の登山に美味しいご飯。寝ろといわれれば一秒とかからずに眠れるはずだった。なのに、セリアは眠りたくなんてなかったのだ。
「では、見てみますか?」
「邪魔じゃない?」
「平気です。いつだって星はそこにありますから」
急いでいたり、のんびりしていたりと、エドの時間の流れ方が、セリアにはよく理解できない。
セリアにとって時間はお金そのものだ。時間は換金できるもので、人生を削ってお金に換えることで、生活する糧を得ているのだ。
——でも、だとしたら、生きるために働いて、働くために生きて、そんなことにどれほどの意味があるっていうのだろうか。
セリアはテントから這い出て、エドの隣に立った。エドは覗き穴を指差し、声にならないくらい静かにいった。
「ここから見えますよ、ほら」
セリアは穴を覗きこんだ。そこには蜜柑のような円が映っているだけで、美しいとも、それがなにかとも、なにもわからなかった。
「これ、なに?」
「遊び星のひとつですよ。ひときわ赤く光るから、私たちのなかでは赤い宝石って呼ばれています。まあ、光るといっても、自ら輝くわけではありませんが」
「光ってるわけじゃないの?」
「ええ、月と同じです。太陽の光を反射しているだけですから」
セリアは再び望遠鏡を覗き込んだ。やはり、蜜柑のような円が宙空にぽっかりと浮かんでいるだけで、特に見るべきものはない気がした。
「……宝石っていうよりかは、果物かなにかみたいだね」
「あははは、その通りですね」
エドは声をあげて笑った。
「人によっては蜜柑星って読んでますよ。でも、それじゃあ研究者は格好がつかない。赤い宝石の研究をしているっていうのと、蜜柑星の研究をしているっていうのでは、前者の方がはるかに立派に聞こえますからね」
「そういうの、研究者って気にするんだ?」
「厳密に言えば、それを気にするのは支援者です。名誉は研究者より、その支援者に与えられるものですから。蜜柑星の軌道の研究に多大な功績を残した、といっても光栄だなんて思えないでしょう」
今度は少し寂しそうに笑った。
エドは目盛りを確認して、さらに高い空にそれを向けた。別の遊び星だ。
「遊び星はどうしてそう呼ぶかご存知ですか?」
「それは、空を遊ぶようにふらふらと動くからでしょう。でも、ここいらでは惑わし星って呼ばれてる。不規則に動いて、夜を歩く人の方向感覚を惑わすからだって。山の人の命も何度かあれに奪われているだろうね。冷静な時なら見誤ることなんてないはずなんだけど、限界状態だと他の星との位置関係がごちゃごちゃになって方角を見誤るんだとか……。悪戯な星だよ」
「……不規則ですか。遊び星の動きもまた、規則に従って綺麗な動きをしているのですよ。ただ、私たちの目から見るとふらふらと移ろっているように見えていますが、実際には太陽を中心としてほとんど円に近い運動をしています。正確には楕円運動だろうと考えられています。目に映っているものだけが真実ではないのです」
「太陽を中心にって? 太陽が回っているんでしょう」
「太陽は回っていません、私たちの今いるこの星が、太陽を回っているんですよ」
エドのいっていることを理解しようとしても、彼がなにをいっているのか、どういう意味なのか判然としない。
「少し難しいですかね。ほら、これも遊び星です。さっきより少し大きいですが、ぼんやりと縞が見えるのがわかりますか」
セリアは覗き込んだ。確かに、うすく縞が横に走っているのが見える。だが、これが星といわれたところで理解は遠い。焦点の完全に合わない像と同じように、セリアのなかにも輪郭の結ばないもやもやしたなにかが生まれ始めていた。
「……眠くなってきたから、もう寝る」
「そうですね。私はもう少し空を見てから寝るので、先に休んでいてください」
「うん」
テントに戻り、寝袋に潜り込んだ。暖かい。目をつむる。さっき見た蜜柑と縞の星の残像が、ほのかに重なり、曖昧なままゆっくりと闇に溶けていった。
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