星の輝きの下で

星の輝きの下で①

「スターホロウの街にはもう、魔法は降らない」

 セリアは静かに朗読した。それはノクターナ地方に伝わる御伽話のひとつ、最後の一節だった。

 魔法なんてもう誰も信じないのに、どうしてその御伽話だけが今の時代に伝えられてきたのか、セリアには理解できなかった。星祭りが近い。失われた魔法に願いを込めるために、あるいは、魔法を再び私たちの生活の中に取り戻すために、黄昏の峰ダスクピークに向かって花火をあげる。その頂きには万年雪を抱き、その雪は、魔法の力で永遠に解けずにいるのだと言われてきた。科学的知識が発展した今では誰もがわかっているはずだった。高度が上がれば気温と気圧が下がる。誰も到達したことのない高さのあの場所では氷点下だ。雪が解けないのはダスクピークの高度による。至極当然なことだ。

 錬金術の進化が化学を生み、天体やこの星への探求が物理学を生んだ。かつては数に魅せられて崇め奉った連中が数学を飛躍的に発展させ(ついでに彼らは怪しげなカルト集団としても知られていたが)、馬や牛、羊などを家畜化する上で遺伝に関する知識が蓄積して生物学が生まれた。科学は十分過ぎるほど進歩していたし、これからも進歩していくことは明らかだ。こんな時代に魔法だといわれたところで誰が信じるというのだろう。かつての魔法はとっくに科学に置き換えられた。誰もが皆、魔力を持たないという意味では平等だけれど、進歩した技術を使えるか否かは富次第だった。となれば、かつての魔力は今でのお金、ということになる。富さえあれば、誰だって大魔導師だ。

 祭りの趣旨は、火の魔法によって氷を解かし、太古の魔法の力をよみがえらせるというものだった。それはあるいは、富の再分配を願っていることの暗喩かなにかなのかもしれない。だが実際は、あの大量の雪が解けてしまえば、おそらくスターホロウの街だけでなく、ノクターナ全体が大規模な水害に見舞われる。それこそ、避け難いほどの完璧な平等という死を、人々に与えるであろう。それをわかっている人も多いのに、祭りは誰もが歓迎し、笑い、遊び、幸せそうにするのは、本当は誰も魔法の力などもはや信じていないからだ。雪解けは来ない。魔法も、もうどこにもない。誰も、雪解け水で死んだりはしない。

「セリア、ちょっとおつかいにいってちょうだい」

 低い声が宿に響いた。ヴィクトリア・ストーンハートさん、セリアはその愛称のヴィッキーで呼んでいた。

 彼女はセリアの働く宿の女将で、祭りを直前にして、今はてんてこ舞いだった。その割には、セリアの方ではどこかのんびりと過ごしていた。セリアは自分のすべき仕事しかしないし、ヴィッキーもそれを承知している。良くも悪くも仕事上のつながりだが、その仕事においては、互いに強い信頼を置いている。だからこそ、ヴィッキーはセリアに対して文句ひとつ言わないし、セリアの方でもヴィッキーに対して何一つとして不満がなかった。

「はーい」

 半地下の小さな個室から出ると、ヴィッキーは大きな鞄を肩に掛けて戸の前に立っていた。彼女のふくよかな体と比しても十分に大きな鞄だ。繁忙の極みから逃れるために、遠くへ、長い旅行でも行くのだろうか。いや、そんなはずはない。

「あんた、これをダスクピークの麓の小屋まで届けてくれるかい。今の時期じゃあ誰もが忙しくって行ける人がいないってんだよ。まさかこの時期にに依頼するってのも気が引けるでしょう。あの人たちが一番忙しいってんだから。あんたしかいないんだ。頼むよ」

 ヴィッキーは交渉というより、はなからセリアの退路を塞ぐように話しを進めた。荷物をおろし、短い髪をかきあげると、額は汗に濡れていた。濃い眉のしたで鳶色の瞳がにぶく光っている。昔はとびっきりの美人だったのだろうなあ、などとぼんやりセリアは思う。

 ため息にならないよう、注意深く、ゆっくりと息を吐いた。どうせ断れないのだから、素直に受け入れるしかない。受け入れるならば、貰うべきものはしっかりと貰っておかなければ。セリアが第一に考えるのは、のことだった。

「はい、もちろん行きますとも。任せてください。でも、その代わりに……」

「わかってるよ。ったく、あんたは頭のいい子だよ」

 ヴィッキーの言葉が皮肉なのか褒め言葉なのかわからないが、どちらでも気にはならなかった。人使いは荒いが、気のいい人間であることはセリアもよく知っている。

 セリアは指先で数字を示した。ヴィッキーは顔を一瞬だけしかめるも、今の時期の相場よりはだいぶ安く済むのだから、妥協するしかない。金額交渉はすぐに終わった。両者納得の価格だ。

「ありがとうございます。お預かりしますね。で、受け渡し期限は?」

「ああ、そうそう、言い忘れてたけど、あの人も一緒に送り届けておくれ」

「え」

 ずるい、とセリアは思った。ヴィッキーの交渉力を甘く見ていると、こうして簡単に足元をすくわれる。後から追加で条件を提示することで、今さら断れなくしてしまう。悪どいなあ、と内心で思いながらも、なんとなく恨めないからますます悪どいなあ、とセリアは重ねて思う。

 宿の玄関にはいかにもひ弱そうな青年が立っていた。顎には薄い無精髭を生やし、瓶底メガネにボサボサの髪、科学者の端くれなのだと、その姿で主張するかのようないでたちだった。だが、着ている服は明らかに高貴な人物のそれだ。ぼろぼろではあったが……。

「なんか、どこかの見習い学者さんだそうだよ。期限は二日を見てるけど、あのひ弱な体じゃあ三日を見ないといけないかもね。三日を超えたら追加で払うよう彼と交渉しておくれ。それこそ、あんたの力の見せどころだよ」

「……はい」

 してやられた、とセリアは思う。だが、これはヴィッキーからの挑戦状のようなものだ。こうして無理難題をふっかけられるたびに、それを上回る効率で事を成し遂げてきた。そうして当然、だってたくさん蓄えてきた。負けてられるか、お金だ、お金のためだ、お金こそがすべてだ。あの頃みたいな貧乏生活に二度と戻ってたまるもんか。と、内心では自分のそうした負けず嫌いをヴィッキーが利用しているのだってわかっているが……。それにすら、負けていられない。それがセリアの信念だった。

「ほら、挨拶ぐらいしなよ」

 ぼん、っとヴィッキーはセリアの背中を強く押した。前のめりになりながら、学者の前に立つ。近くで見ると汚い面だが、どうやらまだかなり若い男らしい。

「はじめまして。この宿スターライト・レトリートで働くセリアと申します。荷物運びの件、私が承りました。麓の小屋までお供いたします」

「はじめまして、セリア。私はエドワード・スターフォルジャーと申します。エド、とお呼びください。天文学者をしております」

 差し出された手を握るべきか、セリアは迷った。だが、背後にヴィッキーの視線を感じずにはいられない。しかたなく、その洗ったのかもよくわからない手を握った。冷たかった。そして繊細な指先をしている。手を握ると、なんとなくその人のことがわかる気がする。手に人格があらわれるとどこかの旅人がいっていたっけ。「星を創り出す者スターフォルジャー」か。この指先で濃紺の空にあらたな星を創り出すのか。まあ、そんなこともあるのだろうな、などと考えていた。

「あの、そろそろ」

「ああ、すみません」

 しばらく手を握っていた。セリアには、それがどうしてかなど、もちろんまだわからない。

 立ち話もそうそうに切り上げ、早速出発することにした。ヴィッキーが玄関の外まで見送りに来た。

「あんたら、気をつけるんだよ」

「はい、ありがとうございます」

「はーい」

 二人は宿を発った。


 連れ立ってスターホロウの街を歩いた。

 セリアが請け負った荷物以上に、エドの荷物は大きかった。身長はセリアとそう変わらないか少し大きいくらいで、線は明らかに細い。

「エド、一つ聞いていい?」

 セリアは尋ねる。

「この荷物、全部一人で運んできたわけ?」

「もちろんそうだけど、そうじゃないですよ。ここまでは馬車を使いましたから」

「ああ、……なるほどね」

 セリアのこの言葉には二つの意味があった。

 街まで馬車の通る道はあるが、街からダスクピークの麓に通じる馬車の道はなかった。そもそも、馬ですら通れるかが怪しい場所が何ヶ所かある。橋のない小川を、石を飛びながら渡らなければならないし、獣道のような草の生い茂った道だってある。馬車には限界がある。

 加えて、ここまでこれだけの荷物を馬車で運ぶとなれば、かなりの金額が必要だったはずだ。汚い身なりではあるが、やはり実入りは相当なものだろう。一番推測するのが難しい類の人物だ。

 あらためてエドを眺めみる。そもそもこんなひ弱な男と一緒で大丈夫だろうか。夏至近くのこの季節、山には雪熊が出るかもしれないというのに。

 不安が募った。だが、男の歩みは思いのほか軽やかだった。どうやらこうした足を使った仕事にも慣れているらしい。天文学者というのは、机の上で星を数えてばかりいるのだと思っていたが、外に出て力仕事なんかもするものらしい。意外だ、とセリアはひそかにエドを見直した。

 街のはずれに来た。ここからはまばらに家と畑地、牧草地が広がっているだけで、麓の途中までは農道が連なり、途中からは森へと入ることになる。かつての開拓民が自然との境界と定めたのであろう、石造りの古い遺跡があったが、天文学者はそんなものには見向きもせず、さらに遠くを眺めていた。

 エドは寡黙で余計なことを喋らないから、セリアにとっても都合が良かった。身の上話をするのもされるのも好きではない。セリアも黙って歩いた。休憩するときにだけ一言二言、言葉を交わした。「疲れていないですか」「とても良い天気ですね」「風が気持ちいいですね」と、セリアは「ああ」とだけ応じた。


 森の中は空気が変わる。夏の日差しは梢からわずかに漏れるばかりで、羽織るものがなければ肌寒さすら感じる。標高が街より高いというせいもある。小屋はさらに高いところにあった。

「ところで、こんなことを聞くのは失礼かもしれないけど、エドはなにしに小屋まで行くの? 星でも見に行くわけ」

「観測もします。でも、それだけが目的ってわけじゃなくて、まあ、下見ですかね」

「何の?」

 森がわずかに開けた。小川がある。細い道に連なるように、とびとびに大きな石が配されている。ここを通る人が置いた石だが、暑過ぎる夏が来ると、川の増水で流されてしまうこともある。その度に、新しい石を誰かがどこかから運び、道を作る。

「観測所を作ろうと思っているんですよ。あの雲の上に」

「観測所?」

 エドは石を跳んだ。うさぎのように軽やかな足取りだった。そして梢の隙間から覗く、はるか高い空を眺めた。セリアは少し疲れてきていた。エドの体力は予想以上で、セリアよりもよっぽど道なき道を歩き慣れているらしかった。彼の背中を追うように、セリアも石を跳び、空を仰いだ。

「そうです。天体観測所ですよ。星を見るなら、星に近い場所から見ないとね」

 この時、エドははじめてセリアに笑顔を見せた。無精髭の汚い面なのに、瞳だけはとみに澄んでいた。夏の太陽の光せいだ。セリアはそう思った。

「へえ、物好きなもんだね」

「ええまあ」

 彼はまた、石を跳んだ。セリアはその後を、言葉もなく飛んだ。高い太陽が川面に反射してきらきら眩しくて、光のあまりのはげしさに、セリアは思わず目をつむらずにはいられなかった。

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