星の輝きの下で②

 二人は無事に小屋へと辿り着いた。

「ごめんくださーい」

 セリアはくたくたに疲れ切っていた。だが、半日でたどり着いたということは、すぐに引き返せば一日で二日分以上の給金が得られる。エドを小屋番のアルドスに紹介して少し休んだら、早く宿に戻りたいと思った。

「ごめんください」

 さすがのエドも疲れた様子だった。いや、違う。この男は最初から疲れたような顔をしていたから、表情が変わったわけではない。足取りはずっと軽かった。とはいえ、ここで一旦は休むだろう。このまま歩き通しで観測所の下見という具合にはいかないはずだし、もうセリアの助けだってここまでなのだ。雲の上といえば、さらにあと数時間は要する。あの荷をいくらかここに置いておくとしても、簡単な仕事じゃない。

 小屋の戸がゆっくり開いた。男は長い赤毛を後ろで縛り、頬から顎にかけて濃い毛が覆っている。背は、扉と変わらないくらいに大きく、重みで床が軋んだ。小屋番のアルドスだ。


 アルドス・モーニングスターという名のこの男は、代々この小屋の番人を務めている家系の現在の後継者だった。モーニングスターという家名の由来は、街のものより高所に住んでいるからはじめに太陽を拝むことができるからだとも、朝の太陽の光が小屋に反射して朝一番に光るからだともいわれていたが、今じゃ誰もどちらが真実か知らない。先代のモーニングスター老人が健在の頃、アルドス自身も山に登ったり、旅に出たりと自由に過ごし、老人が教えるまでもなく、アルドスは山から様々なことを学んだ。天気、生態、生存につながるあらゆる技術。それらをアルドス自身で、山と語らうことで知っていった。山で先代の遺体を回収したのもアルドスだった。それが、モーニングスター老人が父として息子に教えた唯一の教訓だったのかもしれない。

 耄碌したモーニングスター老人は、その老いた体でダスクピーク登頂に挑んだそうだ。まだ、誰も辿りついたことのないその頂点に、齢七十を超えた老人が到達できるわけがなかった。だが、発見されたのは同じく前人未到の高度、「オブリビオンズ・エッジ」と呼ばれる、ダスクピークの頂上の僅か手前に位置する場所だったという。頂上と形状がよく似ているため、老いた彼は見誤ったのかもしれない。老人は人間としてはじめて「オブリビオンズ・エッジ」の地を踏み、次いでアルドスが踏み、父の遺体を見つけた。アルドスは「オブリビオンズ・エッジ」に老人の名、アルカディウス・モーニングスターを刻んだ。そして老人の身体をそりに載せて、谷に沿って板で滑って雪のない場所まで下りて行った。その日以来、「オブリビオンズ・エッジ」まで登ったものは誰一人としていなかった。

 この逸話を信じない者も多い。アルドスが父の不名誉を隠すために嘘をついているだとか、自分自身の功績もついでにたてようとしているだとか、彼らを悪く言う人間が街にはいくらでもいた。だが、アルドスはいう。「俺は山にしか興味ねえ。親父だってそうだった。低いところの人間の声なんてここじゃちっとも聞こえねえな」と。山の人はいつもそうだ。山にしか興味がない。山の人の仲間でアルドスの話を疑う者はいなかった。


「おう、入れ」

 アルドスは無愛想に低い声でいうと、すぐに部屋の奥に去った。エドは律儀に、彼の去る背に頭を下げた。

 山小屋といっても普段はアルドスが生活しているだけはあって、設備は充実している。部屋に入るとすぐに長椅子がコの字型に並び、その中央には大きなテーブルがあった。玄関で荷物を下ろすと、セリアはさっそく椅子に腰掛けた。

「ねえ、他に客はないの?」

 セリアは部屋の奥のアルドスに向かって大声で話しかけた。

「そりゃないさ。この時期だぞ。みんな祭りの準備で大童だろうさ」

 確かに、こんな時期に山に登ろうと考える人はいない。エドのようによそから来た人間か、よっぽど風変わりな者でない限り、山小屋に客がいないのは当たり前だ。

「アルドスさん、ちょっと良いですか」

「おう」

 エドは荷物も下ろさず、奥のアルドスの部屋に入っていく。セリアの仕事はこれで終わりだ。二人がどんな話をしているかは知らないが、少し休んで、すぐに宿まで帰る。夕方までには帰れるはずだから、明日までは十分に休息を取り、さらにまた働ける。

 祭りの時期は誰もが忙しかった。猫の手を借りたいくらいの状況なのだから、働き者のセリアは宿の仕事だけではなく、街中で引っ張り凧となり、しかも、お給金だってはずむ。倍、あるいは三倍なんてこともある。そうしてセリアの魔力はますます大きくなっていく。あらゆる科学技術で、新しい便利を生み出すことができる。そうして、セリアはその富で。——あれ、その富でなにがしたいんだっけ?

「セリアさん、ここまで、ありがとうございました」

 エドが部屋から出てきた。椅子には座らず、立ったまま丁寧に頭を下げた。

「代金はあらかじめヴィクトリアさんに支払っているので、そこから貰うようにしてください」

「うん、わかってる」

「では、私はまたすぐに行かなければなりませんから」

「え、ちょっと」

 エドは自分の荷物と、セリアが運んだ荷物を二段重ねにし、ベルトでひとまとめにすると、一気に両方とも背負った。身体を斜めに倒すとちょうど重心が足の下に来る。服を着ていてよくわからなかったが、足の筋肉だけは服の上からでもわかるくらいに隆起していた。腕よりも肩、腰、脚で荷を運ぶこつを心得ている。なるほど、強いのも道理だ、と今更ながらセリアは納得させられた。

「待ってよ、その荷物を持って、しかも休憩もせずに行くっていうの?」

「ええ、もちろんです。先を急ぎますので」

「そんなの無謀だよ。エド、ここからの道がどれだけ危険かわかってるの」

「えへへ、わかってますよ」

 エドは困ったように笑った。最後に「お世話になりました」と大声でいってから、大きな荷物を二つ重ねて背負ったまま小屋を出ていった。セリアはただそれを見送るしかできなかった。

 エドが去ると、小屋ではセリアとアルドスは二人切りになった。アルドスは奥の部屋にこもっていたが、戸は閉じていなかった。戸を閉めている時は不用意に声をかけると機嫌を損ねることもある。今は平気なはずだ。

「ねえ、アルドス。ホントに行かせていいの? いくら夏の山だからって、あんな荷物を抱えて行くんじゃ死んじゃうよ」

 山の管理を任されているのはアルドスだ。セリアに彼を止める権利も義務もない。だが、アルドスは違う。山で死者が出たとなればもちろん自己責任ではあるが、アルドスはそれを無視できる立場ではない。

「ああ、わかってる。遺言はきちんと預かっているから大丈夫だ」

「遺言……」

 セリアはその言葉の意味を吟味するように、しばらく口を開けたまま考えていた。つと立ち上がった。

「アルドスの馬鹿! 大丈夫じゃないじゃんか。これだから山の男は頼りにならないんだよ! 私、今からエドを追いかけるから。できればヴィッキーに三日以上かかるかもって手紙出しといて。今日、アイシロンいるでしょ」

「あ、ちょっと、待っ——」

 セリアは背後にアルドスの声を聞いたが、振り切るように戸を閉め、エドの行ったであろう道を駆けていった。


 小屋にはまた、アルドス一人が残された。「ったく」とぼやく。棚から便せんを取り、ヴィッキーへの簡単な伝言を書いた。

『セリア、エドに付き添い雲の上まで。三日以上かかる可能性ありとのこと。ご承知おき願う。なお、セリアに異常あり』

 フロストウィング・ホークと呼ばれる鷹は賢いだけでなく、雪や山の寒さにもめっぽう強く、風の中でも不自由なく飛べる。アイシロンはその中でも一番アルドスが信頼をおいている鷹だった。その足に手紙をくくりつけ、枷を解いてやる。そして、誰も聞いたことのないような優しい声で、アルドスは語りかける。

「スターライト・レトリートまでひとっ飛び頼む。これをヴィッキーに渡しておくれ。礼はたんまり貰っておいで。さあっ」

 アルドスが窓を開けると、アイシロンは勢いよく飛び出した。彼女のピーッという高い声が空に響いた。手紙は数時間もかからず、宿スターライト・レトリートに届けられるだろう。


「おーい、エド。待って! 私も一緒に行くよ!」

 樹々が生い茂っていてまだ彼の姿は見えなかったものの、そう遠くないことはわかっていた。エドが小屋を出てそれほど時間は経っていなかったし、なにせあの荷物だ。すぐに追いつく。ほら、見えた。

 エドは振り返って、いくらか驚いたような表情でセリアを迎えた。

「あんた、死ぬ気なの? 一人でそんな荷物を持って雲の上まで行くって正気の沙汰じゃないっての」

「でも、時間がないし、お金もないで、こうするしか仕方なかったんです。今回の調査で結果を出すこと観測所建設の見通しを立てることができなければ、研究費の承認がおりないんですから」

「だからって死ぬことはないでしょ。死んだら研究だってできないじゃない」

「いえ、死ぬって決まったわけではありません。それに私が死んだとしても、星は輝き続けますし、やっぱり人は星を見上げますから。それはそれでも構わないかもな、とか」

「馬鹿! あたしが手伝うから。ヴィッキーに二日分の代金を払ったんでしょ。なら、その分だけあたしも働かなきゃ」

「ええ、ですけど、契約は小屋までということでしたので」

「それはあんたとヴィッキーの契約。あたしとヴィッキーの契約でもあるけど、あたしとエドの間ではまた別の問題。あたしが行くってんだから行くのよ。これが二人の新しい契約、なにか文句ある?」

 セリアは自分でいうことにどうにも理屈が通っていないことはわかっていたが、とにかく勢いで押し通してしまえると思った。エドはその屈強な肉体と強い意志に似合わず、そうしたところは柔軟であるはずだと、妙な確信があったのだった。

「はあ、そうですか。なら、お願いしてもいいですか」

「もちろん。そのつもりで来たんだから」

 エドは荷物を下ろした。小屋までの道と同じように、セリアは軽くて小さい方の荷物を担いで、いざ歩こうとすると、足元がぐらつく。思った以上に疲れていた。

「その荷物、重いでしょう。観測器具が一通り揃っているんですよ。それに野営のための道具もありますから。ちなみに、資料や筆記具も持ってきてますよ」

 エドは笑ってそういったが、自分の荷物を下ろすと、中身を少し整理してから、セリアにも荷物を下ろすようにといった。そして互い荷の中身を入れ替えはじめ、しばらくすると、「よし、できた」といって立ち上がった。

「では、セリアさん。背負ってみてください」

「……うん」

 セリアは素直に、エドの言う通りに背負った。

「え、軽い。……そんなにたくさん入れ替えたの? エドの荷物が重くなるだけじゃ意味ないんじゃ」

「いえ、私の荷物はちっとも重くなっていませんよ。荷物の配置と重心、それとベルトの位置を少し調整させてもらいました。歩く場所や傾斜によって荷の重さの感じ方が変わります。つまりは、さっき歩いてきた道と、今から歩いていく道では背負い方や荷の重心を少し変えたほうがいいってことですよ。ここからは傾斜が急な場所も増えますから」

「へー、なるほどね。……エドって見かけによらず頼りになるんだね」

「ええ、よくいわれます。こう見えても私、天文学者ですから」

 天文学者ですから。そういわれても、それが理由になるのか、セリアにはよくわからなかった。

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