第18話



 レイラの私室は物が少なく、落ち着いた雰囲気を漂わせている。開け放たれた小窓からは橙色の空が見え、光を灯していない部屋は薄暗くて寂しい。


 暖かい微風を浴びながら、レイラは机の席に着いて本を手に取る。


「セレナ、そんなに兄様が心配ですか?」


 後ろを振り返らず、レイラは尋ねた。「はい……」というセレナの弱々しい声が聞こえ、少し嘆息しながら本を広げた。


「私はセレナの気持ちが理解できません。あれだけ酷いことをされて、どうして兄様を心配するのか」


 ページをめくり、片手で本を持つ。余った手で皿に盛られた焼き菓子を手に取る。静かな空間で咀嚼音が妙に目立つ。少し恥ずかしくなった彼女は、流し込むように紅茶を飲んだ。


「子息様は変わられましたから……。今は懸命に努力して、私にも優しくしてくれます。どこで習ったのか、異国の料理などを振る舞ってくださり――」


 セレナにとって心温まる思い出だ。ずっと厳しい人に囲まれて育った彼女からすれば、誰かに優しくされたのは初めてのことだった。


 レオンは鍛錬を始めた日から性格が違う。冷たい態度や乱暴な口調は同じだが、行動は細やかな優しさが感じられた。特にセレナへの扱いは優遇されている。


「クズが歳を重ねて善人気取り。よくある話ですね。面の皮が厚くて図々しい。……罪深い過去は消えません。セレナは何故、兄様を許せるのですか?」


 レイラは少し椅子を動かし、布で目を隠されたセレナを見た。


「私が悪いんです、魂を持たず生まれたので。子息様は責められません。確かに傷が塞がるまで苦しい生活でしたが、もう痛みは引きました」


 魂を持つ者は皮膚程度なら簡単に治癒できる。しかしセレナにはできない。魂を持たず生まれた彼女は、皮膚をズタズタに裂かれたら傷が残り続ける。


 その所為でセレナは顔を薄い布で隠していた、見た人を不快にさせないように。きっとレイラが同じ立場なら、レオンは絶対に許さない。後から改心したとしても関係ない。寧ろ後から善人気取りされたら虫酸が走る。


 だからレイラは理解できなかった、レオンの無事を願うセレナを。自分を深く傷つけた人を献身的に心配できる優しさが、あまりにも歪で悲しかった。


「今は感謝しています。本来、私は屋敷を出て行く身でした。傷に同情して頂き、カーヴェルにお仕えできています。この傷がなければきっと、私は賊に捕まっていました」


 セレナは苦笑で品のない話を打ち切り、全てを語らない。


 それでもレイラは察する、賊に捕らえられた人間の末路を。かつて顔に傷がなかった頃のセレナは端正な顔立ちだった。そんな美しい女が護衛も付けず、身寄りもなく生きていけるはずがない。


 当然だが貴族と平民の人生は大きな格差が存在する。


 平民は不細工な者の方が安全である場合が多い。賊でなくとも美しい女は男達に狙われてしまう。


 もしもセレナの顔に傷がなければ、今頃は男達に凌辱されていたはずだ。そして弄ばれた後は――


「…………なるほど。そういう理由ですか」


 レイラは平民の価値観や生活を考慮できていなかった。恵まれて当然の彼女は、冷遇される状況を想像できていなかった。


 あまりにも浅はか。それを自覚して僅かな羞恥を抱く。


 結果としてレオンはセレナを救い、今は優しく接している。セレナも現状に満足し、レオンを慕っていた。レイラが憤りを抱くなんて筋違いであり、空気が読めていない。


 多くの人からカーヴェルの善行は無視させていた。いつも悪行ばかり噂が広がる。レイラは耐え難い悔しさを抱き、理解を示さない者に嫌悪感を抱いていた。


 彼女は顔に出さず自省する。レオンの善行や良い面をレイラは知らない。一面だけで相手の人格を否定している。これでは愚かな民や騎士と同じではないかと、少し落ち込みながら目を伏せた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る