第39話 姉の親友と、これからの約束を交わす。

 詩織さんの収録が無事に終わったと言う連絡が来た。


 俺と姉は詩織さんや万智さんと合流した。

 そのまま二人は話があるとかで、先に俺と詩織さんで帰ることとなった。


「朝子さぁーん。こないだ、良い日本酒を出してくれる店見つけたんですよー。一緒にどです?」

「えー! 行きます行きます! 万智さんのオススメとか、絶対外れないじゃないすかー!」


 なんだか行本さんと姉がえらく盛り上がっている。

 飲み友とは聞いてたけど仲良すぎだろ。


 ギャハハと笑い合うサケ友の輪から外れた詩織さんはというと――


「万智さんとアサちゃんがイチャイチャしてる…。私を差し置いて、イチャイチャしてる……」


 淀んだ目で盛大に病んでいた。

 壊れたラジオみたいにブツブツと何か呟いている。

 めっちゃ怖い!


「あーあ。コイツ、すーぐまた拗ねるんだから。機嫌直せよー」


 姉は笑いながら、詩織さんの頬を突いた。


「別に。拗ねてなんか……」

「今日は頑張ったから祝って欲しかったんだよなー? 労って欲しいんだよなー? なー?」

「……、……、……、……、……、……」


 詩織さんの顔がぷるぷる震えている。

 羞恥心と怒りで顔が真っ赤だが、それでも姉のなすがままにされている。


 間違いない。

 内心は絶対に満更でもないと思ってる。


 俺にはわかる。

 

「じゃあ、すいませんけど、姉さんを借りてきますねぇか」

「あー、どうぞどうぞ。あんな姉でよければ」


 いつもののんびりボイスで話す行本さんだが、なぜか俺のほうをじっと見つめる。


「また後日連絡します。本日はありがとうございました、遥生さん」


 急にお礼を言われる。

 なんだろうと首を傾げているあいだに、行本さんは姉を連れて、居酒屋へと向かうことになった。


「じゃあな、詩織。またあとで」

「うん」

「遥生も、ちゃんと送っていけよ?」

「わかってるよ」


 姉は俺のほうをじっと見てから、励ますようにポンポンと肩を叩いた。


 それから詩織さんに意味ありげな視線を送る。


「たぶん帰り、遅くなるから。ゆっくり話しとけ」

「……ん」


 詩織さんは言葉少なに頷いた。

 

 そして姉と行本さんと別れ、俺と詩織さんは帰路へ向かうタクシーに乗り込んだ。


 また二人きりになる。


「お疲れさまでした。うまくいってよかったですね」

「うん。よかった」


 まだ詩織さんは目がとろんとしている。

 どこか寝ぼけ眼に見えた。


「疲れてるなら寝てていいですよ。家までまだ時間かかりますし」

「えへへ……」


 詩織さんは夢うつつの顔で幸せそうに笑っている。小さな子どもみたいなあどけない顔だった。


「今日の収録、サイコーだったよ。久しぶりに、旅ができた気がする」

「旅、ですか?」

「向こうの世界への旅。たまにね、役に入り込むとね、旅立てたってなる時があるんだよ」


 それは声優である詩織さんにしかわからない景色なのだろう。

 

 これだけいい顔をして話すのだから、幸せな旅であったに違いない。


「じゃあ、これで復帰できますね」

「……まだまだ。道は長いよ」


 詩織さんは、俺によりかかった。

 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。柔らかい質量を脇で感じ、肌越しに愛おしくなるような温もりを覚える。


 そして、ちょうどいい定位置を見つけたとばかりに、詩織さんはちょこんと頭を俺の肩に乗せる。


「今日はたまたま、席を空けて待っててくれた人たちがいただけ。こんなの復帰のうちに入らないよ」


 それは謙遜ではなく、詩織さんが生きる世界の現実なのだろう。


 今日もこの国ではたくさんのアニメやゲームが作られ、キャラクターに命を吹き込む声優たちが求められる。


 そして今日もさまざまな声優たちが自分の技術と才能をフル稼働させて、オーディションを勝ち抜き、演じる役を勝ち取っていく。


 詩織さんはまた、その厳しい戦いに身を投じていく。


 見守るしかできない俺には気休めすら言うこともできない。


 その代わり、わかっていることがある。


「でも詩織さん。いまとってもワクワクしてるでしょ」


 俺が指摘すると、詩織さんは満面の笑顔で頷いた。


「うん。すっごいワクワクしてる」

 

 これからも詩織さんの旅と戦いは続く。

 まだ彼女が進む先に何が待ち受けているのかはわからないけど。


 多分それは、とても険しく、果てしなく、辛く、そして何よりも楽しい旅であるに違いない。


 だからこそ願ってしまう。

 どうか詩織さんの旅の終着点を見届けさせてくださいと。

 

 詩織さんのそばで、どうか。


「ねぇ、ハルくん」

「ん? どうかしました?」

「家に着いたら、話があるの」


 車内の空気が急にひんやりする。

 なぜ、そう感じたのかはわからない。


 タクシーのルームミラーを見る。

 ミラー越しの詩織さんは何かを決意したような表情をしていた。


「それは、ここではできない話ですか?」

「家じゃないと無理、かな。時間もらってもいい?」

「……もちろん。いいですよ」

「ありがとね」


 詩織さんは優しげに微笑んだ。


「……ちょっとだけ寝るね。着いたら起こしてもらえるかな?」

「大丈夫です。任せてください」

「……お願い。肩、借りるね」


 いつのまにか肩から寝息が聞こえ始める。

 詩織さんが瞼を閉じ、眠りについてる。


 俺は彼女を起こさないよう、姿勢を保ちながら、いつまでも詩織さんの寝息をそばで聞き続けた。

 

 家に着いたら話がある。

 その話がなんなのか。想像したくなかった。このままずっと家に着かなければいいのに、と願った。


 40分後。タクシーは家の前に到着する。


 俺は詩織さん起こした。

 よく眠れたのか、詩織さんの目ははっきりとしている。


 そして家に上がった俺たちは二人揃ってリビングのソファに座っていた。


 席について早々、詩織さんは切り出した。


「私、そろそろこの家を出ようと思う」


 頭の奥をガンと殴られたような気分になった。しかし俺はなんとか平静を装う。

 この人の前でみっともない姿を晒したくなかったのだ。


「理由を聞いてもいいですか?」

「……万智さんから聞いた。あの人、ハルくんの前に現れたんだよね?」


 あの人。

 詩織さんの母親、優樹菜さん。


「いま、万智さんが事務所に報告して、処置を進めると思う。アサちゃんも一緒に行ったんじゃないかな。脅迫の証拠動画を押さえたって聞いてるし」

「そこまで知ってたんですね……」


 となると居酒屋に行くというのも方便なのだろう。

 

 こちらに気を遣わせないようにして、わざわざ先に帰らせてくれたのかもしれない。


「私のことならいい。ムカつくけど、立ち向かってやればいいし。でも、ハルくんを巻き込んだのは絶対に許さない」


 詩織さんの声はいつも通りなのに、底知れない怒りをたたえていた。


「だから、出ていくんですか?」

「……何かあってからじゃ、遅い。ハルくんはまだ高校生なんだから。私の事情にハルくんを巻き込みたくない」

「俺の迷惑を詩織さんが勝手に決めないでください。前にもそう言いましたよね?」

「そうだね。ごめん、言い直す」


 詩織さんはまっすぐ俺の目を見て話す。

 これが本心の言葉だと伝えるために。


「あの人のことはただのきっかけだよ。私が今の状況に耐えられないだけ。だから出ていく。そうするしかないと思ってる」

「……本当に他の選択肢はないんですか?」

「ないと思う。たぶんこれが、最善の道なんじゃないかな」


 反論の言葉を捻り出そうとしたけど、全然言葉は出てくれなかった。


 どんなに言葉を尽くそうとも、詩織さんの気持ちは翻らないとわかっているからだ。


 今回の「出ていく」は、前回の「出ていく」と重みが違う。


 詩織さんの決意に迷いはない。


 声優として立ち直った詩織さんは、彼女だけが見据える「最善の道」へと歩み出していくのだろう。


 そして、そこに俺は必要ないのだ。


 泣くな。

 わかっていたことだ。


 もしかしたら、と自惚れたこともあった。

 詩織さんの心に何度も触れられたと思っていた。


 でもそれは全部錯覚で、思春期の痛い妄想に過ぎなかった。


 あーあ、カッコわる。


 市原に背中を押されて、詩織さんの母親にイキって、姉とは姉弟喧嘩までして、俺の気持ちを認めてもらったのに。


 けど、仕方ない。

 仕方ないのだ。


 詩織さんは俺の手に届く人じゃなかった。

 この人と並び立てるはずがなかった。


 だからこれは在るべき関係に戻るだけ。

 たったそれだけの話。


「だからね、ハルくん。約束して」


 約束?

 今さら、なにを約束することがあるのだろう。


 そのまま、詩織さんは俺のほうへ近寄る。


 吐息がかかりそうなほどの距離に、詩織さんの顔があった。


「私が声優として復帰して、超超超人気声優になって、それでもハルくんがまだ私を好きでいてくれたら……」


 詩織さんは俺の耳元に顔を引き寄せ、囁いた。


「また、一緒に暮らそう。死ぬまでずーっと」


 俺の内側に、詩織さんの言葉が流し込まれる。


 これから先、一生忘れることのない言葉として、心の裡に深く静かに溶け込んでいく。


「なんで……。詩織さん……。俺が詩織さんを好きだってこと……」

「さぁ、なんでだろうね?」


 詩織さんは俺の額に自分の額をくっつける。お互いの鼻先が触れ合いそうな距離で話を続けた。


「私もね、ハルくんのことが好きなの」


 俺は大きく目を開いた。

 本当に? と思わず聞き返してしまう。


「そんなに疑う? 私、結構ハルくんにデレてたと思うけど」

「……そうだったらいい、とは考えてました。でも、そんなの都合のいい妄想だと思ってて」

「よかったね。都合のいい妄想が現実になって」


 くすくすと詩織さんは笑った。


「ハルくんとの共同生活、すっごく楽しかったからさ。おかげで、声優として戦えなくなった私でも、息を吸っていいんだって思うことができた」

「俺は何もしてないですよ」


 一緒に飯を食って、耳かきしてもらって、ゲームをして、一緒の時間を過ごしただけ。

 

 詩織さんが立ち直れたのは詩織さん自身の力だ。


「でもハルくんは、何度も私の話を聞いて、真剣にぶつかってくれた。ハルくんが、私を霧山シオンに戻してくれたの」

「……じゃあ、なんで出て行くんですか? 出て行く必要なんて、どこにもないでしょ」

「言ったでしょ? 私がこの状況に耐えられない。私はまだ、ハルくんに並び立てるような声優じゃない」


 すっと詩織さんは俺の頬を両手で包みこんだ。潤んだ眼差しで俺を見つめる。

  

 詩織さんの瞳に映る俺も涙を流していた。


「ハルくんは、強い人だよ。まっすぐ人と向き合える強さを持ってる。ここにずっといたら、私は君の強さに甘えちゃう。そんな状況に耐えられないの」

 

 強い人なんて初めて言われた。

 しかもそれを、他ならぬ詩織さんに言われるなんて。


「……甘えたっていいじゃん。俺はどんな詩織さんだって好きだよ。声優でなくても、俺は――」

「それは聞けないね。私は声優でいる私が好きだから」


 俺は詩織さんの顔を見つめる。

 好きな人の顔に見惚れてしまう。


 切なく潤んだ瞳、上気した頬、半開きになった桜色の唇が悪戯っぽく笑ってる。


 これは引き留められないな。

 だってこんなに楽しそうなんだもの。


 好きな人が楽しそうにしてるなら、背中を押すことしかできない。


「……超超超人気声優は漠然としてるので、目標は超人気声優あたりまで引き下げませんか?」

「ちょっとー。いきなり妥協させる気?」

「だって休業する前の詩織さんは人気声優でしょ? 超人気声優なら、休業前よりパワーアップしてるってことでわかりやすいじゃないですか」


 これまで散々煽られたんだ。

 たまには煽り返してやる。


「詩織さんなら、それくらいすぐでしょ?」

「……もちろん。マッハだね」


 すると詩織さんは額で軽く俺のデコを小突いた。


「だから、私が超人気声優になるまで浮気しないでよ。ちゃんとそれまで私のこと、好きでいてよ?」

「それはこっちの台詞ですよ。人気のイケメン声優とスキャンダルになるとかは勘弁してください」

「……じゃあ、お互いに爆弾を持っておくのはどう?」

「爆弾?」

「約束を違えそうになったら、お互いを脅迫できる爆弾。私たちを縛りつける爆弾を持っておくの」


 まるで核兵器のようだ。

 あるいは相互確証破壊か。


「そんな都合のいい爆弾あります?」

「だから、今から作るの」

「どうやって?」

「こうやって」


 詩織さんの顔がさらに近づいた。


 唇に柔らかいものが触れる。


 息ができない。

 甘い吐息が口の中に流れ込む。

 

 熱くて優しい感触に頭が灼かれそうになる。


 永遠とも思えるような時間の中で、俺はゆっくりと事実を認識した。


 俺は今、詩織さんとキスをしている。


 ピコンという音がどこかで鳴った。

 ぷはぁ、と声を漏らし、詩織さんは唇を離す。


 詩織さんの顔はリンゴみたいに真っ赤になっていた。

 笑顔の仮面も、大人の余裕もなく、ふふふふと勝ち誇った笑みを浮かべながら、いつのまにか手にしていたスマホを俺に見せた。


 俺と詩織さんのキスしている写真。


 これが詩織さんの用意した爆弾。


「ハルくんのとこにも送っておく。私が万が一、約束を破りそうになったら好きに使ってくれていいよ」

「……こんな写真、他人に見せるわけないでしょ」

「……私も。これはアサちゃんにも見せられないなぁ」


 そして俺たちは顔を見合わせて、馬鹿みたいに笑った。


 この先、何度転がることがあったとしても、きっともう大丈夫。


 ここで交わした約束が、俺たちを生かし続けてくれる。


 だから、もう歩むことを恐れない。

 どんな嵐が吹き荒れようとも、前に進んでいける。


 俺たちはもう、一人じゃないのだから。

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