第38話 姉(=ラスボス)と、姉弟喧嘩をする。

 俺と姉は仲が悪いわけではない。

 ただ歳が離れてるせいか、一緒に遊んだり、出かけたりした記憶はほとんどない。


 そんな俺たち姉弟はいま、なんの巡り合わせか東京タワーの展望台に来ていた。


「うおおっ、たっけー……! すっげー、よく見えるー……!」


 姉は小学生男子のようにテンションを上げながら、レンタルした双眼鏡で景色を眺めている。


 俺たちが今いるのはメインデッキ。地上150メートルの位置にある展望台だ。

 周囲はガラス窓で取り囲まれており、東京の景色が一望できるが、いまはあいにくの曇り空のため、ひどくどんよりした景色になっている。


「おー、あそこイベントやってんじゃん。天気悪いのに人が入ってるなー……! 遥生も見ろよ、あそこ」

「よく見えないよ……。双眼鏡、借りてないし……」

「はぁ〜〜!? お前、何しに東京タワー来てんだ。やる気あんのか!?」

「どういう説教だよ」


 むしろこの曇り空の中、ここまでテンションを上げられる姉がなんなんだと言いたい。


「無料で借りられるんだから、さっさと借りてこい! あ、うち探そうぜ。方向的にはこっちだろ?」

「23区外の住宅街の戸建てだぞ。見えるわけないだろ」


 こちらのつっこみなどまるで気にも留めず、姉は双眼鏡を覗き込み続ける。


 俺は姉の隣に立ちながら、黙ってガラスの向こうの東京を眺めた。


 家のある方向に向かって目を凝らしてみるが、見えるのはビルの群れや街並みだけで、街並みを構成する家々の姿まではわからない。


 姉の視界に何が映っているのかも、俺にはわからない。


「昔さ、詩織と来たことあんだよ。東京タワー」


 双眼鏡に両眼をくっつけながら、姉は言った。


 俺は相変わらず景色を眺め続けるが、全然頭に入らなくなった


「なんで行く流れになったのかは、忘れた。多分、ファミレスかどこかでだべってるときに盛り上がって、勢いで来たんだと思う」

「その時も双眼鏡で家を探したの?」

「探した探した。あいつもさ、遥生みたいにそんなの見えるわけないって最初は言ってたのにさ」


 昔を思い出してか、姉はしんみりとした口調で話し続けた。


「どっちが先に見つけられるか競争しようぜって煽ったら、だんだんムキになってきて。日が暮れるまで、展望台で探し続けたよ」

「じゃあ、ここは思い出の場所なんだ」

「あいつとの思い出は他にもいくらだってあるさ。小学校の時も、中学の時も、しょっちゅうつるんでたし」

「高校は?」

「……その時にはあいつ、声優の仕事を始めてたからな」


 姉の言葉が途切れる。

 しばらくの沈黙ののち、姉は静かな声音で話した。


「声優としてのあいつを、あたしはほとんど知らない。業界のことなんてサッパリだしな。それでも、あいつのことを世界で一番よくわかってるのはあたしだ。あいつの両親でも、万智さんでもなく。あいつ以上の友達は、たぶんこれから先、などとできることはない」


 姉の言葉に迷いはなかった。

 こんなに迷いなく他人を親友と呼べる姉のことが羨ましかったし、誇らしかったし――この人には敵わないと思い知らされる。


 俺は覚悟を決めた。


「俺が詩織さんを好きになったこと、怒ってる?」

「……あたしの気持ちはどーでもいいだろっ。好きになっちまったもんは仕方ない。他人がどーこー言う道理はねぇ」

「姉さんは他人じゃない。詩織さんは、姉さんの親友だろ」

「だからなんだよ。祝って欲しいのか? 応援でもしろってか?」

「そうじゃない。姉さんがどう思ってるか教えて欲しい」

「だったら教えてやるよ」


 姉は双眼鏡を外し、苛烈な眼差しを俺に向けた。いつのまにか片方の手をポケットに突っ込んでいる。

 そのせいで威圧するような格好になる。


「んなモン、ムカついてるに決まってんだろ? 弟のくせに、なに人の親友に手ェ出そうとしてんだ」


 口元は笑っているが、白い歯が覗くその表情は、どこか狼の威嚇にも似ている。


「遥生と詩織じゃ釣り合わねーよ。さっさと諦めろ」

「それでも諦めない、って言ったら?」

「万智さんに言って、詩織をお前から引き離してもらう。二度とあいつをお前には会わせない」


 ぐっと唇を噛んだ。

 本当にこの人は俺が嫌がることを的確に理解している。


 おそらくハッタリではない。

 姉はやると言ったらやる人間だ。

 そういう人だからこそ、詩織さんと親友の間柄になれたのだろう。


 この人と俺では、能力的にも人間的にも、全然格が違う。


 さっきだって、結局姉に助けられてしまった。詩織さんの隣に立つ資格など、俺にはないのかもしれない。


 それでも、だ。


「……諦めるなんてできないよ。詩織さんに二度と会えなくなるとしても、自分の気持ちを否定はできない」


 俺は言った。


「……俺は、小さい人間だよ。限界を超えて頑張るなんてしたことがない。詩織さんに並び立つ器がないことなんて知ってる。でも、決めたんだ。俺はずっとあの人を推し続ける。あの人のメイトでいる、って」


 気づいてることがある。


 たぶん詩織さんは姉が好きなのだと思う。

 少なくとも、好きだった時期があるんじゃないだろうか。


 見ていればわかる。

 だって姉について語る詩織さんの顔はいつだって気持ち悪くて――とても可愛かった。


 だからこそ、詩織さんが好きな相手に、自分の気持ちを偽ることなんてできなかった。


 それによって、何を失ったとしても。


 それに俺にも。親友とはとても呼べないけど、骨を拾ってくれる友達ならいる。


 ――わたしは身の程知らずで恋愛脳な千川、とてもいいと思う。そのまま殻を破るべきだよ。


 生徒会長の市原の言葉を思い出す。

 あいつが言ったように、今こそ殻を破るべきなのだ。


「俺はあの人が超超超人気声優になるのを見届ける……。いや、声優を引退してからも、詩織さんが何者でなくなったとしても、あの人の幸せを願い続けたいんだ」

「だから、二度と会えなくなっても構わないと?」


 二度と会えない、と言われて、胸の奥に途方もない喪失感を抱いた。


 自分の大事なモノが消えてしまった感覚。

 

 誰かを好きになるということは、こんな喪失感も味わうことなのだと、俺は唐突に理解した。


 足元ががらがらと崩れ落ち、真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。

 

「二度と会えないなんて、いやに決まってるだろ……」


 俺は声を震わせながら答えた。


「だけど、ここで自分の気持ちに嘘をついたら……、俺は詩織さんにも、姉さんにも、胸を張って話すことができなくなる。そしたらもう……、俺は二度と自分を許せなくなる」


 だから、と俺は続けた。


「諦めるなんて絶対に言わない。俺は詩織さんが好きだ。大好きなんだ。俺があの人の幸せになれたら嬉しいけど……、でも、そうでなかったとしても……、好きな気持ちを手放すことだけは、絶対にしたくない」

 

 もう言葉は出てこなかった。

 自分の気持ちは余すことなく、吐き出してしまったからだ。


 姉はポケットからゆっくりと手を出した。


「……言いたいことは、そんだけか?」


 つかつかと足音を立てて、俺に接近する。


 あ、殴られる。

 俺は反射的にピンと背中を伸ばして目を閉じた。


「避けんな目ぇ閉じんな」


 ドスの効いた声に、俺は慌てて瞼を開けた。

 次の瞬間、衝撃が襲いかかる。


 パンチでもビンタでもなく、デコピンの衝撃が。


 パチン、と勢いよく額が弾かれる。


「あ……、あう……、あ痛ぁ……」


 その場にうずくまり、額を抑えて悶絶した。


「こないだ、詩織に調子こいたこと言ってたらしいじゃん? いまので勘弁してやる」

「……こないだ? 調子こいた?」

「詩織のこと、気持ち悪いって言ったらしいじゃん」

「待て。おかしい。経緯をいろいろ省いてる」


 とはいえ言ってしまったのは否定できないのだけど。

 

「……万智さんには黙っといてやる。あの人、勘がいいから、どっちみち察するだろうけどな」

「姉さん?」

 


 姉は笑いながら、俺の頭を乱暴に撫でた。昔から俺を褒めるとき、姉はこんなふうに頭を撫でてきた。今ではすっかりなくなっていたけど。


「……あいつ、面倒くさいから、いろいろ大変だと思うけど、絶対に手を離したりするなよ?」

「わかってる」

「つーか、付き合ったら絶対に別れるな。弟と親友の板挟みになるとかマジで勘弁だからな」

「約束する」

「……これを言うのは二度目だけど」


 姉は優しい声音で言った。


「あたしの親友を、頼んだぞ。あいつのことはお前しか任せられない」


 あの姉が、俺のことを認めてくれた。


 そのことで感無量になる。胸がいっぱいになる。俺は込み上げてくる気持ちを抑えながら、頷いた。


 こうして、千川家の初めての姉弟喧嘩は終結した。


 どっちが勝って、どっちが負けたのかわからない結末だけど。


「でもあれだなー。こんだけ言っといて結局、詩織にフラたらウケるな」

「やめろよ! 一番気にしてるところなのに!」

「まー、そこは頑張れ。……そのうち、結果はわかるだろうさ」


 姉は楽しそうに笑っている。


 なに言ってるんだ、この人。


 困惑して首を傾げる俺をよそに、姉は、画面をタップした。


◇◆◇


「はい。いまのテイク、まるっといただきましたー! これで劇場版『アンセム×コード』、ALICEのパートは収録完了でーす。お疲れ、霧山ー!」


 スピーカーを通じて、音響監督であるサトさんの声が響く。


 しかし私はすぐに反応できなかった。

 

 あれ? もう終わり?

 まだ全然時間たってないのに。


 時計を確認して、驚いた。

 体感時間としては10分も経ってないのに、いつのまにか3時間経っている。


 知らないうちに息を切らし、全身に汗をかいていた。


 そうか。収録をやり切れたんだ。


 ちゃんと私は、演じ切れたんだ。


「よかったよ! 霧山さん! 最高だった!」


 大林監督は拍手で私を迎えてくれた。プロデューサーの湯川さんは強面で泣いている。

 サトさんは黙って私にサムズアップしていた。他のスタッフの人たちも笑顔で祝福してくれる。


「あ……、おりがとう、ございます」


 もっと毅然とお礼を言いたいのに、気持ちがとてもふわふわして、なんと答えればいいかわからない。


 万智さんの感想を聞こうとして、あたりを見回したが、万智さんの姿はなかった。


「あ、マネージャーさんなら、急用があるって言って出ていますよ。すぐに戻ると言ってましたけど」

「ああ、そうですか……」


 どうしたんだろ?

 また何かトラブったのかな。


 だめだ。全然頭が回らない。


 一旦、万智さんが戻ってくるまで、控室で休ませてもらうことにした。


 ペットボトルの水を飲み、水分補給をしながら、息を整える。


 だんだん意識の焦点が現実に合い始める。


 これはちょうど夢から覚める感覚に似ているのかもしれない。


 ついさっきまで私はALICEとして、『アンセム×コード』の世界を生きていたのに、その感覚が急速に私の中から消えていく。


 物語の世界から覚めるのは、とても寂しい。同時に物語の世界を生きれた喜びに感謝したくなる。


 ああ、そうだ。


 これが声優という仕事だ。

 

 この喜びを知ってしまったから、私は声優の仕事を選んだ。


 この先も、私は声優であり続ける。

 そのための道標を、もう私は見つけたから。


「……あ、そうだ。万智さんから連絡来てるかも」


 私はスマートフォンを取り出した。

 LINEに複数のメッセージが来ている。

 ひとつは万智さんから。


 もうひとつはアサちゃんからだ。

 録音ファイルが添付されている。


「……なんだろ?」


 私はAirPodsを耳につけ、アサちゃんに着信をかけた。

 

 こすれるような音とくぐもった声が聞こえる。様子がおかしい。


 もしかしてスマホをポケットに入れっぱなしにしてる?


 と、誰かの声が聞こえた。


「俺が詩織さんを好きになったこと、怒ってる?」


 ……ハルくん?

 

 間違いない。ハルくんの声だ。


 って、ちょっと待って。

 ハルくん、いまなんて言った???


「……あたしの気持ちはどーでもいいだろっ。好きになっちまったもんは仕方ない。他人がどーこー言う道理はねぇ」


 アサちゃんの声も聞こえる。

 どうやらハルくんは今、アサちゃんと一緒にいるらしい。


 しかもハルくんとアサちゃん、喧嘩してる?

 全然状況はわからないけど、理解できたこともある。


 二人は今、私のことで言い争ってるんだ。

 

 アサちゃんの厳しい言葉に、ハルくんは果敢に応じる。


 ハルくんの言葉が、私の耳に流れ込んでくる。



「諦めるなんてできないよ」


「詩織さんに二度と会えなくなるとしても、自分の気持ちを否定はできない」


「詩織さんが何者でなくなったとしても、あの人の幸せを願い続けたいんだ」

 

「二度と会えないなんて、いやに決まってるだろ……」


「けど、ここで自分の気持ちに嘘をついたら……、俺は詩織さんにも、姉さんにも、胸を張って話すことができなくなる」


「そしたらもう……、俺は二度と自分を許せなくなる」


「だから、諦めるなんて絶対に言わない」


「俺は詩織さんが好きだ」


「大好きなんだ」


「俺があの人の幸せになれたら嬉しいけど……。でも、そうでなかったとしても……」


「好きな気持ちを手放すことだけは、絶対にしたくない」


 そこで録音ファイルは途切れた。

 

 なのに私はAirPodsを耳から外せなかった。


 万智さんが戻ってきて、何が起きたのか事情を聞くまで、私はその場を動くことができなかった。

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