第28話 姉の親友を、〇〇なことに気づいてしまった。
店内のBGMが変わる。
先ほどまではゆったりしたジャズだったのに、外国のシャンソンが流れ始めた。
英語ではない。おそらくフランス語か。
情熱的な女性の歌声が頭の上で響いている。
市原の顔はいつものように涼しげなまま。
理知的な瞳がじっとこちらを見据えている。
俺はなんでもないような顔で彼女の視線を受け止める。
アイスコーヒーをすすり、ひとしきりのどを潤してから答えた。
「市原。恋愛脳が過ぎるぞ」
「違うの?」
「違う。全然違う。俺と詩織さんは断じてそういうのではないっ」
すらすらと口から言葉が出てくる。
正直なところ安心していた。
市原の推理が全然見当違いのところへ着地してくれたからだ。
俺が? 詩織さんを?? 好き???
そんなこと、あるわけがない。
ここに関しては疚しいことがない。おかげで舌も良く回る。
「詩織さんは、姉の親友なんだ。最近近くに越してきてさ。たまに顔合わせることが増えて。ペンもそれでもらったんだよ」
「それはさっき聞いた」
「ん? そうか?」
気を取り直して、話を続ける。
「昔、よく一緒に遊んでもらったりしてさ、お世話になってたんだけど。そのせいかな。子供の頃と変わらない距離感で接してきてさ。ほんと勘弁してほしいんだけど」
息継ぎをするように、もう一度アイスコーヒーを流し込む。
話を続ける。
「詩織さんは、すごい人でさ。キレイだし、頭もいいし。性格は……癖はあるけど、とても素敵な人でさ。でもそれは家族に対して“好き”って思う気持ちとなにも変わらなくてさ。恋愛的な意味で好きなんて、そんなことあるわけない。あるわけないんだ」
アイスコーヒーのグラスを掴み、飲もうとする。が、すでに中身はなく、代わりに溶けかけた氷が唇の先を冷やした。
話を。
話をしないと。
「だから、だからさっ」
「こっち見て、千川」
市原が珍しいモノを眺めるような顔でこちらを見ている。
いつからこんな表情をしているんだろうと思った俺は、さっきからずっと市原の顔をまともに見ていなかったことに気づく。
ひと息ついて、天井を仰いだ。
心臓の鼓動が早くなっている。
顔面の体温が熱くなっているのがわかる。
「千川さ、なんでそんなにごまかしたがるの?」
「……ごまかすってなにを?」
「自分の気持ち」
こっちの様子を茶化すことも、笑うこともしない。
ただ不思議そうに首を傾げていた。
「さっきの千川、自分の気持ちをごまかしているように見えた。気づかないフリをしている感じ、かな」
「……詩織さんは、姉の親友なんだ。好きになっていい人じゃない」
「なんで?」
「なんでって……」
同棲しているから。
休業中の人気声優だから。
違う。そんな理由じゃない。
「俺はいままで分相応を第一に生きてきた。できる努力は惜しまないが、身の丈に合った生き方を常に心がけてきた」
「どうして?」
「……たぶん身近に、破天荒な生き方をしてる人がいたせいだ」
幼い頃から姉の姿を見て育った。
姉は自分が傷つくことなんて厭わず、いつもガムシャラで、道なき道を無理やり切り開いて突破していくような人だった。
もしもこの世に主人公気質という言葉が合う人間がいるのだとしたら、姉は間違いなくその部類だと思う。
そんな姉の姿を見て、こんなふうには生きられないと思わされた。
己の器の小ささを、いつも自覚しながらここまで育ってしまった。
「自分が傷つく生き方はしたくない。なるべく穏やかに、波風立てずに生きたい。そういうつまらない人間なんだよ、俺は」
「卑下しすぎじゃない? 立派に副生徒会長やってるのに」
「こういう人間だから、生徒会選挙で市原に負けんたんだよ」
去年の秋に開催された生徒会選挙。
俺は推薦に有利だからという動機で生徒会長の選挙に立候補した。過去の事例から徹底的に戦略を練り、票を募ったのだが、結局市原に勝つことはできなかった。
「市原の選挙演説、いまでも覚えてる。アレを聞いたときは自分の負けを確信した」
「……なんか照れる。一生懸命に話しただけなのに」
「それがいいんだよ」
結局のところ、俺みたいな半端者は一生懸命に生きてる奴には敵わない。
だからこそ、である。
「俺みたいな人間に、詩織さんを好きになっていい資格なんてないんだよ」
俺は言った。
「詩織さんは、俺とは対極の生き方をしてる人なんだ。自分がボロボロになっても欲しいものに向かって手を伸ばして、抗い続ける。そういう人間と俺が釣り合うわけないだろ」
それなのに俺は一定のラインを踏み越えてしまった。
詩織さんの“仮面”の内側に手を伸ばしたいなんて願い、素顔に触れようとしてしまった。そのために、詩織さんに抱えていた気持ちを洗いざらいぶちまけてしまった。
だから詩織さんにも避けられてしまった。
親友の弟が出しゃばっていいラインを、超えてしまったのだ。
「結局、身の程知らずだったってだけだ。こんなのはそんだけの話だろ」
もうさっさと打ち切りたかった。自分の恥ずかしい部分を曝け出してしまった気がする。最近こんなことばかりだ。
「なるほどね」
話を聞き終えた市原は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「千川の気持ち、よーくわかった」
「そうか。やっとわかってくれたか」
長々と話してしまったしな。
いずれにせよ、誤解が解けたのならこちらも話した甲斐があったというものだ。
「千川が詩織さんをむちゃくちゃ好きなのはよーくわかった」
「振り出しに戻ってんじゃねーか」
なんなら、『むちゃくちゃ』なんて形容までついてしまっている。
「今の話のどこをどう聞いたらそうなるんだよ」
「今の話のどこをどう聞いてもそうとしか思えないけど……」
市原は言った。
「身の程知らずなんて自分で言えるくらい、詩織さんと関わろうとした。仕事が手につかないくらい、詩織さんで頭がいっぱいになってる。そんなの好き以外の何物でもないと思うけど」
「……仕事に支障が出てるのは申し訳なく思ってるけど」
「というか、千川は自分を卑下しすぎ」
なぜか市原は怒ったように言った。
「私は千川のこと、尊敬してるし、いつも助けてもらって感謝してる。……だから自分に価値がないみたいな言い方をされると腹が立つ」
意外だった。
市原が自分をそんなふうに評してくれていたなんて全然知らなかった。
なんと答えていいかわからなくなってる俺に「ねぇ」と市原は追撃をしてくる。
「千川が、詩織さんについていいなと思ってる点、挙げてみて」
「えっ、なんで」
「いいから。なるべく正確に。これ、会長命令」
ここは学校じゃないから、生徒会長の権限など存在しない、とつっぱねたかったが、市原の目は真剣だった。
仕方なく、詩織さんのことを思い浮かべてみる。
いいところ、はすぐに出てきた。
「笑顔にいつも癒される」
「うん」
「声が超キレイ」
「うんうん」
「料理と耳かきが上手」
「それで?」
俺はいままでの生活で見てきた詩織さんの姿を思い浮かべる。
笑った顔。怒った顔。泣いた顔。いろんな表情の、いろんな声の詩織さん。
「すごく大人っぽいのに、めちゃくちゃな負けず嫌い」
「人の目を気にしすぎて、完璧な自分を演じようとする」
「自分の弱さを隠したがる」
「どれだけ傷ついても、立ち上がるのをやめようとしない」
詩織さんの強さは、弱さと表裏一体だ。
そのせいで詩織さんは大きく躓いてしまった。それでもなお、傷を抱えたまま、もう一度立ち上がろうとしたら。
そんな詩織さんの姿に憧れた。
そんな詩織さんをかっこいいと思った。
そんな詩織さんのことを、俺は――
「……俺、詩織さんが好きだ」
何気なく口からついたその言葉は、自分のいまの気持ちにぴったりとはまった。
あまりにぴたりとハマったので、思わず狼狽えてしまう。
「うん。いいね」
そんな俺を、市原は愛おしげに眺めた。
「わたしは身の程知らずで恋愛脳な千川、とてもいいと思う。そのまま殻を破るべきだよ」
「……殻を破るって?」
「その人は千川がすごいと思ってる人なんでしょ? 釣り合わないと思ってるから、自分の気持ちから目を逸らしちゃって。それでも業務に支障が出るくらい、その人のことが気になっちゃうんでしょ?」
市原は言った。
「だったから分相応なんて言ってないで、ぶつかっていくべき。安心して。千川の骨はちゃんと私が拾う」
「玉砕前提で話すな」
顔に似合わず、市原は根性論を好んでいるらしい。ひとしきり笑った俺は自分の胸の内がすーっと軽くなっていることに気づく。
「確かに市原の言ったとおりだ」
「えっ?」
「話を聞いてくれるだけで救われるものはある。ありがとな」
「……それ、千川が言ったことだけど」
「あれ? そうか?」
「そうだよ。ふふ、自分で言ったこと忘れるなんて。ふふ、ふふふ……」
市原はくすくす笑った。
俺は市原に話を聞いてもらえてよかったと思う。詩織さんはもちろん、姉にだってこんな話はできなかっただろうから。
「というか、それって詩織さんのほうも意識してる可能性はないの?」
「意識って?」
「だから詩織さんが千川と顔を合わせなくなった理由。千川のこと、意識してるんじゃないかって」
「詩織さんが? 俺を? ないないない」
いまは休業中とはいえ、詩織さんは人気声優・霧山シオンである。
親友の弟して可愛がってはくれていたとしても、俺を異性として意識するなんてあり得ない。あの人にとっての俺は小さい頃の俺の姿のままなのだ。
勘違いする余地なんてあるわけがない。
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