第23話 姉の親友を、引き留める。
ここを出て、わたしと一緒に住む気はない?
行本さんの提案が、ガンと俺の頭を叩きつけた。
詩織さんも口を閉ざし、考え込んだ顔つきになる。
「最近、わたしも引っ越してねぇ。マンション買ったんだよ。中古の2LDK。ひと部屋余ってるから、同棲も余裕でできちゃう。東京からも近いし、シオンにとっても悪い条件じゃないと思う」
「ま、待ってください。なんで、そんな話をいきなり……」
「強制はしてませんよ、悠生さん。あくまでこちらは選択肢を提示しているだけです」
と、行本さんは答える。
「それにこれは、シオンだけでなく、悠生さんのためでもあるんですよ?」
「俺のため?」
「今後、シオンとの同棲が続けば、悠生さんにも多大なご迷惑がかかると思います。まだ高校生である悠生さんを、弊社所属タレントの問題に巻き込むわけにはいきません」
「問題って、そんなこと――」
「たとえばですけどね。この生活が万が一、外部に漏れた場合、どうなるかを想像したことはありますか?」
「それは……」
芸能界や声優業界のことなど、なにもわからない。
それでも想像くらいはつく。
ワイドショーや週刊誌は面白おかしくゴシップとして騒ぎてるだろう。
ネットでも様々な憶測や中傷が飛び交う。
個人情報などもきっとさらされる。
そして一度受けた汚名は、これから先もデジタルタトゥーとして刻まれ続ける。
詩織さんだけではない。
俺にも、あるいは家族にも中傷の矛先が向けられるだろう。
「でも、俺たちは疚しいことなんてなにもしてません」
「事実は関係ないんですよ。我々のような人気商売では『そういうことがあった』と憶測されること自体が致命傷なんです」
行本さんの言葉は正論だ。
もしも俺が当事者の立場じゃなかったら、行本さんの意見に賛同していただろう。
そもそも休業中の人気声優と、ただの男子高校生が同棲しているいまの現状がおかしいのだ。
正論なのはわかっている。
だけど……。
「……ハルくんに迷惑がかかるのは、ヤダなぁ 」
なんでもないように。
ぽつりと詩織さんは呟いた。
真意がわからず、俺は詩織さんのほうを見た。
「そっか。万智さんと一緒に暮らすってこともできるんだね」
「ちょっと待ってください。詩織さん、ここを出て行くつもりなんですか?」
「……少なくとも検討はしたほうがいいと思うんだ。万智さんの提案は全然悪い話じゃないし」
うん、そうだよ。
と詩織さんは1人納得したように頷く。
「ハルくんだって来年には受験でしょ? そんなときに私のせいで迷惑はかけられないよ。また、いつ発作が起きるかわからないし」
「そんなの、いくらでも看病しますよ。そもそも来年になれば、きっとよくなってます」
「これから先、よくなるなんて誰に保証できるの?」
詩織さんは笑っている。
笑っているが、その声はとても昏い。
「私はハルくんやアサちゃんの重荷になりたくない。誹謗中傷の対象になるのも耐えられない。いまならまだ、なにも失わないで済む」
「仮定の話でしょ。誰も俺のことなんて叩いてませんよ」
「なにかが起きてからじゃ遅いんだよっ」
俺の言葉に、詩織さんは声を張り上げた。
叱咤というよりも、悲鳴に似た声だった。
詩織さんは自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。
「……こないだ発作を起こしてからね、怖くて怖くて仕方がないの。収まったと思っていた嵐が、どんどんどん激しくなっている気がする」
「嵐?」
「不安、恐れ、悲しみ。そういう気持ちが一緒くたになってね、嵐みたいに襲い掛かるの」
俺は詩織さんが引っ越してきた夜のことを思い出した。
寝言で何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、涙を流していた詩織さん。
あの時、詩織さんの胸中にも吹き荒れていたのだろうか。
不安や恐れや悲しみ。
そういうものが一緒くたになった、“ネガティブの嵐”が。
「きっとこれから先、私はハルくんにいろんな迷惑をかける。だから、そうなる前に出て行かないと……」
詩織さんはひどく優しい口調で言った。
どうやらこれは俺を気遣っての発言らしい。
そもそも俺と詩織さんが同棲している、いまの状況のほうがおかしいのだ。
行本さんと一緒に暮らすほうが詩織さんのサポートもしやすい。
正論である。
だから納得しないといけない。
そのはずなのに。
「なんでですか?」
「えっ?」
「なんで俺の迷惑を、詩織さんが勝手に決めるんですか?」
詩織さんが虚をつかれたように目を見開いた。
俺も自分の発言に驚く。
しかし一度口から出た言葉は取り消せないし、取り消したくもなかった。
そうか。
これが、俺の本音なのか。
「俺は今まで一度たりとも、詩織さんとの生活を迷惑だなんて思ったことないです。ずーっとそう言っているはずです」
「でも、それは……」
「詩織さんは俺のことが迷惑なんですか?」
「そんなわけないっ!」
さっきよりも強い調子で詩織さんは反論した。
その反論が、とても嬉しかった。
「迷惑なんて、そんなこと思ってない。とても感謝してる。だから……」
「だったら、出て行く必要ないじゃないですか」
俺は言った。
「ずーっとこの家に、気が済むまでいればいいじゃないですか。姉も、うちの親も、俺も、迷惑なんて思いませんよ。勝手に俺たちの気持ちを、出て行く理由に使わないでくださいよっ!」
詩織さんは黙って、俺の言葉を聞いていた。
いつもの笑顔は浮かべていない。
ただ、戸惑った表情をしていた。
どんなリアクションを取ればいいのか。
どんな顔を取り繕えばいいのか。
迷っているように見える。
笑顔の“仮面”がはがれる。
“仮面”がはがれた詩織さんの顔は、まるで迷子の子供みたいに見えた。
「なるほどねぇ」
それまで黙っていた行本さんが口を開いた。
なんだか楽しんでいる顔で、詩織さんと俺を見つめている。
「オッケ。うん。だいたいわかったよ」
そう言って、行本さんは立ち上がる。
「万智さん? もう行くんですか?」
「うん。今日のところはこれでいいかなって。確認したいことは確認できたし」
とりあえずさ、と行本さんは続けた。
「ちゃんと自分の気持ち、伝えてあげなよぉ。こんだけまっすぐ、ぶつかってきてくれてるんだから」
「万智さん……」
「じゃあ、また連絡する」
行本さんはそのまま玄関へと向かう。
俺と詩織さんは行本さんに付き添った。
靴をはきながら、俺のほうを向き直った。
「じつはですね。ずっと心配だったんです。本当にシオンをここに置いていいのか、わたしも判断がつきかねてたので」
「……ですよね。当然だと思います」
「だからこそ、来てよかったです。わたしも腹を括れます」
行本さんは顔を引き締める。
そのまま俺に向かって頭を下げる。
「弊社所属の霧山シオンをよろしくお願いいたします」
「えっ、ちょっと、行本さん」
大人に頭を下げられるなんて、初めての経験なのでどうしていいかわからない。
そのまま行本さんは家を出て行った。
行本さんが俺のなにを見極め、なにを確信したのか。
俺には全然わからないけど、「腹を括れる」という言葉が妙に印象に残った。
単に信頼してる、と言われるよりも嬉しかったし、同時に責任の重さも感じる。
「行っちゃいましたね」
「……ホント、何しに来たんだか」
俺と詩織さんのあいだで気まずい沈黙が流れる。
先ほどの言い合いの空気を引きずってしまっていた。
……というかさっきの俺、だいぶ暴言めいたことを言ってなかったか?
もしもここに姉がいたら、殴り飛ばされてかもしれない。
「すいません。さっき勢い余って、変なことを言って――」
「ハルくん、お願いがあるの」
詩織さんが俺をまっすぐ見つめてる。
真剣な面持ちだった。
なんだろう。俺は緊張しながら、詩織さんの言葉の続きを待った。
あのね、と詩織さんは言った。
「アサちゃんの……私が使ってる部屋に来てもらってもいい?」
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