第21話 姉の親友は、怯えている。

 詩織さんの発作は5分ほど続いた。


 何度か救急車を呼ぼうとしたが、そのたびに詩織さんには首を振って止められた。

 仕方なく、詩織さんをベンチに座らせて、背中をさすり続ける。


 このあいだ、詩織さんにどんな言葉をかけ、どんなアクションを取ったのかはよく覚えていない。突然の出来事に俺も気が動転してしまっていたのだ。


「あの、お姉さん、どうしたんですか?」


 小学生の姉妹が真っ青な顔で近づく。

 きっと心配になったのだろう。俺が何と答えていいかわからずにいると、「ごめんね」とか細い声が聞こえた。


 詩織さんの声だ。


「ビックリさせちゃったね。お姉さん、もう大丈夫だから。心配してくれてありがとね」


 血の気が引いた顔になりながら、詩織さんはどうにか笑顔を取り繕う。

 その言葉を聞き、姉妹は幾分安心した顔になって、公園を後にした。


「平気ですか? このまま病院に行きますか?」

「病院はいいよ。どうせ検査したって、なんの異常も出ないに決まってる」


 どこか投げやりな、棘のある口調だった。

 俺はひとまず自販機でペットボトルの水を買い、詩織さんに渡す。


「ひとまず水を飲んでください。少しは落ち着くと思うので」

「……うん。ありがと」


 詩織さんはペットボトルを受け取り、ごくごくと喉を鳴らしながら、水を流し込んでいく。うつろな眼差しのまま、力なく微笑んだ。


「そろそろ戻ろうか。ハルくんも汗引いて、身体が冷えちゃってるよね」

「俺は別になんともないですけど……。詩織さん、歩けます?」

「うん。もう1人で歩けるから」


 詩織さんはそのまま何事もなかったかのように、公園を後にする。俺も詩織さんのあとに続き、徒歩で家に帰りついた。


◇◆◇


 帰宅直後、詩織さんはシャワーを浴びると食事もとらず、部屋に引っ込んでしまった。


「今日は疲れたから、もう休むね」


 それだけ言い残し、扉を閉ざした詩織さん。

 俺もシャワーを浴びたあと、適当にトーストをかじりながら、どうすればいいかを考える。


 しかし結局、いい考えがまとまらず、相談することにした。

 詩織さんの親友――うちの姉に。


 LINEで通話をかけると、1コールもしないうちに「……あい」と寝ぼけた声で、姉が出てくる。

 

 通話に出るの早っ。

 そして声が超ガラガラ。


「おはよう、姉さん。相談したいことがあるんだけど……、いま大丈夫?」

「相談ん……? いいよ……。なに……?」


 メチャクチャ声が弱々しい。

 二日酔いだろうか。不安になりながら、俺は本題を切り出した。


「詩織さんのことなんだけど」

「…………ちょっと待って。かけ直す」


 いきなり切られた。仕方ないのでかけ直しを待つ。

 10分後、姉から通話が来た。


「詩織にLINE送ったけど、既読がつかない。なんかあった?」


 姉の声がしゃっきりしている。

 この10分でなにがあったんだ、と思ったが、おそらく答えてはくれないだろう。

 今朝の出来事を、簡潔に姉に伝える。


「そうか。わかった」


 姉の態度は淡々としていた。

 特に動転するでもなく、定期的な事務報告を受けたかのような反応である。


「病院には連れてかなくて大丈夫? 詩織さんは意味がない、って言ってたけど」

「詩織が行きたがってないなら、いまは無理に連れてかなくていい。家で休ませたほうがいいな。心配しなくても、あいつは死ぬことはねぇよ」

「死ぬようなことはないって……」

「あいつの発作は初めてじゃない。これまでも何度も起きてた。外へ出てランニングできたっていうなら、むしろ回復したほうだろ。あたしが会ったときは外に出ることもできてなかったからな」


 だからむやみに心配する必要はない、と姉は言いたいらしい。


 実際、そうなのだろう。


 詩織さんが起こした発作は身体上の疾患から来ているのではない。

 すべて詩織さんの心に由来する問題なのだ。


 死ぬほど苦しい症状が現れたとして、それで死ぬことはまずない。

 詩織さんもそれはわかっているのだろう。


 わかっているのだとしても。


「……俺はどうすればよかった? 詩織さんが苦しんでいるのに、なにもできなかった。そばでオロオロしていることしかできなかった」

「詩織の発作はお前のせいじゃない。それはあいつもわかってる」

「だとしても、見ていることしかできなかったのに、変りないだろっ」


 自分でも意外なほど大きな声が出た。

 声を出して初めて、今朝の詩織さんの姿にショックを受けていたことに気づかされる。

 

 俺は詩織さんの苦しみをわかってあげられない。

 詩織さんがなにに苦しんでいるのか、なにもわからない。


 そのことがもどかしいし、心苦しい。

 辛いのだ。


「あいつが発作を起こしたとき、1人じゃなかった。そばにお前がいた。それだけで十分上出来だったと、あたしは思う」


 姉の言葉はひどく優しかった。

 こんなに優しい姉の言葉を聞いたのはいつ以来だろう。


 ありがたいとは思わない。むしろ苛立ちがこみあげる。


 この人は俺になにを期待してるんだ。

 詩織さんにとっての俺は“親友の弟”でしかないのに。

 詩織さんの心に最も近くにいるのは、“親友”である姉のはずなのに。

 

 本当に詩織さんが必要としているのは俺ではなく、姉のほうじゃないのか?


 こみあげた想いをぶちまけたい衝動に駆られたが、すんでのところで踏みとどまった。


 これがただの八つ当たりなのはわかっている。

 そんな八つ当たりをしても、なんの意味もない。

 だっていま詩織さんのそばにいるのは姉ではなく、俺なのだから。

 ならば、俺にできることをやるしかない。


「また、これからも発作は起きると思う?」

「発作は、詩織の意思と関係なく起きてる。トリガーを引いちまったら、これからも起きるだろうな」

「トリガー?」

「発作はあいつの中にある悪い記憶と結びついてる可能性が高い。その記憶を連想させるモノに接すると、発作のトリガーが引かれる。いまの詩織の脳にはそういう回路ができちまってるんだ」


 つまり詩織さんはいつ発動するかもわからない爆弾を抱えながら、日々を過ごしているようなものだ。

 そしてこの爆弾はどんなに医学が発達しても解除することはできない。

 詩織さんの心に埋め込まれてしまっているからだ。


「じゃあ、記憶を連想せるモノを避けて過ごしかない、ってこと?」

「そういう生き方を詩織が選ぶなら、そうなるな」

「すべては詩織さん次第……」

「そうなるな」

「俺ができることは、なにもない?」

「……前も言っただろ。毎日規則正しく起きて、飯食って、寝て、詩織と話をする。特別なことをする必要はない」


 つまり余計なことをするな、と姉は言いたいらしい。

 それは姉の優しさなのかもしれないが、最後通牒のようにも聴こえてしまう。

 俺にできることなど、なにもない。


 本当に?

 本当になにもないのか?


 発作を起こすトリガー。それはいったいなんなのか。

 詩織さんはトリガーの正体に気づいているのだろうか。


 俺は発作を起こした状況を思い出す。走っているときはなにも問題なかった。

 周囲の視線にさらされても、特に変わった様子はなかったと思う。


 おかしくなったのは公園に着いてから。

 いや、違う。

 

 小学生の姉妹を見かけてからだ。


「あのさ、詩織さんって妹とかいるの?」

「妹? いや、聞いたことねーな。一人っ子のはずだぞ、あいつ」


 さすがに姉が詩織さんの家族関係を把握していないとは思えない。

 だとしたら、姉妹の件は無関係なのだろうか。


「……なんかあったのか?」

「わからない。そんな気がしたけど、気のせいかも」

「ふーん?」


 姉もなにか思うところはあるようだが、それ以上追及はしなかった。


「とにかく、今朝の件は詩織のマネージャーさんにも伝えておくから。お前が1人で抱え込む必要はない」

「マネージャー?」

「声優事務所の人だよ。信頼できる人だから、力になってくれると思う」


 いつのまに、そんな人と交流を持っていたのか。

 毎度のことながら、姉の行動力にはいつも舌を巻かされる。


「なんかあったら、また連絡くれ。頼んだぞ」

「あっ、姉さん」

「ん? ほかになにかあるのか?」

「いや……」


 呼び止めたものの、言うべき言葉が見つからない。

 明確な理由はない。

 ただの不安から来た呼び止めだと、あとから気づく。


「姉さんも体に気をつけて。大学、忙しいんだから」

「はっ? なんだそれ」

「ガラガラ声。どうせ昨日も飲みすぎたんだろ?」

「……うるせぇーな」

 

 弱みを突かれた姉は「そっちも風邪ひくなよ」とだけ言い残し、通話を切った。


 俺はソファに座り込み、天井を仰ぐ。


 結局、解決策は見つからなかった。


 毎日規則正しく起きて、飯食って、寝て、詩織さんと話をする。


 本当にそれだけで詩織さんが苦しみから解放される日は来るのだろうか。


 声優・霧山シオンに戻れる日は、来るのだろうか。


◇◆◇


 夕飯は冷蔵庫の残り物でチャーハンを作ることにした。

調理動画を参考に、“究極のチャーハン”なるメニューに挑戦していると、階段を降りる足音が聞こえた。


「いい匂い。チャーハンを作ってるの?」


 詩織さんだ。

 今朝の弱った姿がウソのようにケロッとした顔をしている。


「詩織さん、もう平気なんですか?」

「うん。ちょっと寝たら、よくなったよぉ。心配かけてごめんね」


 詩織さんはいつものように朗らかに笑いかける。

 声の調子も、いつもとなにも変わらない。

 

 そんな詩織さんの笑顔を見て、俺は気づいてしまった。


 詩織さんの笑顔は“仮面”なのだ。

 自分の心の内側をさらけださないための“仮面”。


 今朝の出来事を、この人はなかったことにするつもりなのだ。


「今日は料理サボっちゃったから、明日はまた私がやっておくね」

「……ランニングはどうします?」

「うーん、そっちはいいかな。また迷惑かけたくないし」


 詩織さんは軽い口調で言った。

 こちらに気を遣っているようにも、踏み込ませないよう突き放しているようにも聴こえる。


 無理にでも踏み込むべきなのか。

 それとも見なかったふりをするべきなのか。

 俺はいったい、どうすればいいのだろう。


 フライパンの上で油の爆ぜる音がする。


「ハルくん、フライパン! チャーハン、焦げちゃうよ」

「あっ、やば……」


 俺はフライを手にしながら、フライパンの上のチャーハンを混ぜっ返す。

 

 そうだ。

 別に最初から、悩む必要なんてないじゃないか。

 

 俺はこれまで分相応をモットーに生きてきた。

 

 姉のようにがむしゃらな生き方など、俺にはできない。

 そんな人間が詩織さんの苦しみに手を差し伸べるなんて、もとよりできるはずがないのだ。

 

 こちらに踏み込むな、と詩織さんは暗に伝えているのなら。

 俺はその意思をくみ取るべきだろう。


「……それじゃあ、明日からまたお願いしますね。詩織さんの料理、好きなんで」

「うん! 任せて!」


 詩織さんは能天気な調子で返事をした。

 それが演技で作った声なのか、本心からの声なのか、俺には区別がつかない。

 

 どっちであろうとも関係ない。

 詩織さんの望みに寄り添うことしか、いまの俺にはできないのだから。

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