第13話 姉の親友は、耳かき上手。

 詩織さんの耳かきは静かに始まった。


 カサカサ、カサカサ、カサカサ。


 強くこするのではない。

 優しく労わるようなタッチで、綿棒の先が耳の表面をなぞっているようだ。


 よかった。普通の耳かきだ。


 考えてみれば、こんなのはどうってことない行為なのだ。


 俺だって幼い頃、母に耳かきをしてもらった。

 母がしてくれた耳かきよりも、詩織さんのほうが優しく丁寧に作業してくれているように思われるが、しかし耳かきであることに相違はない。


 だからもう、あとはこのまま詩織さんのテクに身を任せていれば――


「緊張してる?」


 思わず息を呑んだ。

 ぎゅっと自分の全身が強張るのがわかる。

 ふふっ、と詩織さんが笑った。


「怖がらないでいいよ。痛いことはしないから」

「別に、緊張してるわけじゃ……」

「そう?」


 詩織さんは慈しむように俺の頭を撫で始めた。


「りらぁっくす、りらぁっくす。まず息を吸ってみようか。ほら、吸って」

「えっ? えっ? えっ?」

「ほら、早く」


 頭上で、詩織さんがすーっと息を吸う音が聞こえた。

 俺も詩織さんに倣って、息を吸う。

 すると今度は詩織さんが息をゆっくりと吐いた。


 後に続いて、俺も息を吐く。


 吸う、吐く。

 吸う、吐く。

 吸う、吐く。


 詩織さんのリズムに合わせるように、呼吸を整えていくうちに、だんだん穏やかな気持ちに包まれていく。


 頭の奥がぽーっとしてくる。


 けだるげな気分に支配されていると、「もう大丈夫そうだね」と詩織さんが告げた。


「じゃあ、耳の奥もお掃除しちゃおっか」


 耳の穴の入り口を拭いていた綿棒が今度は耳の奥へと入る。


 マッチ棒にも似た綿棒の丸い先端が耳の中で回転する。

 そのたびに耳道の表面がこすれ、よじれ、耳のよごれがまきとられていくのがわかる。


 耳をほじるガサガサという音がジャブのように鼓膜に響いた。


 響くたびに小さく声が洩れる。

 このまま蕩けてしまいそうだ。


「ンフッ」


 どこからか、笑いとも息遣いともつかない音が聞こえた。


 誰の声なのか一瞬わからなかった。

 ねぇ、と詩織さんが声をかける。


「ハルくんはさ、アニメだとどういう女の子が好き?」

「……いきなりなんです?」

「いいから教えて。なにかあるでしょ? 最近見たアニメやゲームで、よかったキャラ」

「まぁ、あげるとすれば『逆ブレ』のニーア……」

「できたら、私の担当キャラ以外でお願いね」

「縛りますね!」


 そもそも、これはどういう意図の質問なんだろ?


 困惑しながらも、俺は乏しいアニメ鑑賞歴から必死に気になっていたキャラがいなかった。


「……最近だと『キル・ルリ』のルリは好きでしたね」

「わかるー! ルリちゃん、いいよねぇ~。『キル・ルリ』も面白かったしなー」


『キル・ルリ』とはクールな女子高生ルリを主役にした本格eスポーツアニメである。FPSのプロゲーマーチームにスカウトされたルリは才能を発揮しながら、メンバーと切磋琢磨し、成長する。


 実在の超人気FPSゲーム、『B-X』も全面協力しており、ゲームとのコラボなども行われ、話題になっていた。


「了解、了解。ルナちゃんみたいなクーデレなギャルだね。任せて」

「任せて? なにがです?」


 と、俺が質問したときだ。

 プルルと唇を震わせる特徴的な音が頭上から響いた。


 リップロール。

 以前、詩織さんが『逆ブレ』のニーアの声を出すとき、やっていた仕草だ。


 後で調べたところ、声を出す人間はリップロールを行って、自分の息や喉の調子を整えていうらしい。

 いうなれば、声のストレッチである。


 リップロールを終えた詩織さんは声を発した。


「悠生。じっとして。こいつ、すぐ片づける」


 俺は目を見開いた。

 耳に響く声が、さきまでの詩織さんの声と全然違っていたから。

 

 感情を伺わせないフラットな声音。


 短いセンテンスで区切り、必要最低限のことしか伝えない語り口。

 すべてを包み込むような詩織さんの地声とは全然違うし、こないだ聴いたニーアの声でもない。


 近いのは『キル・ギャル』のクールなFPSプレイヤー。

 ルナのトーンだ。


「……ン。取れない。手ごわっ。角度、変えちゃお」


 状況だけを伝える淡々とした声なのに、それが妙に気持ちを落ち着かせる。


 ふと市原の顔を思い浮かべた。


 考えてみたら、生徒会長の業務に邁進する市原と、チームの勝利を冷静に貪欲に追い求めるルナのキャラは、案外似ているのではないだろうか。


 そう考えた途端、詩織さんが演じてるこの声がだんだん市原の声に聴こえてきた。


「どう? いい感じ? すぐ終わるから」


 この言い回し、謝り方。

 市原だったら、確かに言いそうだと思ってしまう。

 

 もちろんそんなのは気のせいだ。

 詩織さんは市原を知らないんだから。

 俺が勝手に詩織さんの演技に、市原を投影しているだけだ。


 っていうか、なんだこの状況。

 俺はいま誰に耳かきをされてるんだ?


 詩織さん? ルナ? それとも市原?


「ん、取れた」


 フラットなトーンに、わずかに喜びの感情が滲んだ声。

 声が聞こえたのとおなじタイミングで、ごりっとよごれが取れた感触を覚える。

 

 目標達成の喜びが伝わってきて、俺も不思議と心が浄化される感覚を抱いた。

 まさにカタルシスである。


 と、解放感に浸ったのもつかのま、いきなり耳元で小さな息遣いが聴こえた。

 耳にかすかな息吹がかかるなか、そっと声が告げられる。


「いっぱいキレイになった。よかったね」


 吐息交じりの殺し文句。

 もう我慢の限界だった。


「詩織さん!」


 たまらず俺は詩織さんのほうを振り返る。

 

 が、最初に視界に入ったモノを見て、思わずのけぞった。


 たわわに盛り上がった大きな胸が視界の半分を占領していからだ。

 俺は少しずつ頭の位置をずらし、詩織さんと目を合わせる。


「……なにしてくれてんですか」

「あれ? クーデレギャルの想定でやってみたんだけど、違った?」

「違うとか違わないとかの話じゃないです。なんのプレイですか、いったい!」

「うーん。ハルくんの耳かきをしてたら、ちょっとスイッチが入っちゃって」

「スイッチ?」

「耳かきはASMR業界だと定番シチュなんだよ。私も仕事で何度か声撮りやらせてもらったことがあってね。せっかくだから、キャラを作り込もうかと」


 言われてみると、耳かきをしながら話しかけるASMR動画をネットでも見かけたことがある。


 ああいうのも声優が声を吹き込んでるんだな。当たり前と言えば、当たり前の話なんだが。


「っていうか、わざわざクール女子なんて演じなくても、詩織さんの持ちキャラで演じればいいんじゃないですか?」

「ダメだよ、そんなの」

 

 詩織さんはきっぱりと言う。


「ホンや絵がないのに、私が勝手に演じるなんてできない。そんなのキャラに失礼だよ」

「でも演じてるのは詩織さんですよね?」

「私はあくまでキャラの“声”を担当しているだけ。キャラの振る舞いを勝手に決めていい権利なんて私にはないよ」


 どうやら詩織さんの中ではハッキリと線引きがあるらしい。

 でも、たしかに『逆ブレ』のニーアが俺に耳かきするなんてあり得ないしな。


 しかし詩織さん、ほんっとにいい顔してるなぁ……。


 まるでデトックスで心の濁りが輩出されたように肌がツヤツヤしてる。

 

 思うところはあれど、詩織さんが元気になってくれたら、それでいいか。


「じゃあ、ハルくん。このまま反対の耳もやっちゃおうか」

「反対の耳?」

「だって、まだ左耳しかやってないでしょ?」


 ……そういえば!


「はーい、ハルくーん。ゴローンってしようねぇ」


 詩織さんは俺の肩を掴み、そのまま膝の上で俺の身体を一回転させた。

 右耳に柔らかいふくらみが当たる。


 完全に自分の視界が詩織さんのおっぱいの方角に向けられた。

 

 これはマズイ。

 マズイですよ!


「次はどんな子を演じてみようかな~~」


 俺の頭上では、耳かきをもった詩織さんが早速次の演技プランを練り始めている。


 もうどうすることもできない俺は、そのまま硬直したハムスターのように固まっているほかなかった。

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