第17話


五歳になるまで、アルノー・ド・モリニエールに愛するものはなかった。モリニエール城の奥深く、王の愛妾の腹から生まれ、父母も乳母も侍女も侍従も嫌い抜いていた。彼にはすべての大人が欲深な虫のように見えていたのである。


見栄っ張りで享楽的な父、脳味噌がからっぽの母、二人に阿る使用人たち。それがアルノーの世界の全部で、それがたまらなく嫌だった。彼は愛想よく人の話に聞き入る無口な子供になった。


大人は汚らしくいやらしく軽蔑すべき存在だったが、父がたまに連れてくる少年の姿をした魔導士とやらは恐ろしかった。目が、人間のそれではない。膿み爛れ疲れ切った、人でないものが人のいるところまで堕ちてきてしまったとわかる目だった。


彼は父の命令通りにさまざまな音や光を出し、母はキーッと首を振って喜んだが、アルノーはおざなりに拍手をするだけに留めていた。


「いずれあれもお前に相続させてやるからな、可愛いアルノーや」


「きゃあん、陛下ァ、ありがとぉ。ほらほらアルノーちゃんもお礼言って」


などという下らない父母のやり取りにも、笑って礼を言わねばならない。第二王子という立場は監獄のようだった。


その夜、母はウキウキと寝間着姿で踊り、


「やっぱりうちの子の方が王様にふさわしいんだわぁ!」


と言って王が待つ寝室に消えた。アルノーは絶望した。


――王位を狙ったことなど一度もなかったし、異母兄とその母に敵意を抱いたこともなかった。だが人は、アルノーもまた自然に王位への野心を抱いているとみなす。


このまま大きくなったら自然と異母兄と殺し合い、王になる羽目になるのではないか。悲しみと寂しさにしんとみぞおちが痛んだ。望んでもいない人生を生きるのは苦痛だった。


母がああだからか。だからアルノーもまた、そう見られてしまうのか。絶望は次の絶望を運んでくる。


アルノーに剣術の教師がつけられたのは、その翌月のことだった。子供ながらにうじうじして、扱いにくかったからだろう。


「ぜんぜん喋らないから心配だわ。剣でも振り回して、明るい男の子になってほしいの」


と、相変わらず母はきゃらきゃらと能天気に笑う。この人は永遠に娘気分のまま、変わらないのだろう。


剣の教師はかつて将軍位についていたという老人で、年のせいか滑舌が悪く指示が聞き取りづらかった。アルノーにも父にも母にも従順で、だが決して卑屈ではなかったからアルノーははじめて大人のことを好きになった。


彼に教わる男の子たちは十人ばかり。いずれも高位貴族の子弟で、アルノーは彼らと可もなく不可もなく、当たり障りのない付き合いをした。


ちょうどそのころに引き合わされた婚約者だという侯爵令嬢とも、同じような人付き合いをした。オルタンシアという名の少女は無口で常に微笑をたたえ、アルノーに一歩引いて付き従った。この人となら互いに礼儀正しく夫婦としてやっていけるだろう、とアルノーは安心し、それ以上のことは思わなかった。


――第一王子エドゥアールは、そのときはまだ立太子されていなかった。わずかに八歳。黒い髪に緑の目、父によく似た面差しの少年だった。


エドゥアールの母親は隣国の王女だったが、不貞を疑われ王宮から追放され、遠いところに幽閉されている。当時のアルノーが知っていたのはそこまでだった。


本来ならばアルノーとエドゥアールは会うはずはなかった。二人の教師は同じ老人だったが、異母兄弟たちが顔を合わせなくてすむように、大人たちはスケジュールを調整したはずだ。どこでなんの手違いがあったのか、アルノーは演練場の建物の影から異母兄の顔を見た。


彼は教師に打ち込みの稽古をつけてもらっているところだった。木剣を手に、自分の何倍も大きい大人に向かい合っている。エドゥアールが撃ち込むのを教師がいなす。彼は衝撃で転ぶ。それでも立ち上がる。何度も何度も、ひたむきに一途に……。


エドゥアールの姿がアルノーの心を打ちぬいた。彼の繰り出す幼いヘタクソな一撃、一撃が、泣き声のように思えたのだった。エドゥアールにはアルノーと同じ寂しさがあった。


小さな第二王子は駆け出した。それまでそんなことをした覚えはなかった。彼はいつだって品行方正な男の子だった。背後で侍従が叫んだ。


転がったエドゥアールがそれでも立ち上がろうとする。もう膝はぼろぼろで、衣服もあちこち破れている。擦り傷まみれで、土埃まみれで、それでも緑の目だけはまっすぐに教師を見つめている。そんな異母兄の姿が、あまりにも美しく、誇らしく見えたのだった。


アルノーは演練場に散らばる騎士たちの一人から木剣を拝借した。文字通り奪い取ったのだった。


「あっ、王子……」


と言うのなんか聞こえていない。アルノーは木剣を振り上げ、横合いから教師に殴りかかった。後ろでお付きの侍女が金切り声を上げる。


「うおっ」


と教師は驚いた者の、さすがに冷静に切り返した。エドゥアールが目を見開くのを、アルノーは横目に見た。教師の方も王子たちに怪我をさせないよう、力加減はしていた。それでも全力で打ちかかってくる子供の勢いを完全にいなすのは難しい。アルノーはむやみやたらに教師を攻撃した。エドゥアールはしばしの逡巡の末、アルノーに加勢した。


結論から言えば、その日の一件は子供たちのちょっとした暴走と言うことで片付けられた。教師にも誰にも表立ったお咎めはなかったが、アルノーのお付きの使用人の顔ぶれは変わった。


アルノーはそれからエドゥアールを慕うようになった。はじめは異母弟から懐かれることに戸惑っていたエドゥアールも、そのうち相手をしてくれるようになった。異母兄はよく、図書館棟にいた。図書を収めるためだけの棟だ。だからアルノーも本を読むようになった。異母兄に質問をして、知識が増え、議論を交わすことができるようになるまで時間はかからなかった。


母はアルノーの行動を反抗とみなして禁止したが、父が止めたので事なきを得た。彼は正妻を憎み、エドゥアールを自分の子ではないと疑っていたが、それでも二人に仲良くしてもらいたがっていたのだった。親心……と言っていいのか、権力を持った男の心というものは、移ろいやすく複雑である。


「どうしてお前は俺なんかに興味を持つ? うまくいけばこのままお前が王になるのだろうに」


とエドゥアールは言う。手にしているのはフランロナ王国がまだ王国の形を取る前、部族時代の神への祈りをまとめた詩集だった。アルノーにはまだ読めない古代文字を、異母兄はすらすらと読む。アルノーは恥ずかしくなって初級文法の本のタイトルを手のひらで隠した。


「私は王になんかなりたくありません。兄上、と呼んでもいいですか?」


「ああ」


「兄上、好きです」


五歳の子供はとろけるような目をして異母兄に愛を乞うた。


「なんでか自分でもわからないけれど、好きです、兄上。兄上が王になるなら、俺はその補佐をする宰相になります」


「……そうか」


子供らしくない笑みでエドゥアールは窓の外を見た。雨上がりの春の日差しに、木々の枝に残ったしずくが光って綺麗だった。


「お前がそう言ってくれて、嬉しいよ」


と異母兄は笑う。彼らはそれから十年に渡る年月を、同じ部屋で似たような書物を読んで暮らした。ひと月のうち、会わない日があるときはなかった。


父は異母兄に年に二回会えばいい方で、アルノーは婚約者オルタンシアに半年に一度会えばいい方だった。彼らはとてもよく似た親子だった。自分の興味のある人間以外に、愛情があるふりをすることができないのである。


そう考えれば、オルタンシアはアルノーと結婚しなくて本当によかったと言えるだろう。彼女には耐えきれなかっただろうから。アルノーはオルタンシアが妃教育を理由に王宮に入り、王に部屋を賜ったことさえしばらく気づけなかった。母に部屋に呼ばれて行ったらオルタンシアがいて、そこではじめて事実を認識したのだった。


あるときのお茶会と称した婚約者との面会で、なんの拍子にかエドゥアールの話になった。


「それにしても兄上はあれほど父上に似ているのに、どうして出生を疑われているのだろう?」


と、アルノーはついつい口を滑らせてしまった。婚約者が噂を触れ回る女の子ではないと知っていたから、まるで犬に愚痴をこぼすようにそうしてしまったのだった。


「エドゥアール殿下ですか?」


お茶のカップをソーサーに置いて、オルタンシアは考え込む顔をする。


「それほどに陛下に似ていらっしゃるのですか」


「うん。そっくりだ。本を読むとき目をすがめる顔から欠伸をする仕草、脚を組み替えるタイミングまでそのものだ。なのになぜ血統を疑われる? 許せんことだ。王族への不敬だ」


「原作の強制力かしら?」


「何だって?」


「いいえ……」


オルタンシアはほのかな笑みを唇の端に浮かべた。この娘はいつもそうだった。不気味に大人ぶった、底知れない笑みと言動をするときがある。アルノーはそれが忌々しく思えるときもあったし、同時に惹かれる部分でもあった。


「エドゥアール殿下が陛下に似ていらっしゃるとは存じ上げませんでした。私の知る限り、そんなことを言う人はおりませんでしたもの」


「王宮では誰も兄上のことを口に出さないのだ。災いの種のように思われている。まるで一丸となって兄上をいじめているようだ」


「手柄をお立てになれば状況も変わりましょう」


分かり切ったことを再確認するのだ、と言わんばかりの口調だった。


「たとえば学園在学中のごくごく若い時分に、大人が無視できないほどのお手柄を立てれば、人の見る目も変わります」


「……どんな手柄だというのだ、あの父王陛下が生半可なことで兄上への評価を覆すとは思えん」


「差し出口をいたしました。どうぞお許しくださいませ。小娘のたわごとでございます」


「うむ……」


そんな不完全燃焼な話をした、翌週のことだった、オルタンシア嬢が行方不明となったのは。


図書館棟の西の棟の窓辺、アルノーとエドゥアールが長い時間を過ごした閲覧室から見える古びた窓辺から、魔導士とともに姿を消したのだという。悪の魔導士が王に対する反逆を企て、令嬢はそれに利用されたのだとも、令嬢の方が魔導士を誘惑したのだともささやかれた。さすがにそれには腹が立って、


「第二王子の妃になれた娘が、何故よりによって陛下を弑そうとする? 時間がたてば王族の一員になれたのだぞ」


と言いまわった甲斐があったのか、アルノーの前でオルタンシアの話をする者はいなくなった。彼はまだ若すぎた。大人たちの陰謀にも、共謀にも、決して入れてもらえなかったし察することもできなかった。


学園に入学する準備で瞬く間に日々は忙しくなり、侯爵令嬢のことは誰もが忘れたようだった。アルノーには新しい婚約者が準備されるらしい。


彼女のことを心から心配する者は誰もいなかった。父親のノアイユ侯爵でさえ。


アルノーの中にも、オルタンシアへの真剣な愛情などどこを探してもありはしない。そのことを初めて申し訳なく思った。己が人を愛せぬ身であることは自覚していた。エドゥアールのことを尊敬していたが、それは愛ではなく執着だった。己以上に完璧な異母兄が、アルノーのやりたいこともやりたくないことも代わりにやってくれる。


アルノーが主人公にされなくてすむのは、エドゥアールの傍にいるときだけだった。


王宮を去るとき、アルノーは図書館棟を振り返って別れを惜しんだ。閲覧室も大量の書架も読書机も椅子も絨毯も窓も、アルノーのことを引き留めなかった。魔導士の奮戦によって破壊されたあとを修繕もされていない西の棟のあの窓辺に、ぼろきれのようになったカーテンが寂しく揺れていた。


それから何年か、エドゥアールは生徒会長になり、アルノーは下級生としてその補佐についた。生徒会の仕事は楽しかった。


「兄上が王となったらこんな日々が続くんでしょうね」


と半分冗談交じりに言うと、異母兄はぴたりと足を止め、


「もう大人の仲間入りも近いのだから、決してそんなことを口にするな」


と真剣な口調で言い含めた。それが嬉しかった。オルタンシアには誰もいなかったがアルノーには異母兄がいた。彼が勝手に慕い、勝手に付き従って、愛すると決めた半分だけ血の繋がった兄。彼がいてくれるので、その傍でならアルノーは息ができる。


ジャンヌ・ピコリが完璧だった二人の間に入り込んだのは、十七歳になる前か後、そのあたりの春だった。はじめは、騒がしい令嬢もいるものだと思った。おべっか使いの生徒から妾腹だと知らされて、ああそれでと納得したのを覚えている。


まさか異母兄があんな礼儀も立ち居振る舞いもなっていない小娘に心惹かれ、まるで人間のように笑うようになるとは。


(兄上は……あんな顔なさる方ではなかったのに)


と思ったのを皮切りに、感情は急速に膨らんだ。嫉妬と軽蔑をないまぜにして羨望で固めたような、やっかみと恨みつらみの間のような。


学園に在学中、とくに十七歳から十九歳の間に起こった出来事は、まるで神話の英雄譚を出来の悪い紙芝居に落とし込んだような悪夢だった。


ジャンヌとエドゥアールはともに学園に潜む先々代の王の負の遺産を破壊し、校長に化けていた悪魔の陰謀を退け、大人顔負けの成績で魔法試験をパスした。


そして王はエドゥアールが優秀な息子であると認めざるを得なくなった。王宮を追放されたといえど王妃の影響力はいまだ大きく、その故国からの干渉もあって、ついにエドゥアールは王太子に立太子されたのだった。かつてのエドゥアールなら緑の目を伏せて、


「そうか」


とか、


「ああ……」


と嘆息するにとどめたに違いない。あるいはこっそりと監獄の母親を訪ね、これからのことに策略を巡らせたか。そんな冷たくまっすぐに悪辣な兄の生き様をアルノーは愛していた。憧憬していたのだ。


だが異母兄はそうしなかった。彼は与えられた王太子の証、金の指輪をくるくると指で回し、こう呟いたのだった。


「この立場があれば、ジャンヌを連れて生きていける」


と。


ジャンヌなどという下賤な小娘にアルノーの神様はヒトの地位まで引きずり降ろされたのだと、どうやら認めなくてはならないらしかった。許せなかった。今までなんのために生きてきたのかとさえ思った。


一方のジャンヌが何か思うところがあるのかと言えば、あっちの男こっちの男と飛び回って尻尾を振っているのだから始末に負えない。その上、エドゥアールがそんな小娘の姿に目を細めて受け入れているのだ。アルノーの心情はもはや夫が売春婦に入れあげた妻の切歯扼腕、そのものだった。


時々、ジャンヌは不可思議な発言をした。


「フェンリルがいない!? ウソッ、先にホワイトちゃんゲットしようと思ってたのに! なんでいないのぉ!? 場所も時間もあってるのに!」


「キリアンは!? なんでキリアンがもう捕まってるのよ――あ、まさかあの女……ッ」


「ああーっ、なんでこんなに変わってるの? おかしい、おかしいよ! オルタンシアもおかしかったし、キリアンもおかしいし、王様もなんかヘンッ。ぜんぜんストーリー通りに進まないじゃない、全部狂ってんじゃん!」


しかもそれらをエドゥアールもアルノーも見ている前でする。彼らのことを人間として見ていないのかもしれないと、思うときさえある。まさか。王族を?


生徒会には伯爵子息や公爵令嬢もいた。エドゥアールの将来の側近、婚約者が決まっていないことから、彼らがその候補と見做されたときもあったが現在は保留されている。ジャンヌが彼らを攻撃するからである。いったい何が気に入らないのやら、


「あたしアンタのこと知らないんだけどッ? なんで原作にいないのが生徒会にいるのよー! アンタがいたせいで水の精霊のイベントが起きなかったんじゃないの!? ドラマCDネタだけど、ぜったい今起きなきゃおかしいんだよ!」


などと意味の分からない理屈で文字通り掴みかかるのである。とくに高位貴族の家の女生徒に対する偏見がひどく、呆れ果てた公爵令嬢がさっさと退学し、遠方の国へ嫁に行ったほどだった。


「兄上、あれを放っておくのですか。いったいジャンヌ嬢のどこがそれほどいいのです? あれは周りに不和しかもたらさないではありませんか」


ジャンヌをたしなめた中級貴族の子弟が揃いも揃っておかしいほどの不運に見舞われ、一部が学園を追われた騒動のあとで、アルノーはそう言ってエドゥアールに詰め寄った。返ってきた答えは、


「……だが彼女は俺に必要だ。必要なんだよ。何故なのか? 理由は俺自身にもわからないのだ。ただ彼女に傍にいてほしいのだ」


という、巷で流行っている恋愛小説もかくやというあやふやなもの。アルノーは目の前が白くなり、続いて暗くなり、同輩の子爵令息に脇を支えてもらわねばならなかった。


生徒会室を出て、日当たりのいい回廊のベンチでアルノーは思いにふける。彼の審美眼が間違っていたのだろうか? 異母兄をこの上もなく尊い人だと思った幼い日の直感が何もかも間違いの始まりで、もともとエドゥアールはあのような人だったのか? あんな、あんな女に入れ込むような。


「信じたくはない……」


もしそうだとしたら、これまでのアルノーの人生そのものが間違っていたことになる。……父が、母の判断が正しかったことになる。それだけはいやだ! あってはならない。


彼は唐突にオルタンシアのことを思い出した。言われてみれば、オルタンシアとジャンヌは異母姉妹だ。彼女たちの遠くを見る目、時折不思議なことを言うところ、知らない単語を吐くところは、そういえば似ているのではないか?


アルノーは考え、考え、そして動くことにした。主と定めた兄を助けるために。

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