第16話 閑話休題

寒々しい冬の朝、森の中の小さな小屋の中もまた冷え切っていた。オルタンシアは自室で目を覚ました。窓から差し込む光すら白く眩しく見える。外は一面の雪景色だった。冷たい風に小屋が揺れた。


壁にかかる貴婦人とユニコーンのタペストリーが、冷気に小さく揺れている。キリアンがくれたオルタンシアの小さな部屋だ。


暖炉には消えない火が燃え盛っている。よく見れば薪の中に赤い魔石があるのが見え、もっとよく見ればそれが暖炉の基礎の煉瓦に嵌め込まれているのが見える。


彼女はしばらく窓の外を眺めていた。こんな冬の日はなにもする気が起きない。今はまだ快晴だったが、じき再び雪が降るだろう。


しっかりとした厚手の服に着替えた。色は目が覚めるような黄色で、冬の寒さに打ち勝つよう。小さな丸い一本脚のテーブルについて、パンにジャムを付けたのを紅茶と一緒に食べて朝食にした。人形の手入れは昨日すべて終えてしまった。店の掃除も終わったところ。すべきことがない日というのは心に穴が開くようだ。


だがオルタンシアは今日一日を無駄に過ごすつもりではなかった。ちょうど、ジャムの瓶が空になった。


店に出て、念のためランプをつけて回った。これでよし。万一誰か来たら灯りが教えてくれる。思いついたことを全部やってしまおうと思う。くるりと振り返り、誰かにぶつかりそうになった。なんの気配もしなかったのに。


「わっ。だあれ?」


「はじめまして。マリアです」


メイド服姿の背の高い金髪の女性。かすかにミルクの香りがするような、母性的な顔立ちしていた。きっちり編み込んだ髪型に、オルタンシアはほとんど覚えていない母のことを思い出した。


マリアは毅然とした態度で片手を差し出す。


「え、ええ」


オルタンシアも応えて握手する。するとマリアは柔和な表情をますます緩めて、


「どうして私だけヒトの姿になったかまるでわからないんですが、まあこういうものだと受け入れるしかないでしょう」


などと言う。オルタンシアは呆れたものの、それは思わず笑い出したくなるからりとした呆れだった。呆気にとられた、といった方がいいのかもしれない。


「面白い人形ね。ええ――受け入れましょう。私はここの店主ですもの。あなたたちのすることなら、なんでも許してあげますとも」


「ぜひそれでお願いしますわ。それで……」


マリアは胸を張った。


「それで、何をするおつもりです? 私、手伝いますよ。メイドですから!」


「何ができるの?」


と意地悪な気持ちで聞くと、


「なんでも! やったことはありませんが、できるはずです。私はずっとメイドになりたかったんです。戦争に行くんじゃなく!」


元気いっぱいな答えであった。オルタンシアはけらけら笑いながら、マリアと一緒に店の奥へ進んだ。


九番目の部屋、石窯のある台所兼食糧庫だ。棚にはずらりと瓶詰めや缶詰めが並び、石窯は常に温かく保たれ、煙突が詰まったことは一度もない。派手な装飾がない代わりにタイルの壁と木の床は常に清潔で、オルタンシアはここが小屋の中で一番落ち着く部屋だと思っていた。


「何をするんですか?」


「保存食づくりよ」


「でも、あなたは貴族でしょう、オルタンシア。やり方がわかるの?」


マリアは眼を瞬く。人に名前を、何のてらいもなく呼ばれたのは何年ぶりのことだろう。オルタンシアはこぼれる笑みを抑えようともせずマリアを振り返る。


「私だって泣いて暮らしてたわけではないもの。色々、学んだのよ。本があったわ。いっぱいね!」


オルタンシアはじゃん、と小さな籠を取り出した。つやつや輝く新鮮なブラックベリーが籠いっぱいに収められている。寒風が九番目の部屋の窓枠をがたがた揺らす。


マリアはおおーっと声を上げぱちぱちと拍手をした。


「どこでこんなものを?」


「前に人形を売ったイタチの夫婦がね、嵐で灌木が倒れたと知らせてくれたのよ。ネズミたちに見つかる前に行って摘んできたの。大変だったんだから」


窓の外は冬である。はたしてオルタンシアが喜び勇んでブラックベリーを摘みに行ったあの草原はどこだったのだろう? 草原に至る道をいくら森の中に探しても、一切見つからないのだった。


まあそれはそれ。オルタンシアはすでに森と小屋と魔法の不思議に慣れきっている。自分がその一部だという自覚もある。怖いことは何もなかった。


オルタンシアは棚の下の段から大きな鍋を手に取った。古びていたが汚れも凹みもない鋳物鍋だ。ここに来て以来ずっとこれで料理していたから、彼女にとっては宝物のような存在だった。


石の枠組みの中で炎が燃え盛り、下の薪置き場にはほどよく乾燥した薪がたっぷり保管されている。オルタンシアは炭と灰をよけて場所を作ると、五徳を置いて鍋をのせた。横から覗き込むマリアがふんふんと頷く。


「なるほど、ジャムですね。あなたの食べ物はあなたが作るんですか。平民のように?」


「ええ、そのように」


マリアは興味深く唇に手を当てる。メイド服のフリルがふわふわと細い白い顔を彩って、火にあたった彼女はより人形らしい。オルタンシアは鍋の中にブラックベリーと同量の砂糖入れた。


「私のあるじは平民でしたが、誰よりも勇敢な戦士でした。私は彼のメイドになりたかった。なれませんでしたけど」


「そうなの。匙を取ってくれる?」


「どうぞ。――私は死にましたがあるじは生きました。彼の子孫がフランロナにいます」


どこか吹っ切れたような声音だった。


「今ごろはこうして、ジャムを煮ている子だっていることでしょう。私が知らない彼の話を語り継いでいる子だっていることでしょう。素晴らしいことです。人間は。人間の営みは素晴らしいです」


「たとえ外れてしまってもあなたは人間だったし、今は人形だとしてもそれは変わらないわ」


オルタンシアは柄の長い木匙で丁寧に鍋の中身をかき混ぜる。ブラックベリーに砂糖が絡み、熱を帯び、こっくりとした紫色の液体が滲み出る。ふわんと香るねっとりと甘い匂いが喉の奥に居残って、唾液が出てくる。


「いい匂い。ああ、思い出しますわ……私も昔はこうして母と台所に立ちました」


「ついでにりんごも煮ちゃいましょう。まな板と包丁を出してきて」


「はあい」


それでそういうことになった。


小屋は明るい冬の日差しに満ちている。ちらちら降り始めた粉雪が視界を掠める。オルタンシアはつま先でリズムを取った。小さく口ずさむのは故郷の歌だが、日本の記憶と混ざり合って奇妙に調子っぱずれだった。


寒い窓際に木箱がひとつ。その中いっぱいに小さなりんごが保管されていた。森で取れる、女の手のひらに満たないくらいのすっぱい野生種のりんごだった。木のテーブルに布を広げ、二人してその上で次々りんごの皮を剥き、ほどよい大きさに刻んだ。一口大より少し大きいくらい。


「ふあ、虫食い。種と芯の方が食べるところより大きいですよ、これ」


「砂糖と煮なけりゃ食べられたものじゃないのよねえ。でも、これがこの森の味だから」


「じゃあ食べなきゃですねえ」


「そうなのよねえ」


喋りながらだと作業も早く済む。山ほどあったかに見えたりんごだったが、剝き終えてみると可食部はブラックベリーより少ないくらいだった。


九番目の部屋は果物の香りと砂糖が混じった香りで満たされ、石窯からは光と熱が立ちのぼる。体温を持たない人形たちも、きっと目を細めて蒸気を浴びている。


「シナモンがあるといいんだけれどね」


「シナモン? なんです、それ?」


「遠い南の国でとれる香辛料で、りんごと相性がいいの。ジャムに入れると香りがよくなるのよ」


「へええ、面白いものがこの世にはあるんですねえ」


マリアがブラックベリーが煮上がったのを鋳物鍋ごとどかして、机に移動させた。彼女はそのままりんごの皮と芯の片づけに入った。


なるほど、とオルタンシアは納得する。マリアの調理する姿はぎこちなく、どちらかというと不慣れな方で手馴れてはいなかった。けれどてきぱきとすべきことを見つけてやっつけるやり方は効率的で、戦場を生き残り人形となっただけのことはある。


(メイドになりたかった……普通の生活に憧れていた子。叶わないまま死んでしまった子)


ありきたりに不幸な子供時代を過ごしたオルタンシアが平気でいられたのは、前世の記憶があったからだ。この世界の行く先を知っていたからだ。父親がああでも、前世の日本人の両親の記憶があったから何も思わなかった。


(この子にそんな拠り所はあったのかしら)


手にした小鍋に切ったりんご全部と砂糖を入れる。茶色の砂糖のかたまりは溶けるのに時間がかかるが、その分味に深みが出る。


熱せられた鍋から、りんごの芳香が爆発した。砂糖の甘さがブラックベリーとは違った粘度で喉と鼻の奥を通っては出、また入ってくる……。


「いい匂いですねえ」


感極まった声でマリアは言う。


「机、片付きました」


「ありがとう。ちょっと――はい」


「え?」


オルタンシアは小皿にりんごのかけらを盛って差し出した。マリアはきょとんとしたあと、気恥ずかし気に笑ってそれを受け取る。


「おいしいです」


「よかったわ。すっぱさは消えてる?」


「はい、たぶん大丈夫……ええ。消えてます」


頬を染めて笑うマリアの向こう、窓の外に吹雪が到来する。小さな小屋はぐらぐら揺れるが、魔法の防壁がある限り壊れることはない。


「ねえマリア、お前いつまでもここにいていいのだからね」


「……はい」


「ふさわしい主がやってきて、そのときが来るまで。何年でもいていいのよ。お前は今のところこの店の持ち物で、キリアン様に所属する人形なのだもの」


マリアは何も言わなかった。時計の針のチクタク進む音が鍋の音に混じって聞こえた。


ブラックベリーとりんごの香り。甘い空気の味。オルタンシアは目を閉じる。


「私はここにいられて幸福だわ。お前がそう思えるようになるまで、いていいの」


人形がいて、店がありオルタンシアがいる。逆ではない。マリアが望むならオルタンシアは店主の座を譲ってやったっていい。


「……はい。感謝いたします」


オルタンシアは頷いた。マリアの方を見ないようにして。震えるマリアの声と肩にも、何も気づかないふりをした。


マリアは前世のオルタンシアが読むことができなかった原作の外伝のひとつの主人公だが、そんなことはこの世界の誰も知らない。


この世界にマリアの存在を打ち立てたのは、だからオルタンシアだと言っていい。その役割を果たしたことで、再びストーリーは変化する。流転に次ぐ流転によって、もし世界を俯瞰できたとしたらオルタンシアは呆れ果てたことだろう。こんなのは彼女の愛した『光の少女と黒の王』ではないから。


もう一人、そう思って狂おしく悔しがる人がいる。オルタンシアが見抜いた通り、ジャンヌは彼女と同じく転生者である。


マリアが人の形を得、そしてこの店を離れたことからオルタンシアの運命は再び動き出す。けれどそのときはまだ遠く、魔女と人形は小さな小屋の中で寄り添って、ただここにいられることの幸福を噛み締め合う。




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