第15話 悪役令嬢の手下

小屋の前に開けた少しばかりの空間が、オルタンシアはそれを庭と呼んでいたのだが、このところ下草に蹂躙されぎみで、仕方なく鎌を持ち出して草刈りをしていた。


「わたくしこんなことしたくないわ!――と言って逃げ出しそう、原作のオルタンシアならね」


と一人、ふふふと笑いながら作業する。前世では田舎育ちだったので、電動ではない鎌の扱い方も慣れたもの。オルタンシアはもくもくと鎌を振るい、育ちすぎた雑草を刈り、小石を拾って湖と小屋の間に転がした。いずれ塚を築くだろう。


そこに走り込んできた人がいた。ずたぼろの少年だった。両手を前に突き出して森の中を走ってきた。目が二倍にも膨れ上がって、彼の目が見えていないのは明白だった。


「あッ」


とオルタンシアと少年は同時に叫び、彼は木の根にけつまづいて倒れた。砂埃が舞った。痛そうな転び方だった。


オルタンシアは鎌を放り出して彼に駆け寄った。森はざわめき、ひそひそと姿を持たないものたちが様子見に来た。――なるほど、彼はあちら側に近しい人間なのだ。


「もし、もし。意識はある?」


「う……」


少年はオルタンシアを見上げた。そのままがくんと首が落ちて気絶した。転んだ衝撃よりも、それほど長い時間走り続けたのだろうと思われた。オルタンシアは彼の身体を引きずって小屋に戻った。ベッドに寝かせてやりたいが、小屋の奥まで彼が入り込めるのかどうかわからない。守りの魔法はオルタンシアにも理解しきれないところがある。彼女は店の玄関口のところの棚を押しやってスペースを作り、奥から毛布をとってきて、少年を寝かせた。


お湯を沸かし、ガーゼに浸して青く薄い唇を湿らせる。彼は呻いた。首筋に、うろこがあった。神話の生き物、あるいはトカゲや蛇に似たうろこだった。


濃い茶色の髪と汚れた肌もぬぐってやり、傷口を見つければ薬と包帯を。甲斐甲斐しく世話をしながらもオルタンシアは、彼にまとわりつく魔法の気配を感じていた……敵意と悪意に満ちた、呪いの臭いがする。


やがて少年が目覚めると、オルタンシアは床に座ったまま彼に囁いた。


「まだ起きちゃいけないわ、ミゲル・エル」


「どうして、俺の名前……あ、うぅ」


「走り回って疲れたことでしょう。安心して。もうジャンヌの追っ手は来ないから」


身を起こしたミゲルの背中にクッションを宛がうと、彼は素直にもたれかかった。オルタンシアは木の椀を取ってきた。クラッカーを牛乳で柔らかくして、半固形のチーズと一緒に彼に食べさせた。少年はそれはよく食べた。もう何日も食べていないくらいに。


ミゲル・エルは原作においてジャンヌをいじめるオルタンシアに加担した敵役の一人である。モブキャラだが、ジャンヌの筆箱を壊したりハンカチを破いたり、王太子エドゥアールにジャンヌの悪口をを吹き込んだりと割と活躍していたし、悪役オルタンシアとのテンポのいい掛け合いが面白かった。やったことはみみっちいが、前世のオルタンシアは彼のことが好きだった。


「なんで俺の名前を知ってるんだ?」


出されたものを全部食べ終え、やっと人心地ついたエル家の三男坊はオルタンシアを見据えた。正確には、オルタンシアがいるだろうところを。視界がひどくぼやけているのだろう。


オルタンシアは彼の頬に手を添える。そこは熱を持っていて、じくじくと膿みかけた瞼の傷が痛々しい。


「説明より先に手当てをしましょう。身体の傷は包帯を当てたけれど、こっちはまだ手付かずだから……」


「そん、……そうだな。頼むよ、見知らぬ人」


「オルタンシアよ」


彼女は小さく短く言った。


「オルタンシア・フォール・ノアイユ」


「行方不明の、第二王子の婚約者か! 魔導士に攫われたという……」


「まあ、そんな話になっているの?」


食べるものと一緒に魔石と魔法陣の描かれた紙の入った救急箱を持ってきていた。オルタンシアはガラスでできたその箱を開け、手際よく治療の準備をする。森で行き倒れた動物などを拾うことが稀にあって、やり方はわかっていた。だが人間相手ははじめてだ。果たしてうまくいくだろうか。


「……失礼した、ご令嬢。助けてもらったというのに無礼を言った」


「信じてくれるの?」


オルタンシアがいたずらっぽく笑うと、ミゲルはぴくんと手を震わせ、やがて苦く笑った。


「そうだな。確かに貴族であれば信じすぎるのはよくない。だが俺は一途に信じることでしか己の価値を表せない。何も持ってないから」


オルタンシアは何も言わず、軟膏を彼の瞼に塗り、包帯を頭の後ろまで回してきつく巻き付けた。額に魔法陣の紙を押し付けて、少量の魔力を流し込む。なんの変哲もない魔力が魔法陣に変換され、治癒の術式が彼の身体に染み入った。


「これでしばらく置いておけば治るはずよ。魔法陣が拒絶されなかったのだもの、あなたの身体にはまだ治る意志があるのだわ」


「そうか」


ミゲルは医者から重大な告知を受けた患者のように頷いた。


「それは何よりだ」


彼は見えない両手にじっと視線を注ぐ。青ざめた唇にはいくらか色が戻っていたが、それでも白く、身体全体が小さく見えた。


「では話をはじめに戻そう、ご令嬢。俺の名前を何故知っていた? いくら同じ貴族といえど、顔を、こんな腫れあがった顔を見ただけで俺だとわかるほど、あなたと親交はなかったはずだ。エル家とノアイユ家もさほど仲がいいわけではないのに」


「その傷」


オルタンシアは眉を曇らせ、声を低めた。


「ジャンヌの仕業でしょう、その呪い。わかるのよ。私とあの子は血が半分繋がっているから」


ミゲルは見えない目を手のひらで覆う。


「綺麗な娘だと、思っていたんだ。学園内は彼女の噂で持ち切りだった。俺も、声を掛けられて嬉しかった。だがあれは――毒の花だ」


「聞かせてちょうだい。何があったのか」


すうと大きく息を吸い込み、ミゲルは語り始めた。オルタンシアは固唾を飲んでその話を聞く。


学園に入学したジャンヌは行方不明の姉の話を聞きたいという名目で、まず第二王子アルノーに近づいた。そこから、異母兄であるエドゥアールと親交を持つのに時間はかからなかった。何しろジャンヌは絶世の美少女であり、おどおどした純粋無垢な清純さは男なら放っておけない清らかさを放っていたから。


女生徒を名指ししてはいじめられたと声高に被害者ぶり、男の力を使って対象を追い落とす。退学に追い込まれた少女は数知れず、悪評を立てられ社交界に出られなくなった少女もまた多かったという。


「狂っていた。みんな。彼女はまるで学園の女王だったよ」


「教師たちは何をしていたの」


「何も。ただ見ていた。俺たちを。ジャンヌが手を回したのか、そういう役割だからなのか……」


「ジャンヌは……全部をわかっている子なの。これから先、何が起こるかも、どう動けば目当ての人間の歓心を買えるかも」


「わかる。まさにそうとしか言えないほど本能が鋭い娘だった」


そうではない。ジャンヌはおそらくオルタンシアと同じ、『光の少女と黒の王』の知識のある人間だ。どんな理由か知れないが、ジャンヌが持ちえた知識を全力で活用すると決めたことは確かだった。オルタンシアは唇を噛み、呻き声を上げた。


「ジャンヌは誰にも止められないわ。彼女は目的を果たすでしょう。……だから、私は逃げたの。あのままでは破滅するとわかっていたから」


「あなたが魔法に関係していることは、王宮では公然の秘密だったと聞く。魔導士とひそかに密約を結び、己に従わせていたと。その力で異母妹を殺そうとしていたところ、王に計略を暴かれ逃げたのだという話を聞きました」


「そんな話に? あの人にはむしろ私の方が臣従していたというのに」


「天使の末裔が、たかが魔導士に? なぜそんな血筋への侮辱を!」


オルタンシアは立ち上がった。この店に居着いて魔力が土地に馴染んで以降、ささやかな魔法が使えるようになっていた。店の中には小さな竈があって、お湯を沸かすくらいのことならできる。彼女はそこでお茶を淹れた。


「なぜ答えない? オルタンシア嬢、あなたはノアイユ侯爵家を裏切り、フランロナ王国が魔女に蹂躙されつつあるのを見捨てたというのですか? 由緒ある侯爵家の娘御が、なぜそんなことができたのです……」


他に燃え移らないよう何重にもかけた防護の魔法を手で撫でて、オルタンシアはミゲルに背を向けたまま声を張り上げる。


「私の尊厳を守るためよ。もし私が先頭立ってジャンヌと戦っていたら、あなたも含め人々は私の方をこそ魔女と謗ったことでしょう。王族を味方につけた令嬢なのだもの」


そうした貴族のパワーゲームには覚えがあったのだろう、ミゲルはうっと言葉に詰まった。


「確かに私の恵まれた育ちはノアイユ侯爵家あってこそのもの。この世に生み出された命の恩義は父にも感じていました。でもそれは、人生全部をなげうってまで返さねばならない恩だったかしら?――私にはそうは思えなかった。だから逃げたの。謗りは受け取りましょう。でも侮辱は許さない」


「それは……失礼した」


オルタンシアは湯気の立つカップをミゲルに手渡した。


「どうしてこんな森の中へ?」


「ジャンヌ嬢はエドゥアール殿下とアルノー殿下に二股をかけている、いや、かけようとしていた。あなたには腹立たしい話かもしれないが」


「いいえ、続けて。私とアルノー殿下は礼儀正しい仲でした。それ以上ではなかったわ」


「……人倫に悖る行為だ。許されざることだ。そうだろう? よりにもよって王族二人をだぞ! その上あの娘には他の高位貴族との噂もあった。高位貴族だぞ。国を守る盾となり、剣となるべき子弟たちだ。学園は小さな社交界だ。そこであれほど好き勝手をして、大人になったら忘れられるとでも思っていたのだろうか? そんなはずはないのに」


ジャンヌならやるだろうと想像できて、オルタンシアは胃が冷たくなる。そして父はそれすら許すだろう。ジャンヌとその母は彼の命より大切な存在だから。


「俺は、俺たちはジャンヌ嬢を牽制しようとした。誓って傷つけようとしたわけじゃない、騎士たる者そんなことはしない。少しばかり注意を与えて、反省を促そうとしただけだ。数人で、昼日中に中庭にジャンヌ嬢を呼び出した。彼女側についてくれるよう女生徒も呼んだ。そして……そして、」


「逆襲されたのね」


ミゲルは頷く。肩は薄っぺらくまだ発達途上だった。ほっそりした顎といい骨が目立つ指といい、どうしてジャンヌが彼の視力を奪うほど激昂できたのかわからない。オルタンシアの予想通りなら、ジャンヌにだって地球で生きた何十年かの記憶があるはずだ。彼などほんの子供、精神年齢でいえば自分の子供より年若いほどだろうに。


「光が、あまりに強い光が生まれた。俺は目が見えなくなって、他の奴らがどうなったかもわからない」


「ジャンヌの持つ光の魔法は人の精神に作用するの。洗脳魔法を解除することも、悪人を改心させることもできるし、スパイを自白させることもできる」


――慈悲なく排除されたオルタンシアとは違い、ジャンヌがキャラクターたちを闇から救い上げるシーンはたくさんあった。心の闇が晴れたキャラクターはジャンヌに忠誠を誓うか、愛するようになるのが常だった。原作を読んだときは素直に、それほどジャンヌの光は強く人を救う力があるのだと思った。けれど。


「使い方次第では光の魔法はある種の魅了になるの。ジャンヌ本人が意識して力を使っているのなら、少なくとも彼女の役に立つ家の子女であれば殺されず配下にされたことでしょう」


眷属にされた魔物たちのように。


ミゲルはか細い息を吐き、自嘲の笑い声を発する。空になったお茶のカップを膝に置いて、そのふちを撫でた。


「なら、あいつらは安全か! あの中で一番権力が回ってこなさそうだったのは俺だからな。エル家の厄介者」


ミゲルは兄弟の中でもっとも出来が悪く、正妻の子なのに領地の割譲は絶望的だと言われていた。こうして話してみるとごく常識的な、少しばかり正義を代表するところが難点なだけの普通の若者に見える。だが成績も悪く、これから学年が上がるにつれ素行も悪くなる……そのように設定されているから。そう原作で描かれていたから。そう、なる運命を設定されているから。


オルタンシアは彼のつむじを見つめた。彼がジャンヌに苦しめられたこと以前に、悪役にされているからそうなったのだとしか思えない彼の境遇に同情していた。


「私は父親に嫌われていたわ」


オルタンシアはタペストリーを眺める。真っ赤な戦争の絵である。


「よし。――うん。ねえ、遠くに逃げる気概はある?」


「え?」


「人形を連れて、人形に導かれて、逃げる覚悟はある?」


彼は戸惑った。目が見えていないので、当然店の中のことも見えなかったし、ここが店であるということも知らなかったに違いない。


「俺は勉強もできないし、剣の腕も中の下だ。魔法も使えない。学園に入れたのはエル侯爵家の子供だからで、」


「あなた自身は、どう? そこから逃げ出したい? それとも戻るの、学園へ?」


――ジャンヌのための楽園へ?


オルタンシアには世界の意図はわからないし、ジャンヌの思惑も彼女を取り巻く環境がどうなっているかも知らない。それでもミゲルが学園に戻ったら、きっと幸せになれないだろうことはわかる。


「あなたは魔法に導かれてここに来たわ。この店の人形はふさわしい主を自分で選ぶの。あなたが森を抜けてこの小屋にたどり着けたのが、あなたが呼ばれた証拠」


ミゲルは呆けた顔でオルタンシアを、彼女の肩越しに人形たちを見つめた。台の上で人形たちはひそひそと囁き合い、宝石の瞳はきらきら煌めき、やがてテディベアの一群の中から、ひょろりと細長い木彫りの人形が進み出た。


オルタンシアは立ち上がって彼を迎えに行った。綺麗な人形だった。真っ白なしみのない木製で、関節はねじ式だ。子供用のおもちゃじみた顔だった。楕円形の部品に接着剤で円錐型の鼻がくっつけられ、焼き印で目と口が描かれている。頭にのっけられた造花の王冠。つま先のとんがった靴。半袖半ズボンの道化師じみた格好。


だが彼こそが魔導王とともに戦ったもっとも苛烈な将軍の一人であり、天使の軍勢を率いる六枚羽根の大天使の末裔であることをオルタンシアは知っている。いつかの夢で、教えてもらったのだ。


手渡された素朴な人形を、ミゲルはそうっと撫でまわした。まるきり子供用の人形なのに、まるで壊れやすい宝石を触るような手つきだった。やはり彼は――根は優しい少年なのだとオルタンシアは思う。原作の設定、ジャンヌが彼をどう扱ったかなんてどうでもいい。オルタンシアは自分の目で見たものを信じたい。


「俺がこれを選ばなかったら、また学園に戻ることになるのか?」


「私には干渉できない部分だわ。ただ、あなたがこの森から一人で出るのか、人形とともに出るのかがカギとなることだけは確かだわ」


「――わかった。あなたを信じることにする」


ミゲルの笑顔は悲しかった。諦めることに慣れた子供の顔だった。オルタンシアはかつての自分をその包帯の巻かれた目に見る気がする。


「この人形のことも、ここのことも。信頼しきれない。だが学園に戻っても俺の居場所はないし、家には元からない。ノアイユ侯爵家の名と、第二王子の婚約者に抜擢されたほどのあなたの理性を信じよう。オルタンシア嬢」


「ありがとう。光栄です」


それでそういうことになった。ミゲルはぎこちなく、赤ん坊を抱えるように人形を肩にもたれさせて店を出た。


「何も見えないけれど、あの森は怖くないのです。来た時と同じように道を進めると思う」


と笑う彼に合わせて人形もカタカタ揺れる。オルタンシアは深く淑女の礼をして彼らを見送った。


ミゲルの遺していった対価は家族への未練だった。店の壁掛け時計がそれを吸収して、くるんと丸まった黒真珠色のかたまりが針の中心に消えた。


エル侯爵家はミゲルを見捨てる。十中八九、そうなる。原作でもそうだったのだ……ミゲルはオルタンシアの手下だった。ミゲルの人生にオルタンシアが責任を感じる必要はない。けれど、あの人形が彼を選んでくれてよかったと思う。六枚羽根の天使の末裔ならば、ミゲルを正しく導いてくれるだろうから。


「そろそろ……かしら」


と呟いた。時間がたつにつれ、空は暗くなっていた。雨がきそうだ。森の上にいつまでもわだかまる分厚い雷雲が連れてくる嵐。


オルタンシアはぱたりと扉を閉め切り、厳重に戸締りした。悪いもの、悪意をもつものが決して入り込めないようしっかりと。予想通りその日からずっと森は雨と風に閉ざされ、訪問者もなかった。


何かが起こる悪い予感が、した。この上もなく不気味な感覚だった。



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