第6話 とある男と少女人形



ヨルム・ドミティウスは騎士として育てられた。小さな島はそれ自体がひとつの王国であり、大陸との貿易を牛耳るドミティウス一族は長者にして島の守り手だった。しかし彼は故郷を追い出された。愛してはならない女を愛し、父である領主の怒りを買ったのだった。


大陸は言葉も違う。苦労に苦労を重ね、商人の隊商の護衛として身を立てた。誇りある彼には屈辱に感じられることもあった。だがすぐに矜持は折れ、生活に追われるうち忘れてしまった。己の力だけで生きることは大変で、そして楽しいことだった。


ある夜彼は酔っ払い、フラフラと街を歩いた。酒場でも街角でも人々は口々に王宮で起こったらしい変事の噂話をしていた。


――呪われた魔法使いが王様に襲い掛かった、令嬢を道連れに死んだ、いいや違うね。そのご令嬢とやらが魔女だったのさ。証拠はあるのか? いいや、ないけれど。その貴族のお嬢さんの親は、娘が行方不明だってのに何も言わないし怒りもしないそうじゃないか。お貴族様が、自分の娘に、そんなことあるか?


確かにそうだ、とヨルムはふらつきながら思った。うちの父だって娘はそれなりに大事にしていたというのに。


彼は花屋の角を曲がった。借りている半地下の小さな部屋に帰り、朝ってからの遠征に備えて明日は一日中、泥のように眠るつもりだった。だがふと顔を上げると、そこは森の中だった。頬を撫でるそよ風に酔いが吹っ飛んだ。


腰に手をやったがそこに剣はない。そうだった、酒場に行くだけだから置いていたのだった。己をぶん殴りたい気持ちでヨルムは身構えたが、恐れていた魔法の攻撃や島に残した怨恨を晴らすため襲ってくる暗殺者などはいない。


と、ぱっと闇の中に灯りが灯った。木々の枝が重く雪崩れ込む小道の向こうに、チカチカと輝いている。


「……くそっ」


彼はそちらに向かって歩き出した。どんな神か悪魔か魔導士の計略か知らないが、暗い森に戻るには無防備すぎた。


現れたのは白木の小さな小屋だった。こぢんまりとしているが汚くはなさそうだ。ごく普通の農家に見えたが、森の中にあるというだけで不気味だった。


彼はドアを開き、中を見た。黒い台と白い壁。赤っぽいランプの光があちこちに溢れ、暖かさを感じると錯覚する。展示台の上は色彩に溢れていた。色とりどりの服を着た人形が、行儀よく座ったのや立ったのまでさまざまにくつろいでいる。人形は老若男女の姿をしたものから動物まで実に多彩だった。


「――いらっしゃいませ」


と声をかけられ、彼はびくりとそちらを見る。脚に力が籠った。


まだあどけなさを残した小さな少女だった。丸い額とまろい頬、小さな鼻。目は少し垂れ気味で大きく、口はきゅっと結ばれている。くるくるとうねった黒髪が膝まで伸びて、紫色の目はランプの灯りに揺れた。


「あ、ああ……」


戦って負けない相手だとわかりヨルムは警戒を解いた。


「お前は魔法使いか? 魔導士か?」


「魔法を使えるか、ということならそれらしいものが使えます。あなたに敵対するか、と聞いているなら違うと申し上げましょう」


少女はにこりと笑う。どことなく大人の女の媚態じみたものを連想させる笑みだった。


「この店に来ることができるのは、ここの商品を必要とする人だけなのです。いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。どうぞごゆっくり、心ゆくまでごらんください」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は、」


と彼は言いかけたが、ふいに視界の端にいないはずの人が掠め、思わず半歩、中に踏み入ってしまった。


「シュルルカ……そんな、なんで。お前なのか?」


バタンと後ろで扉が閉まっても気にすることもできず、彼は足早にその台へ向かう。少女はただ微笑んでその背中を見守る。


そこにいたのは美しい女だった、いや違う。女を模した人形だった。彼が愛した女にとてもよく似ていた。


シュルルカにそっくりな人形はまっすぐな藍色の髪を戴き、瞳は金の筋が入った水晶を丸く加工してできていた。髪に縫い込まれた真珠粒と瞳が、夜空に輝く星のような輝きを放つ。


肌は乳白色で、透明感がある。削り出した大理石を魔法で固定しているのだ。ほのかに緑色の筋が入った肌は色白だったシュルルカ本人そっくりだった。


淡いピンク色の裾が花のように広がったドレス。彼女が子供のころから憧れていた……。


「シュルルカ、いや、――これは、なんだ? あんたが作ったのか?」


ヨルムは少女を振り返った。少女は首を振って否定を表し、胸に手を当てて嘘は言わないと示す。


「いいえ。この子はあなたに会うために生まれ、ここで待っていたの。あなたに会いたくてあなたを呼んだのだわ」


「呼んだ? 人形が?」


ヨルムは力なく人形を見下ろす。ほのかな微笑みが無感動に彼を見つめ返す。可憐で優雅で今にも起き上がりそうで、ヨルムとは違う次元にあるような神秘を纏う人形だ。


「人形がそんなことできるわけないだろう」


「魔法のかかったものだもの。できないことなどないわ」


「禁制品か?」


「いいえ。王様だってこれがここにあることを知らないわ」


少女の紫の目には吸い込まれそうな蠱惑的な魅力があった。ヨルムはうなじの毛が逆立つのを感じた。その感覚は魔物に対峙したときに似ていたし、間違いなく破滅させられると直感できる高級娼婦の流し目にも似ていた。


「彼女と二人きりにしてくれ」


とヨルムは頼んだ。少女は応えて店の奥に消えていった。


「シュルルカ、シュルルカ」


彼は人形の頭を撫でる。髪に口づける。手足のすんなりと伸びた美しさ、顔つきに滲む賢さ。あのときの彼女がそっくりそのまま再現されたような……。


こんなものは彼女ではない。それはヨルムもよく分かっている。彼女は今頃、あの島で誰かの妻になり子供を産んでいるだろう。彼のことなど忘れているかもしれない。そうであってほしい、と思う。


金の筋が入った青味がかった水晶が、きらきらと光った。彼は人形に、いや人形をこの世に生み出した魔法に引き寄せられるように感じた。魅了されている、とは思いたくなかったが、どうやらそう認めざるを得ないらしい。


わずかな葛藤。それから、諦めに似た納得。


「シュルルカ……また俺を選んでくれるのか?」


ヨルムが呟くと、人形の微笑みが深まって見えた。少女が言ったように、この人形は彼に会うためにここにいたのだろうか?


ヨルムは少しずつ理性を取り戻した。人形に対する期待と不安がまぜこぜになった気持ちから、少しでも自分を引き剝がそうとした。彼は再びシュルルカの顔の人形を睨みつける。


「お前は魔物だ。騙されないぞ」


水晶が悲しげに揺らいだ、気がした。


がくりとヨルムは肩を落とした。


「心は決まった?」


背中に少女の声がかけられる。


「ああ。無理だ。これはシュルルカだ。シュルルカそのものだ。俺はもう二度と彼女には会えないのだから、せめてこれだけでも身近に置きたい。そうに決まっているじゃないか。人を愛したことがある者なら皆、こうなる」


彼は少女に向き直る。


膝までの黒髪は夜そのもののようにうねり、紫の目はアメジストの輝きを放つ。少女は可憐な花のようだった。乱暴な手に地面から引きちぎられ、花瓶に生けられて枯れるのを待つばかりの繊細な野の花だ。


「いくらだ、これは?」


「金額ではないの。あなたに出せるもっとも価値のあるものを対価としていただくわ。それが彼らをこの世に縛る対価にもなるから」


ヨルムは目を閉じて考え込んだ。心の奥底を思い出が目まぐるしく駆け回った。


「……分かった。俺が出せる最も価値のあるものを対価にする。そうしたらシュルルカは俺のものだな?」


シュルルカはぴかりぴかりと水晶を光らせて喜び、ヨルムはそれを見ればわけもなく胸が苦しく、いとおしさに涙の味を喉の奥に感じる。あの島の男は一度出した言葉を決して違えない。そういうものだ。人形を女に見立てるだなんて、頭のおかしい人間のすることだ。そこもきちんとわかっていた。だが――この人形がシュルルカであることもまた、真実なのだ。


ならばヨルムは頭のおかしい男でいい。シュルルカが再び傍にいてくれるようになるなら、何もいらなかった。


「もらうのはあなたの剣の腕よ」


少女は微笑みながら手を伸ばし、ヨルムの胸を指さした。虚を突かれた。


「そんなことができるのか? お前は魔法使いなのか?」


「いいえ。強いて言えば魔法使いの弟子ね。私にはなんの力もないわ。けれどこの空間はとても強い魔導士の置き土産に満ち満ちているの。ここを維持するには大量の魔力が必要になるわ。あなたの剣の腕は尊いものよ。どんな技能であれ、血を吐いて身につけられた能力は素晴らしいの。それがあれば、この空間の防御はより硬く、強くなることでしょう」


彼にはさっぱりわからない理屈だった。だが魔法に関わるやつらときたらいつだってこういうけむに巻くような言い方をして、普通の人間にはわからないことばかり話すのだ。今更問いただしてもより謎が深まるばかりだろう。彼はがばっと両手を挙げた。


「あー、わかった。取引に乗ろう。俺の剣の腕だったな?――ああ、いいぜ。ガキの頃から苦労して身に着けたものだが、シュルルカに比べれば惜しくはない」


少女は胸に手を当てて頷いた。紫の目がふいに間近に、口づけの距離にまで迫ってきたような錯覚がした。いや、身体の中を通り抜けられたのだ。目に見えない冷たい突風がそうするように。


気づいたときには身体の感覚がどこか変わっていて、彼は自分のなくしたものを言葉にせずとも理解した。


「ああ……」


「さあシュルルカ。旦那様のところへお行きなさい」


そうして彼は愛しい女の姿かたちをした人形を手に入れる。しっかりと両腕に抱き締め、頬ずりをする。彼女の匂いがした。陶器の肌に体温がないだけ。少しばかり大きさが違うだけ。これはシュルルカだった。ヨルムにとってはそれだけで十分だった。


「どうも、ありがとう」


彼はぎこちなく頭を下げた。仕事は変えなければならないだろう。今まではなかったことだが、安くあがる護衛という利点込みで雇われていたのだ。特技がひとつなくなったことを雇い主に知られる前に逃げた方がいい。


どこかもっと田舎の国に行こう。そうだ、島国がいい。あの島のような潮風の味がする街で、シュルルカを奥深くに隠して生きるのだ。それは彼にとってこの上もなく幸福な生活に違いなかった。


「お買い上げありがとうございました。どうぞお二人、末永く一緒に……」


少女が店の扉を開け、彼はシュルルカを腕に抱いてその先へ踏み出した。もう迷いはなかった。長年の悔恨がするすると溶けて消えた。もっとずっと前に剣を捨てていれば本物のシュルルカを手に入れていたのかもしれない、という悔恨が。煮詰まった恨みが、けれど彼女の幸せのため決して島には戻るまいとした決意が、意味を失うと同時に彼の足取りは軽くなった。


同じところでずっと足踏みしていたような人生が動き始めたのをヨルムは感じ、それが誇らしく嬉しかった。


彼は道のなかばで振り返ったが、そこはもう森ではなくあの店もどこにもなかった。彼は済んでいる街の路地裏にいて、腕の中にはシュルルカがいた。水晶の目を覗き込むと彼女は確かに微笑んだ。


ヨルムは歩き出した。


彼が手に入れた人形は、死んだ兵士のひとりであの島の出身者だった。シュルルカの先祖であり、またシュルルカその人でもあった。


シュルルカはヨルムが島を追い出されてから意に染まぬ結婚をして、首を括った。彼女はまだ生まれ変わらない。その代わり、人形になった前の彼女がヨルムのもとにやってきたのだった。


人が死んだ瞬間に感じる強烈な意志というものは、簡単にはなくならない。その血筋の次の世代に、あるいはもっと先の世代に、ひねくれた形で浮かび上がる。神官たちはそれを指して魂と呼び、あまりにひどく捻じ曲がった場合を呪いと呼んだ。


神様の目の届かない森の中の人形店で彼を待ち続けた彼女は、こうしてようやくすべてを手に入れたのだった。


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