第5話



三年が経った。八歳のオルタンシアは十一歳になった。来年、十二歳になる年の四月に、学園への入学資格が手に入る。


「研究は進んだ。呪いはそのままだが、臣従の契約を誤魔化し切ることは可能になった。あと一歩だ」


とキリアンは言う。オルタンシアは――正直言って、かなり焦れている。


「もう少しなんとかなりませんの。学園に入学してしまえば私、私は」


「わかっている。強制力と言ったか。お前の知る物語からかなり道筋は外れているはずだが、それでも引き戻される力……この俺でも対抗きないとはな。まだまだ井の中の蛙か。クソッ」


キリアンは爪を噛む。密会場所は図書館棟の西の棟の窓辺に変わっていた。強い風が古びた窓をガタガタ揺らす、誰も通らない忘れられた廊下だ。


「私はジャンヌに何の感情も持っていないのに」


オルタンシアは項垂れる。スカートの裾をつま先でいじくり、ぐちぐちと唇を尖らせた。


「なのになぜか、聞かれるのですよ。お妾さんの娘さんとはさぞかし折り合いが悪かったのでしょう、と。ご同情申し上げますと」


もちろん皮肉である。言ってくるのはどこの誰ともしれない王の愛妾の友人だったり、アルノーの学友という男の子だったりする。社交界ではノアイユ侯爵家の内紛は笑いの種なのだろう。学園に入学すれば社交界に出入りする権利も同時に発生する。オルタンシアにその権利は心底、いらない。


オルタンシアはジャンヌを殺す気はない。そこまでの熱意でもって人を憎むこと自体が恐ろしい。……だが、強制力の方はオルタンシアの心など知ったことではないらしい。


いつの間にか人々に共有されてしまったオルタンシアとジャンヌの確執が、いずれ現実のように語られるようになり、そしていつか現実そのものにされるのではないか。オルタンシアが恐れるのはそれだった。


「お前に人殺しは無理だろうに。というか、人に興味を持たず人から感情を向けられることが鬱陶しくてたまらんのがお前だろうに。見ていてわからんものかねえ」


キリアンがくるくるとガラス瓶を回しながら呟く。オルタンシアはかぶりを振った。


「お父様から手紙が来たわ。ジャンヌの悪口を吹聴するのはやめろと」


我ながら諦めと自嘲の混じった笑いだった。手紙の中、父はオルタンシアを家門の恥めと罵っていた。


八歳の別れ以来、オルタンシアは父ともその愛人とも一度も会っていない。儀礼的な場で父と顔を合わせることがあっても、個人的な話はしなかった。


「そんな暇があったら勉強をするわ。そっちはいつか何かに役立つに違いないもの」


「うむ。言葉遣いはいいに越したことはないぞ」


キリアンはぱちりと指を鳴らしてガラス瓶を消した。目に見えない収納空間に入れたのだという。


オルタンシアはお義理見え見えの拍手をした。キリアンは厳めしい顔で一礼をする。彼らはくすくす笑い合った。


自分は天涯孤独に近しいのだと、オルタンシアは思っている。唯一心を開けるのはキリアンだけだ。オルタンシアから幼児の片鱗が抜け少女に変わっても、キリアンの見た目は何一つ変わらない。いつまでも丸っこくて声も高い彼を見るたび、変わらないということにオルタンシアは安堵する。彼はこれから先もずっと高慢で意地悪で小生意気な天才魔導士のままだろう。艶やかな美女と華やかな浮気を繰り広げることも、子供をいたぶって楽しむことも、終生ないに違いない。


ひゅおうと風が吹いた。窓は壊れそうな音を立てた。


「あの子はどんな具合だ?」


「アルノー様ですか? お元気でいらっしゃいますよ。従僕の男の子たちと遊ばれる方が楽しいようで、あまり私には構ってくださいませんわ」


「そうか」


キリアンは少しばかり遠い目をして窓の外を見る。晴れ渡る空、装飾つきの屋根が続く王宮の、いつもの風景を見る。


「あの年ごろではそうだろう。そういうものだ」


アルノーについてではない、彼は誰か別の人について思い出していた。オルタンシアはすっと目を逸らし、キリアンが百年前の思い出に浸れるよう努めた。


第二王子アルノーと彼女はこの三年間毎月面会したが、互いに敬称も崩さない堅苦しいものだった。王はますますアルノーの母親にのめり込み、第一王子エドゥアールではなくアルノーこそが立太子される可能性を何度も耳にした。


すべてが我が身には大きすぎる運命で、オルタンシアをたまらなくさせた。


キリアンがこちらを向いた。何かを言いかけた、その刹那、つーっとその口元から血が垂れた。


「っご、」


「キリアン様――っ」


オルタンシアは手を伸ばす。彼はがくんと膝をつきながら彼女を突き飛ばした。


「あ」


オルタンシアは倒れながら見た。


誰も来ないはずの寂しい廊下だったはずだ、そこに兵士たちが雪崩れ込んでくる。無数の蟻のように三々五々に分かれてキリアンを取り囲む彼らに守られる中央の位置に、この国の王がいた。


どうして忘れてしまったのだろう、国王の猜疑心は絶え間なく膨れ上がり続け、それがいずれ国を飲み込んでいくのだということを。ジャンヌと学園編の始まりばかり気にしすぎた。原作への強制力ばかり嘆いていた。


国王は第一王子エドゥアールとその母を憎んでいる。彼が自分の子ではないと疑い、どんどん不安と不満ばかりを溜め込むのだ。その猜疑が――キリアンに向かない保証などなかったのに!


キリアンの魔力が発動するのがオルタンシアにはわかった。臣従の契約の糸がピンと張り詰め、魔法が彼女の身体を押し出す。


「キリアンっ!」


オルタンシアは土の上に崩れ落ちた。腐葉土が柔らかく彼女の身体を受け止め、黒髪がざんばらに乱れた。


しばらく荒い息を整えようと必死になっていた。パニック状態だった。オルタンシアは自分でもよくわからないうわごとを言いながらあちこちを這い回り、ドレスの膝を汚れ放題に汚し、破いた。


ようやく意識がクリアになったときには全身が汗みずくで、筋肉がうまく動かなかった。


(つじつまが……合っていればいいということ!?)


学園編のラストでオルタンシアはいなくなり、ジャンヌは晴れてノアイユ侯爵家の一人娘となる。虐げられなくなり明るくなったジャンヌに第一王子エドゥアールが求婚して、二人は王と王妃になるのだ。


(王が、現王が死ぬのはいつだった?――学園編のラストから、戦争編のスタートまでのどこかで、ああそうだ、外伝でいつかここが明かされるって、チラシで見て、)


「なんで忘れてたのよ!? どうして忘れていられたの!?」


オルタンシアは土を殴りつけた。自分が許せなかった。だって、今もあの手帳はコルセットに挟んであるのだ。前世を思い出したときに全部書きつけた古い小さな手帳。


いつからかそれを開き、考えるということを忘れてしまっていた。まるでお守りのようにいつも手帳を持ち歩いていたくせに。


あまりにも、今が楽しかったのだ。お妃教育を受けて、王の愛妾の相手をして、ときどきアルノーと会って、そしてそれよりたくさんキリアンと会い血を捧げ――


王宮でオルタンシアを心から愛してくれる人は誰もいなかったが、代わりに傷つけようとする人もいなかった。そもそもオルタンシアを愛する人など最初からいなかった。ノアイユ侯爵家に乳母はいたが、彼女はあくまで使用人だった。我が子のように、家族より大事にオルタンシアを養育する者などいなかった。


家族のような絆がほしかったわけじゃない。ただ警戒せずに話せる相手がいてほしかったのだ。オルタンシアにとってそれはキリアンだった。


心臓に巻き付く主従の契約が、魔法の糸が、ぷちぷちと切れていく感覚がある。臣従の契約の強制力は絶大だ。だが、より強い魔法で押さえつけられた場合はその限りではない。魔法とはそういうもの、最後は魔力が強い者が勝つのだ。


オルタンシアはよろめきながら立ち上がった。深い森の中である。まだ昼の時間だったが、鬱蒼と茂った木々の枝葉のおかげで木漏れ日さえ暗かった。目の前に掲げた自分の手がぼやける、と思ったらそれは涙のせい。


そこは湖のほとりだった。振り返った泥まみれのオルタンシアが見上げる先に、その小さな小屋は楚々として佇んでいる。真白の木で作られた小屋で、藁葺き屋根と赤く塗られた扉が可愛らしかった。彼女は玄関のノブに手をかけた。抵抗なく開いた先、小さな部屋があった。


あまりにこぢんまりした空間なので、広い貴族の邸宅と王宮に慣れた彼女は一瞬戸惑った。中に入ると、キイ、と扉が背後で閉まった。


暗がりに目が慣れると、そこが店の中であることがオルタンシアにもわかった。何度か行ったことのある王都の宝石店に似ている。違うのは板張りの床であることくらいだ。白い木で造られた空間はほのかに光りを放つよう。


その上に整然と並ぶ黒い木製の台が通路を作っている。品物を並べるところらしいが、まだ何も載っていない。いくつかの台は箪笥のように引き出しを持っていて、開くと真新しい木の香りと封じ込められていた空気の匂いがした。扉もここもドアノブは金である。


階段はなく、従業員用らしい質素な扉が壁の奥にあった。オルタンシアはそこを開けた。


果てしなく廊下が続いていた。その両側に、同じデザインの扉がずらりと並んでいる。明らかな魔法の気配にぴりぴりと産毛が逆立つ。オルタンシアが進むと、パタンと開く扉と開かない扉があった。


一つ目の左の扉を覗くと、所狭しと人形が並んでいた。陶器や魔石で身体が、人毛や糸で髪の毛が作られている。目に嵌った宝石と魔石がぴかぴか色とりどりに光っていた。


オルタンシアはそうっと後ずさりして、さらに廊下の奥へ進んだ。すすり泣きのような声が漏れるのを、唇を噛み締めてこらえた。


次に開いた扉の中は寝室だった。店に続く扉から五番目の右手である。質素だが頑丈そうな寝台と、中身の詰まった布団。小さな丸い一本脚のテーブルと椅子。壁にかかるタペストリーは貴婦人とユニコーンの絵柄。そして窓があり、明るい陽射しが差し込んでいる。明らかにさっきまでいた森とは違う場所の気配がした。


オルタンシアはうーっと呻き声を発して両手で顔を覆った。彼女はいつだったかキリアンに話したことがあるのだ、ユニコーンの神話が一番好きだと。明るい窓辺が好きだと……。この小屋を、この寝室を用意してくれたのは間違いなくキリアンだ。


ひいひい言いながらオルタンシアは先へ進む。一度でも歩みを止めてしまえば座り込んでまた泣きわめいてしまうだろう。パニック起こしてキイキイ言うしか能のないお姫様なんて――そんなものになりたくなくて、オルタンシアは逃げ出すことを誓った。だから、決して足を止めてはならなかった。


入口から八番目の右手の扉。バスルームと化粧台のある部屋だった。続けざまに開いた九番目の右手には食堂があった。石窯に絶え間なく火が燃え、その上のタイル壁にフライパンや鍋が吊るされている。食料棚に野菜や卵の影が見えた。


十一番目の左の扉が開いた。そこはキリアンの部屋だった。いかにも彼が好きそうな青い絨毯に、厳めしいオーク材の引き出しのついた書棚。その横は隠し机が出てくる本棚だった。この部屋の壁と床は石づくりで、空気もひんやり冷たかった。


オルタンシアは思わず一歩、踏み出し、ぱらりと手紙が棚から落ちた。彼女は駆けよってそれを開いた。踊るように右肩上がりのキリアンの字が並んでいた。


『オルタンシアへ。


この手紙をお前が読んでいるということは俺は一緒じゃないんだな。できることなら一緒にいてやりたかったが、仕方がない。決して戻るな。王は俺を許さないし、俺の奴隷も許さないだろう。


お前が俺にくれた血がどれだけ役に立ったことか、言い表せないくらいだ。その決断に感謝する。あと、お前と数日おきに密会するのはわりと楽しかったぞ。ありがとう。


もう気づいているかもしれないが、かつて千の奴隷を持った魔導王は俺だ。


俺の本名はキリアン・マルヴァル・ド・モリニエールという。百年前に禁忌を犯し、以来死ねない身体になり、子孫に【王の塔】に監禁された。


俺は勝利のために千人以上の人間を奴の奴隷にし、戦わせた。彼らが死ぬのをわかっていた。拭えぬ罪だ。


だが生き延びた奴隷もいる。最初の部屋にいた人形がそれだ。臣従の契約の最終段階だ。奴隷となった者は魔力に絡めとられ、しまいには身体が人間じゃなくなってしまう。糸のようなものを感じただろう? あれこそがお前たちというマリオネットに通された束縛だ。


お願いがある。彼らにはまだ意思があるのだ。身体は動かなくとも、心がある。だがこのままここに置いておいては心までも死んでしまう。


この店にはしかるべき者だけが来られるよう魔法をかけておいた。その他の魔法も含め、俺が死んでも続くから安心するといい。


彼らが客の中から自分で主を選び、再び人の世に戻る手助けをしてやってほしい。どうか、頼む。


頼む、オルタンシア』


「――ひどい人」


オルタンシアは手紙を胸に押し当て目を伏せた。すとんと納得していた。


最後に落とし穴があるから、臣従の契約は主の方にまで制約を課すのだ。命の代償として奴隷を保護させる。オルタンシアはこれまでのキリアンとの日々を思う。庇護されてばかり、恩恵を受けてばかりで、まるで守られるようだった日々を。


騙されたなんてみじんも思わなかった。オルタンシアは手紙を両手に抱えたままキリアンの部屋をあとにする。人形たちの部屋へ戻り、そっと呼びかけた。


「やっと事情を知りました。あなたたちが誰なのかも。私にできることでしたらなんでもお手伝いいたします。それがキリアン様の――私たちのご主人様の望むところでもありましょうから」


ぴかぴか。きらきら。人形たちは目を輝かせる。声が出たらざわめきや口笛のひとつも飛んだかもしれない。


オルタンシアは王宮仕込みの仕草でスカートを持ち上げ、脚をクロスさせて一礼をした。


「私はオルタンシア。今日からあなたたちと人々の仲買人をいたします。どうか受け入れて、私をここにいさせてください。いつかご主人様がここにやって来て、空っぽになったこの部屋を見るために」


オルタンシアとキリアンを繋ぐ最後の糸がぷつんと切れた。臣従の契約の庇護と支配を失い、思った以上の喪失感がオルタンシアを覆う。だが彼女はつんと顎をもたげて人形たちを見つめる。いずれ自分もそうなる姿をした者たちを。


導かれた者だけが入れる魔法の人形店はこうして始まった。店の中には少女の姿をした魔女がひとりきり。人形たちは息を吞むほどに精巧だが、どこか悲しげで艶めかしい。


大陸が動乱に巻き込まれる時代の少し前。そんなところもあったっけ、といつか誰かが思い出す、小さな不思議の店だった。



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