第7話 毛皮を着た貴婦人

彼女はとてもゆっくりと店にやってきて、上品に爪の先で扉をノックした。オルタンシアが駆け寄って扉を開けると、そこには見上げるほどに大きな白銀の狼がいた。さすがの彼女も肝をつぶしたが、すぐににっこりと笑って大きく扉を開き、歓迎の意思を見せたのはさすがである。


「いらっしゃいませ。あなたをお導きくださった運命に感謝いたします、奥様」


「まあ、ご丁寧に。年を取ってくると長く歩くのは辛くてねええ。ちょうどいいところにお店があったものだこと」


彼女はぐるぐると喉を鳴らして笑った。丘ほどの大きさの白銀の狼。彼女は西の山脈の女王だった。今はもう群れも権力も保持していないものの、その体躯、その毛皮ときたらみごとなものだった。


がっしりした肩、大きな爪を戴く四つの足、均整の取れた力強い筋肉が銀の毛皮に透ける。自然がゆるゆると時間をかけて削った氷河のような形の額とぴんと立った耳。鋭い目つきの真っ黒な瞳。そして何より、自信に満ちてゆらゆらと揺れる尻尾。


「あら、ありがとう」


少女が敬意をもって銀の盆に入れた真水を差し出すと、彼女は目を細めてごくごくとそれを飲んだ。


オルタンシアは緊張していたが、それを表に出さないだけのことはできた。腐っても王族に嫁ぐための教育を受けた身だ、礼儀作法で失敗しては自分で自分を許せない。


間近に見ると彼女の牙は何本かが抜けていた。戦闘や年月が奪い去ったのだろう。だがそのことで彼女の美しさや威厳が欠けることはなく、むしろ古い素焼きの壺に独特の風格が備わるように新しい尊厳が加わっていた。


「ここは人間の店ではないのね。けれどあなたは人間。おかしなことだわ」


「お恥ずかしいことです。ちぐはぐで……」


「いいえ、何も悪くなんてありゃしませんよ。オホホ。昔の森もこうでした。何もかもが混ざり合っていて。羊も牛もあの頃は草を食みにきませんでした。楽な狩りに逃げ家畜を襲った同族が人間を怒らせることもね」


獣の目が人間にはわからない理由できらめいた。怒りでも悲しみでもなかった、人間という種族を対等な敵として認める目だった。オルタンシアはしずしずと壁際に下がり、台の上にずらりと並ぶ人間と動物の姿の商品たちを示す。


「奥様、この店は人形屋でございます。これらの人形は意思がありますし、あなた様がどなた様かも存じております。珍しい人形ですよ。見て回られてはいかがですか?」


「人形」


狼は上品な皺を優美な鼻づらに寄せた。


「遺体に見えるけれど」


しかしすっと音を立てずに半身を起こし、興味と関心を持って店の中を歩き回るのだった。その動きのすっきりしたこと、体重移動の無駄のなさ、どれをとっても彼女は一流の狼である。


人形たちを見て回りながら西の山脈の女王は色々と質問をした。


「この子はどうして泣いているの?」


「ずっと前に死んだことを嘆いております、奥様」


「立派な羊の毛皮だこと。なぜ人の形の人形にくっつけているのですか?」


「巻き毛の少年の頭髪を表しております。この羊は少年と特別仲が良かったので、憐れんだカラスが嘴に咥えられるだけの羊毛を咥え、死の縁にある彼の元へ運んでやったのです」


「そして死してなおもガラスの肌に鉄の靴を履かされ、ここで死にながら生きている……人間のすることというのは、山の稜線のようにひとつきりしか道のない生死のあわいを強引に断裂させるようなことばかり」


狼はしみじみとしっぽを垂らした。


「だからこそあなたがたは世界の王者となるのでしょう」


オルタンシアは微苦笑してその言葉を受け入れる。そんなすべてがいやで逃げ出したことは、彼女の前では言い訳にしかならない。


西の女王は静かに店内を見て回って、最初の玄関口に戻ってきた。そこは小さなホールとして使われ、ほのかな赤い光が集まる場所で、座った彼女の毛皮は星を集めたように美しかった。


「残念ながら私の欲しいものはなさそうね。せっかく呼んでもらったというのに情けないこと」


と、ちっともそう思っていなさそうに前歯を見せて笑う。オルタンシアは苦笑した人形店も店であるからにはひやかしの客や、何も買わずに取って返す客もいる。代償を支払うのがいやで逃げた者も過去にはいた。人形が呼ぶ声が客をたぐり寄せるのは事実だが、選ぶ権利は客にある。


確かに目の前の四つ足の貴婦人は、陶器や石や宝石の人形たちとわかりあうにはあまりに温かすぎるだろう。


彼女は腰まで伸びた黒髪をかすかに揺らし、銀の盆に水差しから新しい真水を注いだ。貴婦人はぴくりと耳を動かしてお礼の代わりとした。


「けれど茶飲みのためだけに場所を占領し、あなたの時間を独占したとあってはいけませんね。何かして差し上げられることはあるかしら」


「まあ」


オルタンシアは水差しを会計台に戻しながら考えた。狼に限らず人語を理解する魔法生物たちと人間との関係は、常に台頭であらねばならない。人が強いと彼らはペットになり、向こうが強ければ食い殺されるからだ。


「では、どうか西の森のことをお話くださいませ。私はここから出られませんもの。楽しい話に飢えているのです」


貴婦人は頷いた。そして話してくれた。ありとあらゆる楽しいこと、不思議なこと、人間との関わり。彼女たち尻尾のある一族の考えは深淵に近く、オルタンシアには全部は理解しきれない。


若い狼が霧に覆われた谷間で受ける一生に一度の試練、それに失敗した者が追放され遠い氷河で悪霊になること。人間の秋の収穫祭に一部の狼は変身して紛れ込み、収穫物を分かち合い、歌や踊りを楽しむこと。夜空に輝く星座にまつわる狼の神話。狼の一族の祖先や冒険譚が星座として輝き、人間の記録する物語の別側面、あるいはまったく違うお話を語りかけてくる。


狼にも祖先の加護があり、樹木や草木との共存の思想があり、そして空を駆ける同じ祖先を有する別の一族である雷鳴に親しみを持っている。


喋る狼の貴婦人は美しかった。ごろごろと喉の奥で鳴る音は、なるほど彼女たちと雷に関係があることを納得させられるだけの低さだった。まっすぐなまなざし、銀色の毛並みのこっくりとした風合い。人間には辿り着けないところに彼女はいて、またオルタンシアも彼女が来られない場所に今、いた。


「奥様は物知りでいらっしゃいますね」


感極まってオルタンシアは呻いた。長い年月を人形たちと過ごすうち、彼女はこうした詩文や散文にならないものたちの思いを聞くのが好きになった。人形たちは夜中、彼女の夢の中に入ったり声にならない声で歌ったりして、キリアンとの日々やさらにその過去について教えてくれたからである。それらを書き留めることがオルタンシアの仕事のひとつともなっていた。


「素晴らしい。このことを書き残してもよろしいですか? どこかの誰かに、あなたがここに来たことを伝えるために」


「よろしいでしょう。私の言葉が人間とはいえ誰かの記憶や歴史に留まれるだなんて、名誉なことです」


狼は獣の笑みを浮かべ、重ねた前脚に顎を乗せてくつろいだ。


オルタンシアは知らないことだったが、貴婦人の故郷である西の山脈は鉱山と多数の奴隷鉱夫を所有する一人の企業家によって削り取られ、まさに開発のさなかにある。一族はもっと南の古い森に逃げたが彼女だけは西に残った。生まれ育った山の最後を見届けるために。


貴婦人はこのひとときの邂逅が終わればまた滅びゆく西の山脈に戻る。西の森と人形店の森がキリアンの魔法に繋ぎ合わされたことに、キリアンもオルタンシアも関与していない。一度世界に生まれた魔法はその作成者の指示も使用者の意図も、本当の意味で気に掛けたりなんてしないのだ。


新しい紙に新しい知識を書きつけながら、オルタンシアはふと古い知識が頭をよぎるのを感じる。


「――奥様、これはお耳汚しかもしれませんが」


人形店の魔女は乾いた唇を舐め、目の前の狼の貴婦人を見つめた。秀でた額と銀の毛並みを持つ高貴なそのひとは、黒い瞳で若く愚かな人間を見返した。オルタンシアは万年筆を置いた。


「今、この国の王妃にならんとしている女のことを、きっとご存知ないでしょう。光の少女と呼ばれる者です」


「知りませんね。西にまで噂は届かなかったのでしょう」


「来年の春、彼女と王子の一行がドラゴンを倒して英雄となります。その旅の過程で一匹の不思議な子犬を拾うのです。……白く光り輝く、黒い瞳の、非常に賢い犬だと彼女は思い、彼を一行に咥えます」


「――それは滑稽なこと」


貴婦人は牙を剥き出しにした。前の方のひときわ大きな牙は右の一本だけ、奥の方のギザギザの牙もチラホラ欠けていたが、その迫力ときたらカウンターを挟んでいなかったら逃げ出していたかもしれない。


それは原作にあった冒険のうちの一つだ。オルタンシアを打ち負かしたジャンヌは晴れて王太子エドゥアールの恋人となるが、身分違いのため結婚できない。そこに南の海の洞窟に暴れるドラゴンが現れる。ドラゴンの討伐隊が組まれ、ジャンヌとエドゥアールは一緒に選抜される。そしてドラゴンを倒した功績により、ジャンヌは王妃になるのだった。


時間にすれば半年にも満たないが、厳しい旅路だ。そこにその犬――と呼ばれていたが、実は世界すら滅せる強大な魔物の一族フェンリルの末裔が現れ、ジャンヌだけに懐く。ジャンヌは忠実でかわいいマスコット、ホワイトちゃんを手に入れるのだ。


オルタンシアの目の前にいる西の山脈の貴婦人の種族名を、フェンリルという。


貴婦人はやおら立ち上がった。鉤爪が木の床をチャリリとこすった。


「あなたは未来を知っているのですね、魔法に関わりのある人間」


「はい。来年の春……今は冬のはじめですから、時間はさほどありません。その犬はホワイトと名付けられ、光の少女ジャンヌの眷属となります」


「我が一族が!」


声は低く、牙は光る。オルタンシアは奮えないよう足の指をブーツの中で丸める。


「我が一族の子供が、たかが人間の元に下る? 仲間ならまだいい。眷属ですって?」


「……正確には、使い魔にされます。ジャンヌは魔力がありますから」


「おのれ。許しはせぬ」


ふっと貴婦人の唸り声がやみ、彼女は一瞬で平静を取り戻した。鼻づらの皺は平坦になり、黒い目が温和な半月のかたちになる。


「よいことを教えていただきました。ホホ。ここに来た甲斐があったというもの」


「恐れ入ります」


「いつかお礼をしてあげなくてはねええ。西の山脈の女王の力を借りたいことがあったら、そこらの野良犬かワーウルフに伝言を頼みなさい。犬の形をしたものであれば私に必ず言葉を届けてくれます」


「はい。ご恩情に感謝いたします」


「それでは、私はこれで。することができましたからね」


「……私の言葉を信じてくださるのですか?」


扉を開けて貴婦人を送り出しながらオルタンシアは尋ねた。正直、人間のことを対等だが愚かで卑劣だと感じているはずの貴婦人がオルタンシアを信用し、動こうというのが解せなかった。


肩越しに高貴な雌狼は振り返ると、にやっと奥歯まで全部見せてその細長い横顔で笑った。


「何故って顔をしている。オホホ。気づいてないの?」


「何が、でございますか?」


「魔法使いの持ち物であるあなたはもう嘘がつけないの。いずれ中の遺体たちと同じになる運命のあなたは、これからそうやって人間の持つ特徴を一つずつ失っていくのです」


オルタンシアは絶句した。頬にさあっと血が上り、歯がかちっと鳴る。


貴婦人はぱたんと尻尾を振り、それを別れの挨拶とした。


「――嬉しそうな顔だこと!」


と言い残した言葉がオルタンシアの耳に入った頃には、すでに狼の影も形もない。西の森に戻ったのだ。そして一族の子供を探しにいったのだ。人間の配下につくなどという愚劣な運命からその子を救うために。あの子がホワイトという名前で呼ばれることはないだろう。


オルタンシアは両手で頬を抑えた。熱が出たときのように熱かった。嬉しい、そうだとも。オルタンシアは嬉しい。


「キリアン様……」


とそっと名を呼び、うずくまってしまいそうなほど震える我が身を抱き締める。人間の持つどうしようもない醜い部分すら、彼はオルタンシアから奪い取ってくれるのだ。紫色の目を伏せて、オルタンシアはときとき忙しない心臓の鼓動を感じた。彼女の背後で人形たちは呆れたように目をぴかぴか光らせて、互いにコンタクトを取る。


オルタンシアはしばらくそこから動かなかった。森は静寂を取り戻し、いつまでもただ黒くそこに横たわる。オルタンシアは今でも、ここにキリアンが訪れる日のことを夢見ている。立派に店主の役目を果たし、そしてそのいつかの日は思い切り褒めてもらうのだ。

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