5章 道⑧
「……み……すみ……魚住……魚住!」
徐々に大きくなる声に、はっと瞼を開く。出られたと思ったはずの家の中に自分がいる。そのことを頭が理解した途端――。
「ぁ……あっ、いやっ、いやあああっ!」
大声で叫び、じたばたと暴れる一叶の手首を誰かが掴む。
「落ち着いて! 俺だよ、央!」
「ぁ……え……?」
目に涙を浮かべながら、一叶は初めて目の前にいる人物を見た。そこにいたのは間違いなく、私服姿の翔太だった。
「深呼吸して、もう大丈夫だから」
「……っ」
その優しい声を聞いたら、身体が勝手に動いていた。一叶は起き上がって、翔太に抱き着く。それでも震えが止まらない一叶を抱きしめ返した翔太は、心配そうに和佐とエリクの顔を見た。
すると、そばに立っていた和佐が困り果てた様子で言う。
「怯え方が尋常じゃねえな」
「うん……うおちゃん、なにがあったの? 駆けつけたら気絶してるから、驚いたよ」
一叶は鼻をすすり、翔太の胸から顔を話す。隣で片膝をついていたエリクは、心配そうな顔をしていた。
一叶は深呼吸をして、唇を震わせながら説明をする。
「お……お父さんと会った帰りに、家に戻って……おか、お母さんと話そうと……思ったの。そしたら……病院で見た、黒い女が……いて……」
「マジかよ。ここ出るか?」
素早く室内を見回す和佐に、一叶は首を横に振った。
「ううん、お父さんと会ったカフェにも、たぶんいた。私の行く先々にいるなら、どこにいても同じ……」
息が詰まりそうなほど、室内がしんと静まり返る。
「お、お母さんに会い来たんだよね? 今はどこにいるの?」
エリクが恐怖を紛らわすように、沈黙を破った。
「……わからない。お母さんは専業主婦だし、昼間も家にいるはずなんだけど……」
「あ? お前んちって離婚してるだろ。専業主婦でどうやって食ってんだ?」
遠慮せず尋ねた和佐を、エリクが「ちょっと!」と咎める。
和佐は、ばつが悪そうに「悪い」と頭に手を当てた。
「ううん、気にしないで。生活費はお父さんと私の仕送りで賄ってるんだ」
翔太が怪訝そうに首を傾げる。
「今も仕送りしてるの?」
「え? うん、してるよ」
「一緒に住んでるのに?」
「え……あ、そう……だよね」
一緒に住んでいるのに、どうして仕送りをしているのだろう。そのことに、今まで一度も疑問に思わなかった。
「あとさ、玄関の荷物だけど」
翔太に言われるまで、その存在自体を忘れていた。玄関に、だいぶ前に宅急便で届いた段ボール箱が置きっぱなしになっている。
翔太はリビングから、玄関にあるその荷物を見た。
「あれ、送り主誰?」
「あ……そういえば、バタバタしてたから確認してない……」
和佐は意外という顔をした。
「珍しいな。お前、忙しくてもデスク綺麗にしてんだろ。そういうの、すぐ片付けそうだけどな」
「確かに、部屋も綺麗だしね」
エリクがリビングを見回す。
「ああ、だから、あの段ボールが余計に歪に見える」
和佐はそう言って玄関へ行き、段ボールを抱えて戻ってきた。
「差出人、
段ボールの伝票を和佐が読み上げる。
「それ……私のお母さん……」
「えっ、待って待って。一緒に住んでる相手から、宅急便?」
混乱しているのは、エリクだけではない。
「なんで、だろう……あれ……?」
「……実は、さ」
翔太が言いにくそうに切り出す。
「何度か魚住がスマホ見て、お母さんから連絡が来たって言ってたとき、俺……画面が見えちゃって」
翔太とはデスクが隣だからか、食事の席でもなんとなくそばに座ることが多かった。なので視界に入りやすかったのだろう。
「毎回、真っ暗な画面を……スワイプしてた」
「え……でも、私……っ、そんなわけ……っ」
慌ててテーブルの下に潜り、スマートフォンを掴むと、これまで送られてきたメッセージを確認する。
「あれ……?」
トーク履歴に母の名前はある。ただ、未読メッセージの通知が限界値を示していた。
「どうして、こんなに未読メッセージが?」
母がまた暴走して、鬼のようにメッセージを送ってきたのだろうか。
トークルームを開いて、画面をスクロールしながらメッセージに目を通す。
【返事して】
【なんで無視するの】
【母親を無視するなんていい度胸ね】
既読すらつけない一叶を責める内容のメッセージが、一日に何通も送られてきている。
「おかしい、どれも見覚えがない……っ、そうだ、霊病科に配属されたって報告したときのメッセージ……!」
検索機能で【霊病科】と打ち込み、検索してみるけれど、引っかからない。
「……なんでないの? 私が見てたメッセージはどこにあるの?」
ありえないと、今度は着信履歴を見る。そこには母の名がずらりと並んでいた。
「電話は……きてる。でも、メッセージは……」
エリクと和佐が戸惑ったように混乱する一叶を見守る中、翔太だけは悟りを得た顔で言う。
「初めは勘違いだと思ったんだ。でも、病室で魚住とお母さんが霊病科に配属されたことを話したとか話してないとか、一緒に住んでるのに家を出てったとか、そんなやりとりしてて、おかしいなって」
(そういえば何度か、お母さんと話が噛み合わないことがあった)
たとえば、この部屋で首を絞められた日。逃げ出した一叶は、三十分と経たずに病院の前でまた母に会ったのだ。
『私のこと、追いかけてきたの? 首まで絞めておいて、気にするのはそこなの……?』
『はあ? なに言ってんのよ、相変わらず頭が弱い子ね』
首を絞めたことを追求したのだが、本人は身に覚えがない様子だった。母がとぼけているのだと思っていたのだが……。
「魚住、この段ボール、開けていい?」
一叶はなにも考えられず、ただ頷いた。中には病理医になるのに役立ちそうな医学書に、調味料や乾物が入っていた。
「同じ家にいるのに、仕送りをするのは変だ。お母さんは、あの宅急便の伝票に書かれてる場所に住んでるんだと思う」
「でも、これまで一緒にご飯を食べたりもしたし……っ」
「どういう原理かはわからないけど、そう思い込んでた……とか」
ありえない。ほとんど毎日、母とは一緒に食卓を囲んだ。
いや……本当にそうだった? 霊病科の仕事が忙しくなってから、家で母と過ごしていた覚えがない。
(そうだ……ときどき現れて、私はそれをずっとだと思い込んで……)
ありえないことが自分の周りで起きていた。違和感をはっきり自覚した途端、さあっと血の気が引くのを感じる。
「じゃあ……これまで、私がやりとりしてたのは……一緒に暮らしてたのは……なに?」
「おいおい……お前まさか、霊と同居してたんじゃねえだろうな?」
さすがに和佐の表情も硬い。
「ちょ、うおちゃんが霊に気づかないってこと、ある?」
慌てるエリクに、眉間に深い皺を寄せて翔太は考え込んだ。
「……霊だって、思いたくなかった……とか?」
エリクはなるほど、という顔になる。
「霊視ができなくなったのは、うおちゃんが見たくないものが視えちゃうからだったしね」
「つーことは……」
和佐の声に合わせ、三人の視線が一叶に向いた。
「見たくないもの……お母さん? でも、お母さんは生きてるし……」
「生霊じゃねえか?」
和佐の見解は的を射ていて、それ以上の意見はないと室内に沈黙が降りる。
「……っ、私……家を出ても結局、お母さんから離れられてない。私が、お母さんと離れる生活を受け入れられてなかったんだ……」
(ああ、戦う前から、負けてる)
いづみの言った意味がよくわかる。
この声は母に届かないと嫌というほどわかっているのに、話をしようとしている時点で、まだわかり合えるかもしれないと期待を持っているということだ。
絶縁するなんて言いながら、繋がりを絶てないでいるのは自分のほうだ。それにいづみも気づいてしまったのだ。そして、自分に失望した。戦う前から負けている、と。
「縁だって切る覚悟だったのに……どうして、切れないの……?」
自分のことなのに、よくわからない。
悔しくて苦しくて、涙が出た。一叶はスマートフォンを握ったまま、両手で顔を覆う、
「前に、言おうと思ったんだけど……」
翔太の静かな声音が室内に響く。
「頑なに遠ざけようとするのも、お母さんを意識してるってことだと思うんだ。なんて言えばいいんだろう、それくらい強い気持ちで突っぱねないとならないくらい、離れられない人……なんでしょ?」
そうだ。もう、純粋に慕う気持ちとは違うけれど、簡単には断ち切れない情がある。
「それが依存であれ、魚住の心はお母さんを求めてる。だから、生霊だって気づきたくなかったんでしょ。そばにいられてるって、思いたかったんだ」
見たくなかった本心。エンパスの彼が言うのだ、きっとそれが真実。
「……うん……そう」
握りしめたスマートフォンを見つめる。
「自由に生きるためとはいえ、お母さんを捨てるのは難しい。でも、今の私とお母さんは、お互いに依存していて、このままじゃ……ふたりとも不幸になるだけ」
一叶は顔を上げ、皆の顔を見回す。もう逃げたくないから、この決意を聞いていて欲しかった。
「だから、生霊になってまで私を縛るお母さんの執着と決着をつける。皆には……見守ってて欲しい」
戻る場所が見えていれば、怖くない。一叶の願いに応えるように、皆は頷いてくれた。
ごくりと喉を鳴らし、スマートフォンを両手で握り締める一叶のそばに、皆が集まってきた。
そばに感じる彼らの温もりに包まれながら、思い切って発信ボタンを押す。短いコール音のあとで、電話が繋がった。
『今頃連絡してきて、どういうつもりよ! あなたが倒れた日、病院まで行ってあげた母親に対して、いい根性してるじゃない!』
開口一番に息をつく間もなく罵声を浴びせてくる母に、一叶は深く息をついた。
『謝るために連絡を寄越してきたんでしょうけど、今回は絶対に許しませんからね!』
このままほっておくと、ひとりでずっと喋り続けてしまう。でも、もう待たない。心を強く持ち、口を挟む。
「……お母さん、聞いて」
直接会わない。まずひとつ、一叶が決めたことだった。母と会えば、母を理解したい、これまでしてきたことを償おうという誠意が母側にあればと期待して、心が揺らいでしまうから。
『なにも聞くことなんかないわ。いいから早く帰ってきな――』
「私、病理医にはならない。今のまま、霊病医を続ける」
母の話を遮り、今度はこちらから畳みかけるように言葉を紡いだ。
『はあ? なに言って――』
「それから、これからもひとり暮らしを続けるし、車の免許も取る。お母さんのために医者になるのは辞める」
『この……』
母の声が怒りに震えているのがわかる。
「ウラギリモノ!」
電話の向こうにいるはずの母の声が、なぜか目の前でした。リビングに黒い靄があつまり、そこにあの黒い女が現れる。
「アレダケ二人三脚で支エテヤッタノニ!」
電話の声と同時に、黒い女はくわっと口を開け、忙しく一叶を罵った。女の怒りに合わせ、自信が起きたかのように家が揺れる。
翔太たちにはその姿が視えないようで、「なんだ!?」と驚愕しながら室内を見回していた。
「お母さん……」
皆には、宙に向かって話しかけているように見えるだろう。
「お母さん? じゃあこれ、普通の地震じゃない……?」
後でエリクの戸惑う声が聞こえるが、一叶は母から視線を逸らさない。
「そうだね、お母さんのおかげだよ。だから、病理医になる約束だけは果たすつもりだった」
一叶自身も人付き合いは苦手なので、性に合っていると思っていたから。
「でも、なにやってもうまくできなかった自分が、初めて必要とされる場所に出会えたの」
医者になったのは母がきっかけだったけれど、その仕事に就いて、やりがいを感じられるようになって、自分の意思で霊病医に――なりたいと思える自分をみつけた。
「アナタハ私ガイナイト、ナニモデキナイデショウ! ドウセ、ドコへ行ッテモ私ニ泣キツイテクル!」
「お母さんは……そういう私でいてほしいんだろうけど、泣きつくなら他の人のところに行くよ」
翔太とエリク、それから和佐を振り返った。優しく受け止めるような彼らの顔を目に焼き付け、再び母に向き直る。
「私以上ニ、アナタノコトヲ考エテル人間ハイナイ!」
「そうかもしれない。でも私は、お母さんといても……寂しい。お母さんの言葉を聞くと……苦しいんだ」
「ナンデスッテ?」
「今日、お父さんに会いに行ったの。私のせいでお父さんと離婚したっていうのも、嘘だったんでしょう?」
その話を聞いたときのことを思い出して、怒りが込み上げてくる。
「私がひとりでは生きられないようにするために、お母さんは私とお父さんの仲を引き裂いた。もう……息が詰まりそう……っ」
「アナタハ、オ父サンニ騙サレテルノヨ!」
母が必死に一叶の心を引き留めようとするのは、自分が立派な娘を育てたという称賛を浴びたいがため。
もう、この人には娘に託した夢しか残っていないのだ。それを取り上げられたら、自分の存在意義を失ってしまいそうなのだろう。けれど、それに付き合っていたら、自分も壊れてしまう。
「お母さんの望むように生きることはできない。私の人生は私のものだから」
「違ウ! 私ノモノヨ!」
「お母さんの人生が私のものじゃないように、私の人生もお母さんのものじゃない。お互いが自分の人生を生きるために、私たち……会わないほうがいいね」
頬を一筋の涙が伝う。嗚咽のせいで、語尾が震えた。
「アナタガ生キルタメニハ、私ガ必要デショウ!」
どれだけ気持ちを伝えても、暖簾に腕押しで、わかってもらうことはきっと永遠に無理なのだろう。
「私は私、お母さんはお母さん、別の人間なんだよ。私はお母さんの夢を叶えるために生まれてきたんじゃない。お母さんも私のためにこの世に生まれてきたんじゃない」
「薄情者、苦シメバイイ」
黒い女の両手が一叶の首に伸ばされるが、もう怖くはなかった。
「お母さん、私は先に行くね。だからお母さんも、いつか……ゆっくりでいいから、自分の道を歩いてね」
同じ場所にいたし、誰よりも近くにいた。でも、心は重なることなく、すれ違うばかりだった。
母に愛情がまったくなかったなら、きっと縁を切れた。でも、そうでないとのを感じていたし、母が夢を捨ててまで自分を生んでくれたことには変わりない。
だから、捨てはしない。ただ遠くで、息災であることを願いながら、それぞれの人生を歩んでいく。それが自分と母が互いを不幸にせずに繋がっていられる距離だ。
「これが私の答え。さようなら、お母さん」
通話を切ると、目の前の黒い女も霧散するように消えた。深く息を吐いた一叶の口元に、自然と笑みが滲む。
(いづみちゃん、私、負けなかったよ)
一叶は自分の戦いを見守ってくれていた皆を見た。
「悲しいけど……折り合いをつけるって、諦めの連続……なんだね」
なにか理由があったのではないか。あのときはごめんねと、その言葉が聞けるのではないか。母の少しもぶれない物言いに、親に期待することを諦めることができた。
「なにを言ったところで、母はなにも変わらない。勇気を出して母と対峙したから、そのことを受け入れることができた。そばにいてくれて……っ、ありがとう……っ」
そのまま子供のように泣き続ける一叶を、翔太が抱きしめた。エリクは一叶の手を握り、和佐は頭に手を乗せてくる。
このとき感じた彼らの体温を、一叶は一生忘れないのだろう。
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