5章 道⑦


「それで、きみたちは無断外泊したうえに徹夜でゲームをして、そのまま出勤してきたと」


 目の前に腕を組んだエリクが立ち塞がっている。

 寝不足の顔で出勤した一叶たちは、部屋に入るなりエリクの事情聴取を受ける羽目になったのだ。


 エリクの向こうには、デスクの前に腰かけながら、こちらを呆れたように見ている和佐と、会議用テーブルの席から可笑しそうに笑っている京紫朗が見える。


「そんな……っ、そんなの、僕も行きたかった!」


「夜勤だったんだから無理だろ」


 和佐が正論をぶつけるが、当の本人は聞いていない。


「こうしない!? うおちゃんがみんなの家をぐるぐるローテーションして、クリスマス会をやる!」


「馬鹿の発想だな」


 エリクが勢いよく和佐を振り返った。


「じゃあいいわけ? 和佐だけ、うおちゃんに家に来てもらえないよ?」


 和佐が黙り込む。

 まだ行くとはいっていないのだけれど、皆が他のそうなので見守っていたら、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 胸がどくりと音を立てる。震える手でスマートフォンを取り出し、画面をつけると、不在着信とメッセージが何十件と入っていた。


「お母さん?」


 翔太が心配そうに尋ねてくる。


「……うん」


 見なくてもわかる、メッセージには恨みつらみの文章がつらつらと書かれているのだ。

 一叶は電源を切ろうとしたが、ふと指を止める。


『先生、負けないでね。先生が戦ってるって思うと、私も頑張れそうなんだ』


 戦うことをやめたら、いづみはあのままかもしれないないのだ。

 自分ひとりのためなら、きっと無理だった。でも誰かのためなら、頑張れる気がする。

 気持ちを奮い立たせ、スマートフォンを握り締めていると、翔太が言う。


「ついに旗揚げ?」


「うん、だけどその前に父に会ってこようかと」


「お父さんに?」


「そう、私が離婚した理由だって母に言われたとき、正直すごく傷ついて……またそのことを持ち出されたら、黙ってしまう気がして。だから自分で直接確かめたいの。その事実を受け入れて、お母さんに向き合いたい」


 考えを口にすると、先ほどよりも強く心が固まった。


「思い立ったが吉日です。今日は早退でいいですよ」


 京紫朗が立ち上がり、こちらに歩いてくる。


「でも……」


 目の前で足を止めた京紫朗を見上げると、肩に手が載せられた。


「決心は時間が経つと鈍るものです。今の勢いのまま、行ってください」


「あ、ありがとうございます!」


 頭を下げると、他の皆が集まってくる。


「ひとりで大丈夫?」


 翔太に問われ、一叶はしっかりと頷いた。


「うん、平気。お母さんに比べたら、今日対峙するのは中ボスくらいだから」


 翔太は目を丸くし、すぐにふっと笑った。


「ん、ルーキーなのにHARDモードで勝った実績もあるしね」


「ふふ、うん。終わったら……連絡します」


 スマホを掲げると、皆が頷いてくれる。

 そして一叶は、着たばかりの白衣を脱いだのだった。




 二時間後、一叶は都内のオフィス街にある喫茶店にいた。


「もう、連絡してもらえないと思ってたよ」


 向かいの席に座っている父は、記憶の中の父よりもずっと老けていて、微笑みは少し寂しそうだった。


 サラリーマンである父とは、思いのほか簡単に連絡がとれた。


 父は別れてから、ときどき連絡を寄越してくれていたのだが、一叶には応えられない事情があった。


「ごめんね、お母さんに止められてて」


「だろうと思ってたよ」


 苦笑いしながら、父はコーヒーを飲む。カップを口に運ぶ頻度が多いので、父も緊張しているのだろう。


「お父さん、スーツを着てるけど、もしかして仕事中だった?」


「ああ、いいんだ。半休を取ったから」


「あ……ごめんね。そんなに時間は取らせないつもりだったんだけど……」


「なにを言うんだ。なんとしても会いたかった。だから、そんなふうに遠ざけないでほしい」


 父の必死な様子を見ると、その言葉が嘘には思えない。


「今日は、父さんに聞きたいことがあるんだろう?」


「それは……うん、その……」


 父の視線から逃れるように俯いて、私服のスカートの膝のあたりを握り締めた。


「お母さんに……聞いたんだけど、ふたりが離婚した理由……私だって、本当?」


「なんの話だ?」


 とぼけているのかと視線を上げると、父は心外だと言わんばかりの顔をしている。


「あいつが言ったのか?」


「うん、私が霊が視えるって嘘ばかりつくから、お父さんが出ていったって……」


「なんてことを……」


 父は額を押さえ、ショックを受けているように見えた。


「別れたのは、お前のせいじゃない。お母さんといるのが……限界だったからだ」


「え?」


 一叶が驚いていると、父はテーブルの上で両手を組み、暗い表情で語り始める。


「お前が中学に上がってすぐのことだ。母さんから聞いたんだよ。お前が……っ」


 よほどつらいことなのか、父は言葉を詰まらせた。だが、覚悟を決めたように続ける。


「俺が一応父親だから、家ではうまく付き合おうとしてるけど、いやらしい目で見てくるから……気持ち悪いって……言ってたって」


「そ、そんなこと言ったことない!」


 腰を上げ、つい感情的になって声をあげてしまった。周囲の視線が集まり、一叶は身を縮こまらせながら座り直す。


「ああ、だろうな。けど当時、お前と母さんは学校に行っているとき以外、ずっとふたりでいただろう。だから、もしかしたらって気持ちが……消えなかった」


「お父さん……傷ついたでしょう」


 あまりにセンシティブな内容のせいで、子供だった一叶に踏み込んで尋ねることができなかったのだろう。


「自分の娘に嫌われたと思ってたからな。……たぶんなんだが、母さんは父さんと一叶を仲違いさせたかったんだと思う」


「どうして、そんな酷いことを……」


 やり方も、あまりに残酷だ。


「お前を、離したくなかったんだろう」


「あ……私が、お母さんの夢だから……?」


 理解ができない。気持ちを落ち着かせるようにコーヒーを一口飲んでみるが、ほとんど効果はなかった。


「俺の目から見ても、お前を医者にしようとするあいつは……異常だった。母さんはお前を身籠って、医者になる夢を途中で諦めただろう?」


「うん、お母さんは私を産んだこと、後悔してるのかな」


「いいや、お前が生まれたときは喜んでいたよ。お前を愛していなきゃ、夢を諦めてまで産まない。それは真実だ」


 確かに下ろすこともできた。今の母からは想像できないけれど、自分の夢を叶える道具としてではなく、娘として愛してくれていた時期もあったのだろうか。


「だが、お前を育てながら、周りにいる同い年くらいの人たちを見て、みんなは夢に向かって学んでいたり、仕事をしてるのに、自分はって劣等感があったんだろうな」


 父は話しながら、斜め向かいの席の親子を眺める。髪も雑にまとめられ、服もお洒落とは程遠く、育児に負われている母親が五歳くらいの女の子にパフェを食べさせている。


「子育てを終えてから、いざなにかをしようとしても、勇気が出ない人は多いと思う。年齢と共に、あるいは社会から離れていたから、チャレンジすることが怖くなったりね」


 母がおかしくなった理由を知ったからといって、もう二度と、会わないことには変わりない。ただ、知れてよかったとは思う。母は不安定で可哀そうな人、そう思えば少しだけ母への怒りが軽くなった気がしたから。


 父は家族から目を逸らし、俯いた。


「だからといって、その劣等感を子どもに補償させようとするなんて、おかしい。わかっていたのに、俺は……なにもしなかった。逃げたんだ」


「……止めてほしかった、お母さんのこと」


 父に同情する気持ちと、どうして母を自分ひとりに押し付けたのかと責めたい気持ちが心の中に同居している。そんなふうに考えてしまう自分が嫌だった。けれど、本心だ。


「そうだよな、すまなかった。俺は怖かったんだ。お前とご飯を食べてるときも、洗面所で鉢合わせたときも、母さんの言葉が頭をよぎって、お前に気持ち悪がられたらって……それで耐えられなくなって、離婚したんだ」


「……っ、ごめん、お父さんも辛かったのに」


「いや、子供を守れない不甲斐ない親でごめん」


 一叶は首を横に振る。謝ってもらえただけで、胸はいくらか軽くなった。


「ううん、私も……その気持ちはわかるから……」


 言葉尻に交じったため息が、カップの中のコーヒーを震わせる。


「お母さんの言うことに、律儀に全部従うのはおかしいって思うのに、どうしても母を突っぱねられなかった。お父さんと同じ、嫌われるのが怖かったんだ」


「一叶……お母さんは、家庭だけが人生になってしまった人だ。お前が医者になることで、娘を立派に育て上げた母親だと、他人から賞賛されたいのかもしれない」


「私が親になれば、その気持ちがわかる?」


 もう支配されない、いざとなれば絶縁も厭わない。その気でいたのに、まだ母を理解したいという気持ちが共存していたなんて。


「お母さんは不安定で可哀想な人だとは思う。けど、それをお前まで背負うことはないんだ。本当は、もっと早く言ってやるべきだった」


 父は頭を下げる。


「お父さん……」


 その小さくなった姿を見れば、これまで後悔を抱えて生きてきたのだとよくわかった。 


「今も、お母さんと一緒に住んでるのか?」


 申し訳なさそうに顔を上げた父が言う。


「うん、一度は家を出たんだけど、お母さんがマンションまで押しかけてきて……」


「そうか、離婚してひとりになってから、干渉がひどくなったんだな」


 父は思い詰めたような深刻な表情で、深く息をついた。


「一叶、もう十分だ。お前はお前の人生を歩め。そのために捨てることは、罪じゃない。今からでも、自由になってくれ」


 懇願する父に、一叶は目を閉じる。


(お母さんを捨てる……)


 これまで支えてもらった。愛していないわけでもない。けれど、このままでは自分の人生を歩めない。


「お父さん、ありがとう」


 伝票を持って立ち上がると、父は残念そうに一叶を見上げた。


「もう行くのか?」


「うん、思い立ったが吉日だから」


 一叶には、まだ向き合うべき人がいる。


「なら、伝票は置いていけ。このくらい、させてくれ」


「ありがとう。また……連絡します」


 照れ臭さを感じながら伝えれば、父の目が輝く。


「……! ああ、父さんからもするよ」


 一叶は笑みを返し、歩き出した。そのとき、ふいに席の奥に座った女性が気になった。黒い長髪にワンピース姿で、下を向いて座っている。


(あの人、どこかで……)


 眉間に力が入るのを感じつつ、女性に見入っていると――。


「一叶!」


 父に呼ばれ、一叶は振り返る。


「言い忘れてたことがある。お前がなにを視て、なにを聴こうと、父さんの娘だ」


 霊のことを言っているのだとわかった一叶は、笑顔で手を振った。

 そして踵を返すと、再びあの席を視る。そこに、女性はもういなかった。




「……ただいま」


 マンションのドアを開けると、人の気配がしなかった。


「お母さん?」


 靴を脱いで、呼びかけながら中へ入る。リビングに行っても誰もおらず、ぐるりと中を見回した。


 ――キシッ。


 畳が軋む音がして、和室のほうへ足を向ける。


「いるの?」


 和室に入ると、閉め切っているせいで真っ暗だった。壁に手を這わせ、電気のスイッチを探していると、


 ――キシッ。


 また、畳が軋む音がした。暗闇に目が慣れてくると、部屋の隅にうっすらと人影が浮かび上がる。


「わっ、お母さん? そこで……なにしてるの?」


 凝視すると、母は黒いワンピースを着ていた。俯き加減に立っている姿が、カフェの女と重なり、胸騒ぎがする。


「お母さん、今日……外に出た?」


 返答がない。背筋を氷で撫でられたように身震いする。


 一叶は鞄に手を入れ、スマートフォンを握った。なぜだか、今すぐにでもここから出なければいけないような気がする。


 一歩、後ずさった。スマートフォンを出した一叶は通話履歴を開き、霊病科のメンバーの名前を探す。


 しかし、スクロールする指が震えて、うまく操作できない。


「はあっ……はあっ……」


 激しく心臓が脈打ち、呼吸が乱れる。


 もう一歩下がると、片足がリビングのフローリングに出た。そこでようやく翔太の電話番号を見つけ、呼び出そうとしたとき――。


「ウラギリモノーッ!」


 母が両手を伸ばし、こちらに突進してくる。


「きゃあああああああっ!」


 母に飛びかかられた一叶は、フローリングと畳の境で仰向けに倒れた。ガンッと頭を打ち付けるが、その痛みを感じる間もなく、一叶の上に母が圧し掛かる。


「くっ……」


 スマートフォンは倒れた拍子にフローリングを滑り、ダイニングテーブルの下にいってしまった。それを目で追っていると――。


「っ、ぁ……!」


 ガッと首を掴まれ、反射的に顔を真正面に戻す。そこにいたのは、病院で一叶の首を絞めたあの黒い女だった。


 憎悪を宿した目が、一叶を凄まじい眼力で見下ろしている。


「が、はっ、ぁっ……」


 首を絞める女の腕を掴み、外そうとするが、びくともしない。畳の上を足がじたばたと何度も滑る。


『魚住? もう終わったの?』


 そのとき、スマートフォンから声がした。どうやら、転んだときに発信ボタンに手が触れていたらしい。


「うっ……うう、ぁ……っ」


 届かないというのに、縋るように左手を伸ばした。


 翔太なら気づいてくれるかもしれないという期待と、もう駄目かもしれないという恐怖から、目の端に涙が滲んだ。


『……魚住? ……わかんない、けどなんかおかしい』


 電話の向こうで、翔太は誰かと話している。


『魚住、どうしたの!?』


 異変に気づいてくれた。

 希望が胸に灯った瞬間、力がわいた。一叶は伸ばしていた左手を、女に向かって振りかぶる。


「ううううっ、ああああああっ!」


 叫びながら、勢いよく女を叩いた――つもりだったのだが、手は宙を切った。身体の上に乗っかっていた女の姿もない。


(逃げなきゃ!)


 わけがわからないが、勢いよく立ち上がって玄関に向かって走る。焦って狙いを外しながらも、鍵を回して扉を開けた。


(出られる……!)


 そう思っていた矢先、一叶の足を冷たい手が掴んだ。


「ニ・ガ・サ・ナ・イ」


「え……?」


 理解が追いつかないまま、強い力で足を引っ張られ、一叶は玄関でうつ伏せに転ぶ。


「い、や……」


 頬に涙が伝う。


 ――キィィィィィィィィ……。


 目の前でゆっくりと閉じていくドアを見つめながら、絶望が胸に広がっていく。そして――。


「きゃああああああああああっ」


 一叶の身体は物凄い勢いで、部屋の奥へと引きずられていった。

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