4章 笑顔の裏側⑧

 

 ぽたっと頬で冷たい雫が弾けるのを感じ、一叶は目を覚ます。


「うおちゃん!」


 視界いっぱいに、エリクの顔がある。

 まだあの悪夢の中にいるようで、頭がぼんやりとする。今が現実なのか、そうでないのかがわからない。


「うおちゃん、ごめん! 僕がマミコと母さんを間違えたからっ」


 涙目で、エリクは一叶の頭をハンカチで押さえている。地面に広がった一叶の白衣は、自分の血で真っ赤だった。


「絶対に助けるからっ」


 エリクが慎重にといった手つきで、一叶を抱き上げる。そして走り出すと、外から夜間救急の入口に回り、インターフォンでスタッフを呼ぶ。


 しかし、応答がない。通常なら、ありえないことだ。


「っ、なんで……」


 エリクは焦ったようにガラス張りのドアの中を覗く。そのときだった、施錠されているはずのドアが開く。


「……! ほんと、怖いって……」


 一叶を抱えるエリクの手に力がこもる。


「でも、行かなきゃ。うおちゃんの手当をしないと」


 意を決した様子で、エリクは中へ足を踏み入れた。

 救急の窓口の前を通りかかるも、明かりが消えていて人気がない。二四時間体制で救急患者の受け入れを行っているこの病院で、これは異常な事態だった。


「なんだ……あれ」


 診察室前の廊下を走っていたエリクが、急に足を止める。廊下の突き当りで、チカッと点滅する明かりの下に〝それ〟はいた。


 赤い白衣を羽織った女。いろんな女の目や鼻や口からできた継ぎ接ぎの顔が、どろりと下がって歪んでいく。


 今ならわかる、あれは魔巫女として殺された女たちがひとつになったものなのだと。


「う……嘘でしょ……くっ!」


 エリクは後ずさり、すぐに踵を返した。廊下をひたすらに駆け、前に曲り角が見えてくる。


「如月エリクさーん」


 曲がり角の向こうから声がして、エリクは慌てて立ち止まった。足音が近づいてきて、 目の前の壁に影が映る。


「挟み撃ちとか……マミコさん、何人いるんだよっ」


 エリクは後ろに下がり、やむを得ず近くの処置室に入った。そしてすぐに鍵をかけ、一叶を処置台に寝かせる。


「っ、落ち着け、落ち着け……」


 エリクは自分に言い聞かせるように呟いて、処置室を見回した。

 そしてスタッフのテンキー錠がついた金庫に暗証番号を入力し、中から鍵を取り出すと、施錠されていた棚の引き出しを開ける。


「キシロカイン……ステープラーもある……よし」


 エリクは処置に使う薬や注射針、シリンジをトレイに乗せ、慌ただしくこちらへ戻ってくる。


 傷口を確認するため、静かに一叶の頭を横に向けたエリクは息を呑んだ。


「っ、この焼印……」


 固まっていたエリクは、すぐに我に返り、局所麻酔薬であるキシロカインが入ったポリアンプルをシリンジで吸入し、注射針を装着する。続けて生理食塩水の入ったボトルにも注射針を挿入し、清潔なガーゼの袋を開けた。


「明かりはつけられないな……」


 ペンライトをオンにして口に咥えると、エリクは手袋をはめる。

 生理食塩水の入ったボトルを押し、注射針から中身を噴出させて傷を洗浄すると、ガーゼで水分を拭き取る。鑷子でポピドンヨードに浸した綿球を掴んで傷を消毒すると、


「ごめんね、麻酔かけるから」


 そう言って、注射で局所麻酔をかけた。


「傷は二、三センチ……かな。ステープラーで六針くらいいくと思う」


 そう言って、エリクが傷を縫合していく。最後にゲンタシン軟膏を塗布してから、ガーゼを当てて、一叶の頭にきつく包帯を巻いた。


「頭打ってるし、念のためCTも取りたいけど……」


 エリクの声を聞きながら、また思考が怒涛のように頭に流れ込んできたあの記憶に囚われそうになる。


 そのとき、エリクのPHSが鳴った。エリクは「うわっ」と音が鳴ったことに焦った様子で、すぐに電話に出る。


「黄色くん、今どこですか?」


 外来が静まり返っているせいか、PHSを耳に当てていない一叶にも向こうの声を拾えた。


「松芭部長! 外来の処置室です。うおちゃんが非常階段から落ちました」


 エリクが小声で報告すると、電話から動揺したような息遣いがいくつも聞こえる。

「くそっ、わかってたのに結局こうなんのかよ!」


「魚住の怪我の具合は!?」


 電話から和佐と翔太の声がした。皆、合流したらしい。


「後頭部を強打してる。裂傷は処置したけど、出血も多かったし、頭の検査をしないとなんだけど、外にマミコさんがいるんだ!」


「……! わかりました、そちらに行きますから、絶対にその部屋を出ないでください」


「っ、はい!」


 通話が切れると、足音が廊下に響く。エリクが焦ったように一叶を抱え、奥の寝台の裏に隠れた。


「っ、僕のせいだ。和佐に教えてもらってたのに……本当にごめんっ」


 懐に隠すように、エリクは一叶を強く抱きしめる。


「うおちゃん、うおちゃん、どうしてさっきから喋らないの?」


 わからない。焼き入れの痛みも、はっきり覚えている。自分は杭に貫かれて死んだはずなのに、どうしてここにいるのか。


 頭の中がごちゃごちゃで、考えがまとまらない。


「うおちゃん……」


 エリクが泣きそうな声で、さらに強く一叶を抱きしめた。そのとき、足音が部屋の前でぴたりと止まった。


 ――ドンドンドンドンッ!

 ドアが激しく叩かれ、エリクは身体を強張らせた。


「おいエリク!」


「魚住はそこにいる!?」


 聞こえてきたのは、和佐と翔太の声だった。


「っ、よかった……うおちゃん、みんなが助けにきてくれたよ」


 ほっと息をついたエリクは、一叶を診察台に乗せる。


「ここを開けてください!」


 京紫朗に呼ばれ、エリクがドアに向かって歩き出す。


「あ、はい! ちょっと待って……」


 エリクがドアの鍵に手をかけた。そのとき、異様な寒気がして、一叶はぐっと拳を握り締める。


(駄目……)


 本能が知らせてくる危機に、霞がかっていた頭が少しずつはっきりしてきた。


(動かなきゃ、そうしなきゃ、エリクくんが……)


 エリクは、カチャッと鍵を回す。ゆっくりと開かれていくドアの隙間から見えたのは、にたりと笑う医院長だった。


「え……母さ……」


 一叶はベッドから飛び降り、足をもつれさせながらドアに突進する。エリクの手の上からドアノブを掴み、バンッとドアを閉めた。


 ――ガンッ、ガンッ!


 ドアが凹みそうなほど向こう側から叩かれる。一叶は背中でドア押さえ、なんとか踏ん張った。


「黄色くん、開けてください!」


「エリク、開けなさい! お母さんの言うことが聞けないの!?」


「魚住!」


「ドアを開けやがれ!」


 見知った人たちの声を次々に使って、魔巫女が中に入ろうとしてくる。

 そのとき、ドアノブが回るのが見え、咄嗟にエリクが両手で止めた。


「っ、エリクくん、鍵を……っ」


「わかってる!」


 エリクは鍵を閉め、ふたりで身を寄せながら後ずさる。


「こ、声まで変えられるなんて聞いてないよっ」


 極度の不安な状態にあるとき、身内の声など聞いてしまえば、つい心を許して開けてしまうだろう。


「それだけ、向こうも切羽詰まって……るんだ……よ」


 そうエリクに返事をした一叶は、眩暈に襲われる。


「うおちゃん!?」


 よろけた身体をエリクに支えられ、そのまま床にしゃみ込む。


「エリクくん、マミコは……魔巫女……だったの」


「どういうこと?」


「魔巫女に顔を掴まれたとき、頭の中に映像が流れ込んできたんだ。たぶん、魔巫女にされた人たちの記憶……それで、彼女たちに起きたことを……追体験したの」


 あのとき追体験したものを思い出そうとしたら頭痛がして、こめかみを押さえる。自分が思う以上に、身体にストレスがかかっているのかもしれない。


「昔……如月養生所があった村で疫病が流行って、それを収束できないことで村人から責められてた村長さんと如月医師が、村人の怒りの矛先を自分たちから逸らすために、疫病は魔巫女のせいだって言ったの」


「その魔巫女っていうのは……」


 エリクもイントネーションが違うことに違和感を覚えたのだろう。


「魔女と巫女を掛け合わせたものだと思う」


「名前じゃなかったんだ……」


「うん。村長と如月先生は、魔巫女っていう必要悪を作って、魔巫女狩りをした。村の女の人たちを熱した打刻棒て脅して、魔巫女であると自白させて、最後に杭で貫いて……殺した」


「っ、そんなことが……」


「魔巫女にされた女の人たちの血がたくさん流れてた。魔巫女が赤い白衣を着ているのは、そのせいだと思う」


「じゃあ、あの継ぎ接ぎみたいな顔も……」


「死んだ女の人たちの怨念が、ひとつになって生まれたのが……魔巫女だから」


 一叶はボコボコになるまで叩かれているドアを見る。


「あれは……人じゃない。妖怪みたいなもの……だと思う」


「じゃあ、魔巫女は如月の一族を恨んで、こんなことを?」


「……たぶん」


 自分の先祖が犯した罪が信じられないのか、エリクは「そっか……」と辛そうに俯く。


「魔巫女に応えてしまった人たちは、私と同じように魔巫女の身に起きたことを追体験させられたせいで、精神に異常をきたしたんだと思う」


(私も、おかしくなりそうだった)


 あんな残酷な死、普通に生きていたら、一生経験することなどないだろう。


「これはもう、どうこうできる恨みじゃない。でも、医院長は完全に魔巫女に乗っ取られてるよね。どうすれば……」


 ドアが突き破られそうなほど、叩かれている。そんな中、焦りばかりが募って解決策が見つからない。


 そのとき、エリクがなにか閃いたような顔で一叶を見る。


「一叶ちゃん、一叶ちゃんが追体験したとき、頭の中に記憶が流れ込んできたって言ったよね」


「う、うん」


「僕の念写みたいだと思わない?」


「え?」


「頭に流れ込んでくるそれを、僕が上書きできないかな」


「まさか……脳に……念写するって……こと?」


「うん。僕、フィルムに念写する前に透視したものを念じるんだ。だから、念じるまでに留めれば、僕のイメージだけを流し込むことができるんじゃないかって思って」


 エリクが自分から挙げた提案ではあるけれど、その顔は不安そうだった。本人がいちばん、確証のないことをこれからするのだとわかっているのだ。


「もちろん、今までやったことないし、下手したら脳が損傷するかもしれない。だけど……」


「エリクくん」


 一叶はエリクの手を握る。


 今の彼の気持ちを想像するとしたら、家族の執刀をするようなものだろう。怖いに決まっている。


「もしものときは、私たちがいる。お母さんのこと、きっと助ける」


 息を詰まらせたエリクは、泣きそうになるのを堪えているように見えた。


「ありがとう、うおちゃんは誰かの背中を押す天才だよ」


 エリクは小さく笑って白衣を脱ぐと、床に敷いた。そこに一叶をゆっくりと横たわらせ、立ち上がる。


「エリクくん……」


 迷わずドアに向かっていくエリクが心配で、つい名前を呼んでしまった。


「大丈夫、うまくやってみせる」


 彼は一叶の気持ちを察してか、前を見据えたまま強い口調で答えた。


 ついにドアの前で足を止めたエリクは深呼吸をして、ドアノブに手をかける。そして、一気に開け放った。


「っ、母さん!」


「アアアアアアアアアアッ!」


 狂ったように叫ぶ医院長の頭をガッと掴み、エリクは念じる。青いフラッシュが炊かれ、医院長は「ガアアアッ」と苦しげに天井を仰いだ。


「っ、母さん、覚えてる?」


 エリクが語り掛けた途端、一叶の中にも流れ込んでくる光景と感情――。


『天使みたい』

 医院長がエリクを生んだとき、その小さな手を握って泣いたこと。


『さすが私の息子ね』

 小さいエリクが医院長の聴診器に興味を示したとき、愛おしく思ったこと。


『僕、医者になりたい』

 高校生のエリクがそう打ち明けたとき、

『甘くないわよ』

 厳しく接したけれど、本当は嬉しくて仕方なかったこと。


『よくやったわ』

 国家試験に受かったとき、お祝いに聴診器を贈りながらエリクを誇りに思ったこと。

 エリクと医院長が紡いできた思い出は、どれも温かい。


「いつだって、そばにいる。母さん、つらいときこそ、幸せな時を思い出して!」


「ああ……あぁ……うう、あ……エリ……ク……」


 虚ろだった医院長の瞳に光が戻り、ぱさりと白衣が落ちた。医院長の流した涙に浄化されたかのように、白衣は赤から白に戻る。


「エリク!」


 和佐の声がして、駆けつけてくれた皆の足音が聞こえる。


「覚えてるわ……全部……っ、私の……エリク……」


 エリクを抱きしめ、医院長は静かに泣いていた。


「なにが……どうなってんだ?」


 駆けつけた和佐は、エリクと医院長を見て目を瞬かせる。


「魚住、遅くなってごめん!」


 翔太と京紫朗がそばにやってくる。


「エレベーターが止まったり、階段のドアが開かなかったり、いろいろ足止め喰らって……」


 きっと、魔巫女の力が働いたのだろう。


「水色さん、気分のほうはどうですか? 怪我はしっかり手当てされているようなのですが」


「大丈夫……です」


 その答えを聞いて、京紫朗と翔太は安堵の表情を浮かべた。


「医院長は正気を取り戻してるみたいだけど、これで終わったのかな」


 翔太は医院長たちを見ながら言う。


「たぶん、もう平気だと……思う」


 一叶が断言したことに驚いたのか、翔太と京紫朗は少し驚いた様子で目を見張っていた。


「マミコって、結局なんだったんだろうね」


 翔太の問いに、医院長や和佐もこちらを見る。


「……それはね」


 一叶は魔巫女がどうやって生まれたのか、この場にいた皆に話して聞かせた。

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