4章 笑顔の裏側⑨


 医院長が正気を取り戻してからというもの、魔巫女はぱったり現れなくなった。


 魔巫女に応えてしまった被害者たちは、焼印と共に正気を失ったきっかけ――自分がなぶり殺されたことを忘れてしまっており、覚えているのは恐ろしい体験をしたという大まかな事実だけだった。


 医院長は一度、統合失調症と診断されたものの、最大のストレス源であった魔巫女から解放されてから、妄想症状を訴えることもなくなったため、霊病科では霊病であったと結論を出したのだが、牟呂もその診断には肯定的だった。


 とはいえ、霊病につけ入れられる隙があったのは日々、女性の生きづらさや重役ゆえの仕事のストレスを抱えていたからだ。そのストレスによって引き起こされた不眠や不安障害に対しては、薬物療法を継続するようエリクと牟呂に説得され、医院長も素直に受け入れた。


 医院長も他の被害者同様、なんの後遺症もなく日常生活に戻っている。


 非常階段から落ちた一叶はというと、検査の結果は良好で頭にも異常はなかった。ひと月経った今では痕は残っているものの、傷はしっかり塞がれている。


 一叶が怪我をしたと聞いた暮時は、朝一番に霊病飛んできてくれた。


『佐々木ちゃんが正気を取り戻せたのは、魚住先生たちのおかげです。本当にありがとうございます! でも、危険な目に遭わせてしまって……本当にごめんなさい……!』


 喜んだり泣いたりと忙しない瑞穂に、霊病科の空気も和んだ。改めて、彼女が助けを求めてきとき、保身に走って逃げなくてよかったと思う。


 そして一叶は今、白衣の上からコートを羽織り、オカルトメディカルチーム全員で病院の裏手に来ていた。


 新たに建てられた【マミコ】と書かれた墓標の前で、エリクと医院長は手を合わせる。


「僕たちの先祖がしたことは許されることじゃない。本当に申し訳ございませんでした」


 祈りを捧げるふたりの姿を、他のオカルトメディカルチームの面々と共に一歩下がったところで見守った。


「立派な墓標ですね、医院長」


 医院長は京紫朗を振り返る。


「これで解決ってわけにはならないでしょうけれど、その罪を背負っていくことを、私のあとに医院長になる人間にも、ここで誓わせるわ。そうして供養をし続けるしか、私にできることはないから」


 不思議なことに、皆が忘れてしまった死の記憶を医院長と一叶だけが覚えていた。京紫朗曰く、一叶は霊感があるからだそうだ。医院長に関しては、自分たちを死に追いやった一族の者への恨みが強すぎて、残ってしまったのだろうと。


「どうして女医院長にだけ魔巫女は危害を加えるんでしょうね。発端になった初代院長は、男だってのに」


 和佐は腑に落ちないというふうに首を傾げる。


「たぶん、波長が合ったのかも……」


 翔太や和佐、そしてエリクは不思議そうな顔をしていたが、京紫朗は一叶の言わんとすることを察したらしい。


「如月の人間に報復したくても、霊は生者の世界で好き勝手ができません。自分の力を強めてくれる負の感情を持つ者のそばにいるか、もしくは憑依して動かし、事を起こします。魔巫女に選ばれた人たちは全員女性でしたし、性別が近いだけでも力を使うのに相性がよかったのでしょう」


 医院長は魔巫女にされた女たちに思いを馳せるように、墓標に向き直る。


「彼女たちは男に力づくで抑えつけられ、酷い目に遭ったのよ。力でも立場でも勝てない無力感と悔しさっていうのは、同じ女でなければわからないわ。いまだに、その性別の違いゆえの苦しみが消えない限り、魔巫女は何度でも蘇るでしょうね」


「そうですね、魔巫女は人間が起こした疫病みたいなものですし、また現れるかも……」


 あの追体験の中で、一叶は魔巫女に恨みを晴らしてほしいと本気で思った。犠牲になった女たちの数は多く、彼女たち全員の憎しみが晴れる日は来ないかもしれない。そうなれば、未来永劫この疫病は続く。


「それでもいいわ」


 医院長は、どこか吹っ切れたような物言いだった。


「もう声が聞こえても動じない。むしろ私は、その声に耳を傾けなければいけない立場の人間よ」


 人間の世界から恨みや憎しみが消えないように、その二つの感情から生まれた魔巫女も消えない。だから、わかろうとしてはいけない。彼女たちに同情して距離が近づけば、影響を受ける。それが付け入られる隙になる。けれど――。


「一生忘れてはいけない、如月が背負うべき罪と捉えて、魔巫女の存在を私の中に置き、生きていくわ。二度と同じ過ちを繰り返さないように後世に伝えていくのが、これから医院長になる者たちの使命なのよ」


 こちらを振り返った医院長は、強気な笑みを口元に湛えている。心の持ちようで、恐怖は強さになるのだと、医院長の存在が体現していた。


「やっぱり、エリクのお母さんだね。めっちゃ前向き」


 小声で耳打ちしてくる翔太に、一叶も「そうだね」と小さく笑う。


「そういえば、どうして『魔巫女』ではなくて、『マミコ』と墓標に刻んだんですか?」


 マミコが名前ではないことは、医院長も追体験の中で知ったはずだ。


「彼女たちは私たちの名前を呼ぶけど、私は被害にあった彼女たちの名前を誰ひとりとして知らないわ。だから、墓標に名前が刻めなかった」


「あ……」


 牢の中にいた、名前も知らない彼女たちの顔が次々と頭に浮かぶ。


「彼女たちの蔑称である魔巫女と刻むのはどうかと思うし、保身のために患者を犠牲にするのではなく、患者のために己を捧げる。医者の本分を思い出させてくれる彼女たちを敬意を込めて呼べるように、名前らしいマミコと刻むことにしたのよ」


「素敵だと思います」


 一叶たちは改めて、墓標を目に焼き付けた。やがて、医院長が踵を返す。


「そろそろ戻るわよ。仕事が山積みだもの」


 エリクはそのあとを追いかけ、横から医院長の顔を覗き込み、念を押す。


「母さん、いろいろほどほどにね。何事も根を詰めすぎると、早くエンジン切れになっちゃうよ」


「わかってるわ。……あ、そうだ」


 何かを思い出したかのように足を止めた医院長は、一叶たちを振り返る。


「霊病科は必要よ。あの注意書は取り下げて、今後は積極的にコンサルするように通達するわ。だから、馬車馬のように働いてちょうだいね」


「これはこれは、感謝します、医院長」


 京紫朗が頭を下げると、医院長はふっと笑い、颯爽と院内に戻っていく。その背を見送りながら、翔太はげんなりとした顔で一叶に寄りかかった。


「え、さりげなく、死亡フラグ立った?」


「また、忙しい霊病科に逆戻りだね」


 一叶は苦笑いしながら、皆と院内に向かって歩き出す。


「あーあ、あの注意書出てから、ばんばんHILARIOUSに飲みに行けてたのによ」


「え? ばんばん行ったの? みんなで? ズルいよ!」


「あ? 知らねえよ。そもそも、てめえのママが働くなっつったからだぞ。飲むしかねえだろ」


 がやがやと騒ぐ皆を、一番後ろを歩く京紫朗が微笑ましそうに眺めている。


 欠けていた仲間が戻ってきて、やっと平和な日常が帰ってきたのだと実感した。

 正面玄関を通って外来に入ると、エントランスにある待合席には診察待ちの患者がたくさん座っていた。その前を通ったとき――。


「イ・チ・カ」


 名前を呼ばれた気がして、どきりとしながら足を止めた。聞き覚えのある女の声だった。


 魔巫女の一件があってから、日が浅いからかもしれない。一叶は前を向いたまま、振り向くことができなかった。


 鼓動がどくどくと脈打ち、呼吸が浅くなる。待合席のほうで、黒い靄がワンピース姿の女のシルエットになっていくのを視界の端で捉えた。女は席からゆっくりと立ち上がり、すううううっとゆっくり滑るように迫ってくる。


「……ぁっ、あ……」


 恐ろしさで、ちゃんと声が出ない。ぶわっと全身に汗が吹き出し、小刻みに震える。やがて女は一叶の真横で止まり、頭を傾けた。


「ひっ、あっ、あ……!」


 すううううっと、その顔が一叶の正面に回ってきて、呼吸が乱れる。そして、女と目が合った瞬間、一叶は驚愕した。


 のっぺりとした目だけがある黒い女。他の顔のパーツが一切なく、お前を見ているぞと言わんばかりの眼力で、一叶を凝視している。瞳には光がなく、底なしの闇に引きずられそうになったとき、その口がパカッと開いた。


「ウラギリモノ」


 ガッと冷えた両手に首を掴まれ、骨が砕けそうなほど締めあげられる。一叶は「ぐうっ」と呻きながら床に倒れた。


 どこからともなく悲鳴があがり、仲間たちが自分の呼ぶ声がする。だが、ひどく身体が重くて、一叶は力尽きるように目を閉じた。


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