3章 呪いと共に⑦

 手袋やガウンを清潔なものに替え、内視鏡室に戻ってくるや否や、和佐を振り返った先輩フェローが口端を上げた。


「なんだ、恥晒しに戻ったのか。何度やってもどうせ、うまくいくわけがないのに」


 和佐はふっと笑うと、先輩フェローは不愉快そうに顔を歪める。


「なにが可笑しいんだよ」


「どっかで聞いたセリフだと思ってな」


 もうひとりの自分がかけてきた呪いの言葉を、和佐はもう恐れていない。そんな彼の姿を見て、自分も強くなりたいと、母の姿を思い浮かべながら思った。


「先輩、俺はどんなに惨めだろうと仕事はやめねえよ」


 先輩フェローは、ぴくりと頬を引きつらせる。


「一度、駄目になってよかったと思ってる。きっとこれからも、挫折する瞬間が来るんだろうな。けど、それでいい」


「なんだよ、負け犬の遠吠えか?」


「あんたらみてえに、ならねえからだよ」


 先輩フェローは「なんだと?」と、今にも飛びかかりそうな形相で和佐を睨みつけた。


「真剣に向き合ってた仕事じゃなきゃ、挫折することなんてねえんだよ。挫折を感じる前に、自分に都合のいい理由をつけて逃げるからな」


 それは自分の力を過信して患者に不利益な治療をしておきながら、平静とうまくいかないこともあると言い訳をした執刀医や患者よりもライバルの失敗を嘲笑うことにしか能がない同僚に対しての皮肉だった。


「組織に所属してようが、人として腐っちゃならねえ部分ってのがあんだよ。俺が医者を辞めるのは、その部分を曲げなきゃならねえときだ」


 先輩フェローは「いきがってんじゃねえよ」と吐き捨てるように言い、内視鏡室から逃げていった。


「どっちがだ」


 先輩フェローの背を見送っていた和佐に、京紫朗は満足げに声をかける。


「答えは出たようですね」


 和佐は京紫朗に向き直り、「はい」とまっすぐな眼差しで告げた。


「初めは誰かを見返すためでも、それで赤鬼くんが頑張れるのなら、それはそれでよかったんです。ですが、それではいつか限界がくる」


「そうですね。意地でこだわって、ひとつの場所にしがみついていただけの俺は、ただ足踏みしてるだけでどこにも進めてなかった」


「ですが、そこから得るものもあったでしょう?」


 目を見張る和佐の隣で、一叶もなぜかどきりとする。


「舵を切るために必要な停滞もあるんです。自分の目標を見つめ直し、誰かに歩かされている道ではなく、自分の道を歩いてください。その先には、きみたちにしか見えない別の景色があるはずです」


 自分の目標を見つめ直す……。一叶は母親に言われて医者になった。今はなってよかったと思うが、病理医のほうはどうだろう。誰かに歩かされている道ではなく、自分の道を歩けるとしたら。


(私が見る景色は、どんなだろう)


 すごく魅力的な可能性に思えた。


「はい。仕事は過去の自分を評価してもらうためにやるんじゃなくて、未来に価値を創り出すためにやっていくんだ。自分の視野の狭さがよくわかった。だから俺は、七海を助ける」


 和佐の視線がこちらに向き、一叶もこくりと頷く。そんな一叶たちを、京紫朗は微笑ましそうに見守っていた。


「俺の予知では、こいつの中から出てきたアニサキスは外に出た段階で爆発して、その体液で俺たちも感染して死ぬ」


 和佐が患者を左向きにし、抑制帯で固定する。


「摘出してすぐに死滅させないといけないですね」


 一叶は呼吸や血圧がチェックできるモニターや、酸素吸入を行うための酸素ボンベと酸素マスクを準備する。セデーションで使う静脈麻酔は人によって効き方が変わるため、生命維持に必要な身体機能が抑制されてしまうケースがあるからだ。


「結局、力技になっちまうな。相手の出方がわかってんだ、向こうより素早く動いて、摘出した瞬間に俺が握り潰してやるよ」


 和佐は七海の後ろに立ち、その口を開かせる。


「現状、呪いを相殺できるのは赤鬼さんだけですから、やるしかありませんね」


 京紫朗は咽頭麻酔の入ったスプレーを七海の喉に吹きかけた。


「九鬼さん」


 一叶は和佐にトレイを近づける。和佐はトレイの上のアルコール綿で患者の腕を消毒すると、今度は点滴針を手に取り、素早く点滴に繋ぐ。


 セデーションをかけて二分くらいして、七海は眠りについた。


「よし、始めるぞ」


 和佐は七海の口からスコープと呼ばれる細い管を入れる。皆でモニターを見ていると、スコープは胃に到達する。


「おいおい……いやがったぞ」


 直径三センチほどの黒いアニサキスが胃粘膜に噛みついている。


 一叶は和佐の半歩後ろに立ち、鉗子操作の補助に入った。彼の持っている内視鏡の鉗子口から処置具を挿入すると、先端部から鉗子を出す。


「掴みます」


 一叶は処置具のハンドルを操作し、鉗子でアニサキスを挟んだ。


「よし、出すぞ」


 和佐がスコープをゆっくりと引き抜き始めると、京紫朗が内視鏡室の外へ出すまいとドアの前に立った。いざとなれば、その身を挺して呪いが外へ出るのを食い止める気なのだ。


 七海の口の中から、それがいよいよ出てくる。一叶たちはごくりと喉を鳴らした。


『シャーッ!』


 鉗子に挟まれ、悶える黒いアニサキスが姿を現す。


「魚住! スコープを頼む!」


「はい!」


 一叶が内視鏡の本体を受け取ると、和佐は迷わず鉗子ごとアニサキスを握り潰そうとした。


『呪ウ……呪ウ……次ハ、オ前タチ……ギャハハハハハッ……ウグッ……ウッ……』


「くそっ、頑丈だな……っ」


 鳴き声は小さくなっていくが、抵抗しているのか、和佐がかなり力を入れているのにも関わらず、潰れない。


 なんとなく、胸騒ぎがした。


「松芭部長! すみません、これを!」


 京紫朗はすぐにこちらへやってくると、持っていたスコープと鉗子を代わりに持ってくれる。一叶は壁際の棚を開け、酸素マスクが入っていた袋を手に取ると、中身を出して、急いで和佐の元へと戻る。


「ぐ……っ、さっさとくたばりやがれ!」


『皆、死ヌ……アハ!』


 和佐が渾身の力で握り潰そうとすると、最後の悪あがきとばかりに、黒いアニサキスはぶちゃっと和佐の手の中で潰れるや、手の中に納まりきらないほどの真っ黒な液体を溢れさせた。


 一叶はすかさず袋を広げ、和佐の手をそれで包み込んだ。間一髪、それは中でびちゃあっと粘着力のある液体を撒き散らす。


 一叶は和佐の手袋ごと袋をゆっくりと下げ、急いで口を縛った。真っ黒に染まった袋を見つめていた一叶たちは、同時に顔を見合わせる。


「お前、やるじゃねえか! 案外、度胸あんだな!」


 和佐が腕を首に回してくる。


「九鬼さん! 危ないっ、持ってる袋、落としてしまいます!」


 一叶は爆弾を持っているようなものなのだ。ひやひやしている一叶と、楽しげな和佐を京紫朗は微笑ましそうに眺めている。


「お、なになに? ふたりともいつの間に、そんなに仲良くなったの?」


 陽気な声がして、和佐と内視鏡室の入り口を振り返ると、エリクが手を振っていた。


「内視鏡でも目視で確認しましたが、呪いの根源が七海ちゃんの身体の中に残っていないか、黄色くんに確認してもらうために私が呼んだんです」


 京紫朗がPHSを掲げる。


「どれどれ、いないことを祈りつつ……パシャッと!」


 青い閃光と共にレントゲンに念写をしたエリクが、フィルムを見せてくれる。

「画像にはなにも映ってないみたいだよ」


「そうみたいですね。水色さん、このレントゲン写真に触れてみてください」


 一叶は袋を和佐に預け、恐る恐るフィルムに触れてみるが、なにも視えなかった。

「なにか視えたり、感じたりしますか?」


 一叶は首を横に振る。


「いえ、なにも……」


 和佐も七海に直接触れてみるが、以前のように呪い同士が反発し合うことはなかった。


「こっちも異常なしだ。もう呪いを撒き散らすことはないんじゃねえか?」


 京紫朗は「そうですか」と頷き、ふっと口元を緩めた。


「よくやりましたね、皆さん。それでは七海ちゃんは、リカバリールームに移動を」


「それなら僕が連れていくよ」


 七海をストレッチャーに乗せると、エリクは内視鏡室の外にいた看護師の手を借りて、七海を運んでいく。


「それからその危険物は焼却炉で焼却してしまいましょう。体液の一滴も残らないように」


 京紫朗の視線を追って、黒いアニサキスだったものが入った袋に目をやった一叶と和佐は、同時に頷いた。




 他にやることがあるらしい京紫朗とは途中で分かれ、一叶と和佐は「失礼します」と、光子と翔太が待っている面会室を訪れた。


「七海ちゃんの胃にあった呪いの根源は無事に除去できました」


「あらもう? それで娘は?」


「今は鎮静剤の影響で眠っていますが、すぐに目を覚ましますのでご安心ください。それまではリカバリールームで全身状態をチェックしながら、一時間ほど休んでいただきます」


「そう、それなら顔が見たいわ」


「あ……申し訳ありません、それは……」


 母親が蟲毒を娘で行った以上、会わせることはできない。そして蟲毒を証明することはできなくても、虫を食べさせたという証拠があれば行政も動かせる。


「それはできません」


 言い淀む一叶の代わりに答えたのは、京紫朗だった。彼の後ろには梓と警官、それから児童養護施設の女性スタッフもいる。


「どういう意味? それより、そちらの方々はどなた?」


「俺は刑事だ。娘に虫を無理やり食わせた強要容疑で逮捕する。証拠もあがってる」


 梓が前に出ると、光子は目を尖らせた。


「証拠って……まさか病室のモニター!? 騙したのね!」


 京紫朗を睨みつける光子に、梓はため息をついた。


「おいおい、娘を助けてもらっといてそれはねえだろ」


「うるさい! どうしてみんな、私の邪魔すんのよ!」


 どこかで聞いたことがあるセリフだなと、記憶を手繰り寄せる。


『俺は外科医になりたいんだ! なのにどうして、邪魔ばかりすんだよ!』


 霊病科に来たばかりの頃、和佐が言っていたのだ。

 和佐も自分の言葉だと思い出したのだろう、苦り切った表情をしている。


「あなたたちも夫と一緒ね」


 ――バチンッ!

 光子は自分の頭を叩きながら言う。


「おかしなことにばかりに時間をかけないで、育児と家事だけしてろって。私の能力を認めたくなかったのよ」


 一点を見つめて、何度も何度も自分の頭を叩く光子の姿に、皆が気圧されていた。


「ああ、夫だけじゃなかったわ。私をテレビで見てた連中も、だんだん霊視がありきたり、誰でも想像できることを言ってるだけとか、インチキ霊能力者だって騒ぎ立ててきて、仕事もめっきり減ったわ!」


「そんで自分の力を証明するために、娘で蟲毒をしたってか?」


 厳しい表情で自分を糾弾する梓を、光子は敵意剥き出しの目で見返す。

 そんな光子の前に座っていた翔太は、小さく息をつくと、静かに切り出した。


「……あなたは自分を見て欲しかったんだ」


 光子の瞳が微かに揺れた。


「自分が特別な存在にならなければ、病気の人間に献身的に尽くしていなければ、誰も私を見てくれない。そうやって自分を追い詰めて、日々を過ごしてる。それが代理ミュンヒハウゼン症候群、あなたの病気です」


「私が……病気?」


呆然とする光子の腕を梓が掴み、椅子から立たせる。


「ほら、行くぞ。詳しくは署で聞く。そのあと、あんたは適切な治療を受けることになるだろうな。子供は児童相談所のスタッフが一時的に保護する」


「っ、私はまともよ! 呪われたのは娘なの! 私の力を妬んだ連中に!」


 暴れる光子を、もうひとりの警官が「こら、暴れるんじゃない!」と反対側の腕を掴んで押さえた。


 引きずられるようにして部屋の入り口に向かう光子の背に、和佐が声を掛ける。


「呪われてんのも、呪ってんのも、あんた自身だよ」


 光子は「はあ?」と和佐を振り返る。


「誰からも関心を向けられてないって自分を追い込んで、その理由が自分自身にあるとは認めたくねえから、あんたは自分を妬んだ連中が呪ったんだって思いたいんだろ」


「知ったような口、利かないでちょうだい。全部的外れなのよ!」


「図星だから、そんなふうに逆ギレすんだろうが」


 和佐自身もそうだったから、光子の考えが嫌というほど理解できてしまうのだろう。


「いいから娘を返して!」


「いい加減に、目を覚ませ。ちゃんと治療して、今度こそ気づけ、他の人間はどうか知らねえが、娘はちゃんとあんたを見てたってことに」


 光子は反論しようと口を開いたが、和佐の言葉が的を射ていたからだろう。結局なにも言い返せず、連行されていった。

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