3章 呪いと共に⑥

「ねえ、お母さんっ、もう嫌だよ……んぐっ」


 病室に駆けつけると、光子が嫌がる七海の顎を掴み、スプーンを口に突っ込んでいた。光子の手には大量の虫が入ったタッパーがあり、さっと血の気が引くのを感じた。


「まさか……!」


 和佐の言葉の先は、皆が容易に想像できた。それを娘に食べさせたのか? と。


「クソが!」


 和佐が駆け出し、光子を押し退ける。


「きゃあっ、なにするのよ!」


 光子は床に尻餅をつき、和佐を睨み上げる。だが、和佐は光子を気にも留めず、七海の口に手を突っ込んだ。


 ――バチッ!


 和佐が七海に触れた途端、何かが弾けるような音がしたが、看護師のときのように心停止する様子はない。


 和佐は七海が口に入れた虫を指で掻き出すようにして吐かせた。


「おえっ、けほっ、はあっ……お兄……ちゃん……平気?」


 青ざめた顔をしながら、自分を心配そうに見つめる七海に、和佐が奥歯を噛みしめたのがわかかった。


「……っ、こんなときくらい、ガキは自分の心配をしてればいいんだよ!」


「でも……」


「でもも、へったくれもねえ。俺は平気だ、お前と同じで呪われてるからな。呪いが相殺されるらしい」


 皆、和佐が秘めていた事実に驚きを隠せなかった。今の今まで忘れていたが、確かに和佐は七海に二度も触れたというのに、呪われた様子がない。


 七海は「そう……さい?」と首を傾げる。


「ああ、悪いもん同士がぶつかって消えちまうってことだ」


「そっか……そっか」


 七海は口元に微かに笑みを滲ませ、和佐の胸にぴとりと頬を預けて目を瞑った。


「へへ……なんか、びりびりするけど……あったかい」


 ふたりが触れ合った場所で、黒い靄がバチバチと音を立てながら、ぶつかり合っているのが視える。


「久しぶりに触れた体温だったんだな」


 隣を振り向けば、翔太の頬を涙が流れていた。きっと、七海の感情に触れたのだ。


「私……みんなはお母さんの力を信じてないけど、呪いとか、霊とか、本当にあるんだって証明したかっただけなの。誰かが死んじゃうなんて、思っても見なかった。


「ああ」


 和佐は辛そうな声で相槌を打つ。


「私……これで十分だよ」


「なにがだ」


「雄くんを殺しちゃったから、私も死なないといけないよね?」


 和佐を見上げた七海は、眉を下げながら微笑んでいた。その表情を目の当たりにした和佐は、ぎりっと奥歯を鳴らす。


「死にたくねえって顔しながら、なに言ってやがんだ。ガキは素直に甘えたこと言ってればいいんだよ」


 七海は「うっ」と嗚咽を漏らし、瞳いっぱいに涙を溜めていく。やがて――。

「死にたく……ない」


 七海の頬に透明な雫が伝う。それは掠れるような声で吐露した、七海の濁りのない真っ新な想いに見えた。


「死にたくないよ、先生……また、こうして誰かに抱きしめてほしい。助けて……」

 縋るよう手を伸ばす七海の手を、和佐はしっかりと握った。


「ああ。手は尽くす」


「治すって言ってくれないの?」


「絶対なんてねえからな」


 七海は目を丸くしたあと、小さく笑った。


「そこは普通、嘘でも大丈夫っていうものじゃないの?」


「言えねえよ。お前は馬鹿じゃねえだろ。頭がよく回る。だから本当のことを言ってんだ。駄目でも抱えて生きていくしかねえんだと思う。お前も、俺も」


 あとのほうは抽象的で、和佐がなにを指して言っているのか、一叶にはわからなかったが、七海は真剣に耳を傾けていて、意味が通じているようだった。


 和佐は七海の頭に手を乗せた。


「できるかぎりのことはしてやる。だから、お前になにが起こってるのか、聞かせてくれるか」


 七海は唇を引き結び、やがて心を決めたかのようにまっすぐに和佐を見つめる。


「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエル、ミミズ……丸吞みさせられたの……お母さんに」


 そうではないかという予感はあったが、子供の口から聞くには衝撃が強いひと言で、皆が絶句した。


「ヘビを丸吞みって……」


 頬を引きつらせるエリクに、翔太は特に驚いた様子もなく答える。


「スナボアとか、手のひらサイズの蛇とかいるし、できるんじゃない?」


「詳しいね」


「前にゲームで、いろんな蛇をコレクションして戦わせるゲームやってて知った」


 翔太とエリクが小声で話していると、光子が声を張り上げる。


「ちょっと! 嫌だわ、うちの子、なに嘘ばかり言って――」


「娘さんを助けるためのおまじないですか?」


 京紫朗はにこやかに光子の声を遮った。


「え? ええ、ああそうなの。呪いの進行を遅らせるために、食べさせた昆虫や爬虫類に身代わりになってもらってるのよ」


「なるほど、お母様の案でしたか」


「ええ、そうよ」


 京紫朗が快く光子に断言させたので、あとで動画の映像を提供すれば虐待の証拠になるだろう。


「呪いの根源それは腹ん中にあるってわけか。直接、腹を触れば呪いが相殺するかもしれねえ、ベッドに横になれ」


「うん」


 和佐に言われた通り、七海は仰向けになった。和佐が服を捲ると、七海の腹部には斑点がある三角形の連続する蛇の鱗のようなものが縄のように行き交っており、他にも多くの体節と足、触覚を模したような黒い痣が胸元まで至っていた。


「なっ……外来の診察室ではこんな痣、なかったのに……これ全部、呑み込んだ昆虫たちの……?」


 ――カサカサ……シュルシュル……ズブリ。


 その痣が七海の身体を這うように動いている。そのたびに皮膚の表面が盛り上がり、一叶は口元を手で覆った。


「……今にも……皮膚を食い破って、出てきそう……」


 エリクは「ちょっと待ってよー」と言って、レントゲンフィルムを七海の腹部に翳し、青い閃光を放って念写する。


「これ見て。小一時間前はたくさんいたはずの昆虫たちがいない。その代わり、一匹のアニサキスみたいなシルエットになってる」


 エリクの持っているレントゲン写真には、直径三センチほどの細長い形をした黒い影が映っていた。


 ふと、一叶は霊病医学書で見た霊病の原因のひとつを思い出していた。


蟲毒こどく……?」


「それって昔の呪術だよね」


 翔太の質問に答えたのは、霊病科の仕事に否定的だった和佐だった。


「らしいな。蟲毒に使われる代表的な百虫はヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルだ。それを同じ容器で飼育して共食いさせて、勝ち残ったものを干して磨り潰して粉末にしたものを呪いたい人間の食事に混ぜるかして呪い殺す。そんで呪い殺した人間の財産を家に持ってくるとかなんとかって書いてあったな」


 一叶が読んだ霊病医学書の一節と同じだった。和佐も呪い持ちだからなのか、あれを読んだらしい。


「このレントゲン写真を見る限り、七海ちゃんのお腹の中にいた昆虫たちがひとつになった……ってことなのかな?」


(信じたくはないけど、もしそうなのだとしたら、七海ちゃんは……)


 和佐は嫌悪を隠しもせずに母親を睨みつけ、一叶の考えを代わりに口にした。


「七海は蟲毒をするための百虫の器だ」


 和佐の視線で責められていると思ったのだろう。光子はくわっと噛みつかんばかりに反論する。


「毒を以て毒を制すとも言うでしょう! 今回は向こう側の毒のほうが強かっただけだわ!」


「この期に及んで……!」


 和佐が食い下がろうとしたとき、七海が少しだけ上半身を起こした。だが、先ほどよりも顔色が悪い。


「お母さん……そう、だね……お母さんは……すごい、霊能者……だよ……うっ、うう……っ」


 七海が腹を押さえて苦しみ始める。「七海ちゃん!」と皆が叫ぶ声と、光子の「七海…?」と困惑する声が入り混じる中、和佐は七海の肩を掴んだ。


 ――バチンッ!


 これまでも強い反発が起こり、和佐は舌打ちをしながら痛みに顔を顰めた。


「おい、しっかりしろ!」


「シャーッ、ゲロゲロッ」


 七海まるでヘビやカエルのような鳴き声をあげ、先の割れた長い舌を垂らし、ベッドから飛び降りる。そして腹這いになったかと思えば、手足をもぞもぞと動かし、まるでムカデやゲジのように地面を動き回る。


「緑色くんはドアを、黄色くんは窓を閉めてください!」


 翔太とエリクがすぐさま施錠に走り、京紫朗は壁に寄せてあったストレッチャーを運びながら和佐に指示を飛ばす。


「赤鬼くん、七海ちゃんをストレッチャーに乗せてください」


「……! わかりました」


 和佐は暴れる七海を抱え、ストレッチャーに乗せる。一叶はストレッチャーの固定ベルトを手に取り、七海に触ることができる和佐に渡した。


「なんで急に、こんなことに……もしかして、最後の一匹になって蟲毒が完成したんでしょうか?」


「そうでしょうね。さっきまでは接触感染だけでしたが、今後呪いの勢いがどうなるかわかりません。早く七海ちゃんの中にいる呪いの根源を取ってしまわなくては。水色さん、至急で内視鏡室を開けてもらえないか、連絡をお願いします」


「わ、わかりました!」


 PHSを胸ポケットから取り出し、耳に当てる。


「赤鬼くん、呪いを相殺できるのはきみだけです。処置に入れますか?」


 和佐は張り詰めた表情をを浮かべていたものの、意を決した様子で「はい」と答えた。




 京紫朗の指示で、一叶は和佐の補佐に入ることになった。内視鏡検査の間、翔太が光子の監察をして、エリクは一時的に内視鏡に繋がる通路を封鎖するためにスタッフや患者へ呼びかけを行っている。


「シャーッ」


 一叶は九鬼と京紫朗と共に、ストレッチャーで七海を内視鏡室前までへ運んできた。すると以前、廊下ですれ違った際に和佐に突っかかってきた外科医の先輩フェローと鉢合わせる。


「俺の患者の順番を後回しにしてまで受け入れてほしい患者がいるって連絡があったけど、まさかお前んとこのだったとはな」


 よりにもよって、彼の患者が先を譲ってくれたとは。これ以上のわがままを言えるような状況ではないとは思うが、あとでまた面倒なことになりそうだ。


「俺の患者を後回しにしたんだ、失敗すんなよ」


 ニヤニヤする先輩フェローに、和佐の眉間に深いしわが刻まれる。


「で? その子が患者?」


 ヘビやカエルのように鳴いて、自分を威嚇する七海に彼は露骨に顔を歪めた。

「うわっ、精神科にコンサルしたほうがいいんじゃないか?」


 和佐はいつものように言い返したりはしなかった。七海のために、内視鏡室を譲ってくれたことは間違いないからだろう。


 黙っている和佐に対して言いたい放題の先輩フェローに、京紫朗は微笑したまま告げる。


「いつまでここで話を続けますか? この間も患者は苦しんでいます」


「……! えと、松芭先……部長でしたっけ。急いでるなら、その患者のアニサキス、俺が除去しますよ。そいつよりも早く終わらせられますよ」


 苛立ちを隠しきれない様子で、自信満々に意見する先輩フェローに、京紫朗は「おやおや」と感心したような表情をする。


「それは素晴らしい。命を懸けてこの子を救ってくださるなんて」


「え?」


「聞いていませんか? この子に触れて心肺停止になった看護師の話を」


 京紫朗の満面の笑みを前に、先輩フェローは視線を彷徨わせる。


「え……いや、そんな馬鹿な……」


「では、試してみますか?」


 京紫朗は唇で弧を描いたまま、すっと目を細めた。その眼差しは冷たい刃物のように鋭く、一叶や和佐も圧倒される。


 先輩フェローは迷信と思いながらも試す気概はなかったようで、黙り込んでいた。


「わかりましたか? あなたでは、この患者に触れただけで死ぬんです。九鬼くんにしか、治療できないんですよ」


 和佐は目を見張り、唇にぐっと力を入れ、拳を握り締めたように見えた。


 先輩フェローは不機嫌そうな顔をして、道を譲る。


 ひと悶着はあったものの、一叶たちはキャップやガウン、マスクや手袋を装着して、患者を運んだ内視鏡室に入る。その瞬間、電気がチカチカと点滅した。


「どんどん呪いの力が大きくなっていますね、急ぎましょう」


 天井を仰いでいた京紫朗がこちらを振り返る。


 一叶たちは頷き、鎮静剤や鎮痛剤を使用して、意識レベルや痛みの感じ具合を低下させる静脈内鎮静法セデーションを行うため、点滴の準備を初めた。患者に触れられるのは和佐だけなので、彼が採血に使う翼状針よくじょうしんを手にし、いざ七海の血管に刺そうとしたのだが――。


「……っ」


 和佐の手が急に震え始め、一叶は心配になり声をかける。


「九鬼さん?」


「ぐうっ」


 苦しみだした和佐の腕から、あの黒い靄が漏れ出した。


「九鬼さん!」


 慌てて彼の肩に触れると、


 ――ガシッ。

 一叶の肩をなにかが掴んだ。


(え……松芭部長……?)


 そうだと思いたいが、心のどこかで違うとわかっていた。背筋が凍るような寒気がしていた。恐る恐る肩に視線を移すと、黒い手が一叶の肩を掴んでいた。


「あ……ああ……」


『ドウセ、ウマクイクワケガナイ。ホラ、見テ見ロ』


(この声って……)


 聞き間違いだろうか、いやでも……と肩の手から目を逸らせないまま一叶が思考を巡らせていると、


『よし、取れたぞ。これが蟲毒の源だ』


 和佐の声がして視線を前に戻せば、いつの間にか内視鏡手術が始まっていた。いつの間にか一叶も彼のそばでその介助をしており、和佐が内視鏡の先から鉗子を出して、蟲毒で生まれたアニサキスを取り出していた。


『ん? なんだ?』


 和佐が手のひらに乗せたアニサキスは、表面がぼこぼこと膨れ上がり、全体的に張り詰めていく。そして――。


 ――バンッ!


 爆弾のように弾け、黒い体液がその場にいた全員の皮膚に飛び散った。その飛び散った体液は肌の上でふるふると震え、また小さなアニサキスのような形になると、皮膚に食いついて中に入り込む。


『うわああああああああっ』


「いやああああああああっ」


 アニサキスは肌の下で這い回り、ぞわぞわと気持ちが悪い。それはやがて全身を刺すような痛みへと変わり、一叶たちは地面に倒れ込んで悲鳴をあげる。


(いやだ、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!)


 血が出るまで皮膚を掻きむしり、出そうとするもできずにもがき苦しむ。


(誰か、助け……)


 一叶は倒れたまま、手を伸ばす。しかし、腕の一か所がぶこりと盛り上がる。


「あ……ああ……いや、痛いっ……痛い……!」


 激痛と共に皮膚を食い破って、親指大のアニサキスが顔を出した。それは『ケケケッ』と確かにこちらを見て笑った。


「あ……あああああああああああっ!」


 喉が裂けんばかりに叫んだとき、ぱちっとシーンが切り替わるかのように見えていた景色が消えた。


「え……?」


 内視鏡室に響き渡っていた悲鳴もぱたりと止み、一叶は顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、ゆっくりと身体を起こす。すると、内視鏡室には一叶ひとりしかいなかった。


 内視鏡室の電気チカチカと点滅し始め、一叶は歯をカチカチと鳴らし、震えあがりながら辺りを見回す。そのとき、明かりが消えたタイミングで内視鏡室の角に人影が見えた気がした。


「……っ」


 目を凝らしてみれば、やはり明かりが消えるタイミングで、人影が見える。


「な、七海ちゃん……?」


 掠れた声で問いかけてみる。人影は明らかに七海だった。しかし、七海はなにも言わず、明かりが消えるたびにぺたぺたと歩き出した。


「ああ……こな、来ないで……っ」


 一叶は腰を抜かしたまま、後ろにあとずさる。

 電気の点滅は段々と早くなり、まるでコマ送りされているかのように、七海は小間切れにかくかくと不気味な動きをして、近づいて来た。


『アア、ウ、アア……』


 七海は呻きながらその場に膝をつき、腹を押さえる。苦しげに身を捩り、勢い良く後ろに仰け反ると、その腹がぼこぼこと盛り上がっていくではないか。


 恐怖に身が凍り、一叶は腹を食い破るようにして現れる墨汁のような色をした巨大なアニサキスが外へと生まれ出てくるのを眺めていた。


『アアアアアアアアッ!』


 まるでお産だった。七海はそのまま床に仰向けに倒れ、腹に大きな穴をあけたまま喋る。


『次ハ……オ前タチ……食ベテ……食ベテ……食ベテ……広ガッテ、終ワラナイ……ミンナ、死ヌ……死ヌ……死ヌ……死ヌ……死ヌ』


 呪詛のような言葉をまき散らしながら、七海は顔を上げた。


『アハ……アハハハハハッ……』


 血を吐きながら笑っている七海の姿に、頭は絶望一色に塗替えられていく。


「あぁ、ぁ……次は、私たち……」


「そこまでです」


 ぱんっと肩に手を置かれ、勢いよく振り返れば、京紫朗が苦笑していた。周りを確認すると、奇妙な光景を見る前の内視鏡室に戻っている。


「次は、私たち」


「……!」


 京紫朗の言葉に、心臓が大きく跳ねた。


「水色さんがそう呟いていました」


「あ……そう、あの……七海ちゃんが、言ったんです……次はお前たちだって。食べて……食べて……食べて……広がって、終わらない……みんな、死ぬって……」


 京紫朗と和佐が驚愕の表情を浮かべる。


「つーことはやっぱ、失敗するってことか。お前のそれ、霊視だろ?」


「失敗するかどうかは、わかりません。でも、九鬼さんの肩に触れたとき、九鬼さんが内視鏡で除去したアニサキスがぶくぶくと膨れ上がって、弾けて……その体液がついた皮膚にまた寄生して、身体中を這う映像が見えて……」


 和佐が強い力で一叶の肩を掴んだ。


「なんで俺の未来予知がお前にも視えてんだよ!」


「……え? 未来予知?」


 目を瞬かせると、和佐は一叶の肩から手を下ろし、視線を逸らしながら右の袖を捲くる。露わになった彼の腕を見て、一叶は息を呑む。肌は黒く変色し、一対の角を生やした骸骨の刺青のようなものがある。


「『どうせ、うまくいくわけがない。ほら、見て見ろ』、あの声が聞こえたあとに追体験した出来事は高確率で実際に起こりやがる。それも決まって最悪の未来リスクを予知したときに発動すんだ」


「じゃあ、あんな怖い経験を、九鬼さんは何度も……どうして、そんなことになってしまったんですか?」


「……呪われてっからだ。同期の生霊共にな。あいつらは、よほど俺を陥れたいらしい」


 和佐は底冷えするような笑みを浮かべていた。


(あいつら? でも、あのとき聞こえた声は……)


 一叶が思考の海に沈みそうになっていると、内視鏡室の扉が開いた。


「九鬼にしか治せない患者だっていうから、どんなもんか見てやろうと思ったのに……」


 先輩フェローは「はっ」と小馬鹿にするように笑った。


「結局、なにもできないんだな」


 和佐の肩がびくりと震える。


「仮にお前にしかできないことだったとしても、本人がこれじゃあ使い物にならないだろ。やっぱお前、医者辞めろよ」


「なっ……」


(九鬼さんのこと、なにも知らないせくに……)


 あの恐ろしい体験は、まるで本当の出来事のようで、一度経験した一叶もトラウマになった。そのトラウマを抱えながら、同じ出来事に向き合わなければならない恐怖がどれほどのものか、彼には一生理解できないだろう。


 和佐がいつも苛立っていた理由がようやくわかった。あの恐怖を抑えるためにはかなりの精神力が必要で、だからいつもピリピリと神経を尖らせていたのだ。


(本当にすごい人だな)


 あれだけの経験をしていながら、周りには怒りっぽい人なのかな、程度にしか感じさせなかったのだから。


 京紫朗は内視鏡室に入ってきた先輩フェローを一瞥し、呆れ気味にため息をつく。


「やれやれ、無知とプライドは恐ろしいですね。ここは呪いで汚染されているかもしれないというのに、自分には治せないと言われたのが相当腹に据えかねたようですね」


 自分が馬鹿にされたと思ったのだろう、先輩フェローは顔を真っ赤にする。


「……! 俺はそんなんじゃ――」


「……っ、てめえは出てけ。治療の邪魔だ」


 和佐に言葉を遮られた先輩フェローは、もはや笑う余裕すらなく、相手を痛めつけたくてしょうがないとばかりに辛辣に返す。


「おいおい、今にも出ていきたそうな顔してんのはお前だろ。呪いとかなんとか言ってるけど、霊病科って無能な医者を左遷するためのゴミ科なんじゃねえの?」


「い、いくらなんでもっ……」


(上司の松芭部長もいるのに、失礼にもほどがある!)


 さすがの一叶も抗議の声をあげてしまった。


「研修医の中じゃできるやつだっていわれてたのに、ここまで堕ちるなんて、俺なら耐えられなくて死んでるわ」


「くっ……こんな呪いさえなければ、俺だって今頃、てめえよりもいい外科医になってたんだよ!」


「は? 負け惜しみか? しかも、ぷっ……なにかのせいにするにしても、呪いって……お前、早く転職活動したほうがいいよ。惨めな思いする前にさ。つか、俺がお前の立場ならそうするわ」


「……っ」


 和佐は持っていた注射器を床に叩きつけ、内視鏡室を出ていこうとする。


「本当に逃げていいんですか?」


 京紫朗の声に、和佐は足を止める。


「きみはなんのために医者をしているんです?」


 和佐は振り返ることなく、内視鏡室を飛び出していってしまう。


「九鬼さん!」


「今、七海ちゃんを救えるのは赤鬼くんだけです。水色さん、きみの水で彼の澱みを綺麗にしてあげてください。そうすれば、赤鬼さんは本当の自分を見つけられる」


 具体的にどうすればいいのかはわからないけれど、今まで京紫朗がくれる課題は、一叶を前進させてくれていた。だから、迷うよりも先に身体が動く。


「わかりました!」


 はっきりとそう答え、一叶は和佐を追いかけた。


 彼のことは内視鏡室前の廊下の途中で、すぐに見つけることができた。彼の心の迷いを表すように明滅する照明の下で佇んでいた。


「笑いに来たのか。いつも粋がってたやつが馬鹿にされてて、惨めだって、お前も笑うんだろ」


 足音で一叶に気づいたのだろうか、こちらに背を向けたまま和佐が話しかけてくる。


「……そんな、私は誰かを笑えるほど完璧な人間じゃないです」


 それに、彼が怯んでしまうのもわかる気がしたのだ。

 和佐が予知する前に聞くという『どうせ、うまくいくわけがない』という声。あの言葉は呪いだ。


『あなたは私がいないと、なにもできないんだから』


 一叶も母の口癖だったあの言葉を聞くと、余計なことをして間違えるくらいなら、やめてしまおうと思ってしまいそうになるから。


「はっ、てめえは根暗だからな。ま、今の俺はお前よりもクズだけどな。やさぐれて、八当たって、本当にクソだ」


「……、優柔不断な私からしたら、九鬼さんは判断力があって、すぐに行動できる優秀な医者だと思います。そんなに卑下することないのに……」


「……俺も、そう思ってたよ。同期の誰よりできてるってな。今思えば、どっから来るんだよ、その自信って感じだけどな」


 和佐は自分を嘲るように笑い、壁に寄りかかるようにして立った。


「二年目に入ったときなんて、少し仕事の勝手もわかってきて、それなりにうまくこなせた。これもできる、あれもできるって、なんか万能感みたいなのがあったんだよな」


「私は逆です。いつも自分なんて駄目駄目だって思ってしまいます」


 そう言いながら、一叶も少し離れたところで壁に背を預けて立つ。


「でもお前は、駄目になっても医者辞めなかったじゃねえか」


「え?」


 隣を見ると、和佐は床に視線を落としたまま続ける。


「さっきのやつが言ってたろ。研修医の中じゃできるやつって言われてたのに、ここまで堕ちるなんて、俺なら耐えられなくて死んでるわって。ほんと、そうだわって思った」


 和佐は自分の前髪を握り締め、その場にずるずると座り込む。


「理想の自分が高すぎると、あとで苦しむのは自分だってわかってんのに……けど、俺には、もうこのプライドしかなかった」


 一叶は自分の右腕に手を添えながら、和佐と同じように前の床だけを見て、話に耳を傾ける。彼は弱っているところを、できれば誰にも晒したくなかったはずだから。


「俺は誰よりも努力してる自信があった。なのに同期の連中は上司と先輩に取り入ることばかりに必死になって、可愛がられて……優先的に手術に入れてもらえて……でも俺は、実力で上に行ってやるって意固地になってた」


 群れるのも慣れ合うのも好きじゃない彼らしいと思う。意固地になってたところもあるのかもしれないけれど、純粋に実力を評価されたかったのも本心のはずだ。


「負けたくねえってプライドも、どんどん高くなっていって、穏便に仲良く足並みを揃えられない俺を、周りの連中は近寄りがたく思ってたんだろうな。俺も自分だけ優遇してもらえねえことに不満があって、やさぐれてた時期に……あれが起こった」


「あれ?」


 和佐は「ああ」と言い、執刀医のサポートのために手術に同期と入ったときのことを話し始めた。


 開腹手術の際、和佐は『誰よりもうまく、早く斬ってやる』と、いざメスを入れようとしたところで、自分を取り囲むように現れた人影に気づいた。その影は同期の研修医たちの声をしており、口々に『ドウセ、ウマクイクワケガナイ。ホラ、見テ見ロ』と自分を嘲笑ったそうだ。


 そのあと、和佐は初めて予知した最悪の未来を追体験した。手術前に検査したにも関わらず、いざ中を空けてみれば、明らかに切除できない範囲にまで腫瘍があることがわかり、本来であれば試験開腹しけんかいふく――閉腹して手術を終わりにするところだが、腕に自信がある執刀医はそのまま手術を続行した。


 無理な切除をしたことで免疫力を奪われたこと、中途半端に残った癌が勢いづいてしまったことが原因となり、患者は亡くなるという未来を見た和佐は、まさかと思いつつも開腹した。


 すると、先ほど体験した通りのことが起こった。和佐は、これはただの妄想でも考えすぎでもないと思ったそうだ。


『この手術は試験開腹にすべきです。抗がん剤などの別の治療を導入したほうが……!』


 手術を続行しようとする執刀医を和佐は止めようとしたが、


『研修医の分際で出しゃばるな!』


 その意見は聞き入れてもらえなかった。


「俺は患者に不利益しかないとわかっていながら、それ以上その手術に関わることはできなかった。執刀医から『うまくやる自信がないなら他のやつに代われ』って言われて、手術室からも患者からも逃げ出したんだ」


 そして手術室を飛び出した和佐は、そこでいつの間にかメスを握っていた右腕にあの骸骨の痣ができていたことに気づいたそうだ。


「そのあとは、俺の見た通りの結末になった。家族になんて説明したかは知らねえが、執刀医も俺の代わりに入った研修医も、手術で癌が取り切れない事例は珍しいことじゃない、それが再発したんだろうって言いやがったんだ」


 俯いた和佐は、後悔と悔しさに耐えるような表情をしている。


「研修医も執刀医に盾突いたうえに手術室から逃げ出した臆病者だ、エースの時代は終わったなって、俺を笑いもんにした。反吐が出そうだった。あんなやつらと仲間になれって? 冗談だろ」


 がんっと、和佐は後ろの壁を殴りつける。


「だから俺は、あんなやつらにもう負けたくねえってのに……」


 そのときふと、京紫朗が問いかけた疑問が一叶の中にもわいた。


「九鬼さんは……なんのために医者をしているんですか?」


 和佐は「あ?」とこちらを見上げてくる。


「あ、えと……今の九鬼さんは、なんだか……」


「んだよ、はっきり言え」


 催促する和佐の声に、いつもみたいな棘はない。


「は、はい。その……九鬼さんが手術室から逃げ出したのは、その患者さんを自分の手で傷つけたくなかったから……ですよね?」


「ああ」


「でも、今の九鬼さんは、馬鹿にされないようにって焦ってるような……ええと、医者が自分を認めてもらうための手段になってしまっていて、そこにあったはずの九鬼さん自身の想いとか、患者さんへの想いが見えなくなってるのかな、と……」


 和佐は意味を図りかねているようで、怪訝そうに首を傾げる。どうすれば伝わるだろうと思考を巡らせ、「あ!」と閃いた。


「九鬼さんは、お兄さんが刑事ですよね。どうして同じ刑事じゃなくて、医者になろうと思ったんですか?」


「んだよ、いきなり。それは……昔、兄貴が高熱を出したことがあって、クソ恥ずいけどな、それで兄貴を治せる医者になりてえって……思ったんだ」


「なら、人のために医者になりたかったんですよね?」


「当たり前だろ。だから患者のために知識と技術を磨いてきたんだ」


「で、でも、そうして磨いてきた腕を、今の九鬼さんは患者さんのために使ってません!」


 言いながら一叶は和佐にずんずんと歩み寄って、しゃがんだままの彼の前で仁王立ちする。


「……!」


 驚いている和佐に、一叶はぐっと顔を近づけた。


「九鬼さん! 自分を馬鹿にした人を見返してやりたいって気持ち優先になってしまっていて、患者が見えていないのでは!?」


「俺、は……いつのまにか、目的を見失ってたのか……?」


 いつも自信に溢れていた彼が見せた、迷子の表情を一叶は見守る。


「失敗したあの場所に戻って、俺を認めなかった外科でなにがなんでも評価されたかった。ああ、そうだ。見返してやりたかったんだ」


「今も、同じ気持ちですか?」


「……少しはな。けど、今はそれだけじゃねえ。俺を頼ってくれた七海あいつを助けてやりたい。その気持ちを、もう見失ったりはしねえ」


「九鬼さん……」


 すっきりとした和佐の顔を見て、ほっと胸を撫でおろす。もう、彼なら大丈夫だ。


「手ぇ貸せ」


「え? ああ、はい!」


 手を差し伸べれば、しっかりとした力で握り返され、和佐が立ち上がった。


 彼はひとりでも立てるのかもしれないけれど、それでも一叶の力を借りようとしてくれた。それが和佐から寄せてくれた信頼の証だとわかって、胸がじんと熱くなる。


「助けるとは言ったが、問題は山積みだ。俺の予知は実際に起こるからな」


 和佐は腕を組んで、すぐに仕事モードに戻った。


「食い止められたことって、ないんですか?」


「直近だと、井上春香の自殺だな。俺には屋上から飛び降りるところが見えてたが、お前たちが未来を変えた」


「じゃあ、食い止められるってことですよね!」


「けど、俺に失敗させるために、あいつらが邪魔してくるはずだぞ。むしろ、あの最悪な未来は、あいつらが引き寄せてんじゃねえかって思ってる」


 和佐は忌々しそうに右腕を手でさする。


「あ……」


 そういえば、その件について引っかかっていることがあった。


「九鬼さんは、九鬼さんを妬んだ同期の生霊に呪いをかけられたって言ってましたけど、私には、彼らの生霊は……視えなくて……」


「隠れてんじゃねえのか?」


「いえ、九鬼さんの予知を一緒に見たときに聞こえたあの声は、他の人のものでした」


「他の? 俺には……」


「はい、九鬼さんにはそう聞こえたんだと思います。でも、私が聞いたのは……九鬼さんひとりの声でした」


「……は?」


 和佐は呆気にとられた様子で立ち尽くしている。


「その、前に階段のそばで九鬼さんを見かけたときも、視える靄はひとつだったので、同期の人たち……ではないかと。なのでたぶん、九鬼さんに憑いた生霊は、九鬼さん自身だと……思います」


「……じゃあなんだ、俺は自分で自分を呪ってたってことか?」


 ありえねえ……と、和佐は自分に失望するように片手で顔を覆ってしまう。


「たぶん……自分で自分を追い詰めてしまうその心が生み出した、誰でも持ってる呪いなのかもしれませんね」


「自分の敵は自分だったってことか」


 和佐は、ため息をついた。やがて吹っ切れたように背筋を伸ばすと、一叶の隣までやってくる。


「なら俺は、この呪いを抱えて……いや、それすら武器にして進んでやるよ。手始めに、七海のためにな」


 強気に笑った彼に「はい!」と笑みを返す。一叶たちの足は自然と内視鏡室へ向いた。

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