3章 呪いと共に④

「ごめんなさいっ、うわあああんっ」


 中央処置室前の廊下を皆で歩いているときだった。七海の泣き声が聞こえ、部屋に飛び込むと、和佐の悪口を言っていた看護師が床に倒れていた。


「大丈夫ですか! 大丈夫ですか!」


 一叶は看護師の肩を叩きながら呼びかけ、顔を口元に近づけ、そのあとに頸部の脈に触れてみた。


「呼吸も脈もない……心肺停止だ」


「診察台に乗せよう」


 翔太はそう言ってエリクと目配せし、「一、二、三!」と七海を抱えて診察台に乗せる。すぐにエリクが心臓マッサージを初め、一叶はその邪魔をしないように看護師の服の前を開く。そのとき、黒い靄状のミミズのようなものが彼女の口の中から出てくるのが視えた。


「うわっ」


 驚いて尻もちをついた一叶に、除細動記と救急カートをひとりで引っ張ってきた和佐が「なにしてんだ!」と怒る。


 だが、一叶は靄状のミミズの行方から目を離すことができなかった。止める間もなく、ベッドの上で泣いている七海の口に入っていく。


「魚住!」


 和佐に肩を掴まれ、一叶は我に返った。


「あ……ご、ごめんなさいっ」


 慌てて立ち上がった一叶は、心臓マッサージの邪魔しないように看護師の胸にモニター心電図を貼った。


 翔太がカート上のアンビューバッグで看護師に酸素を送り込む中、心電図モニターの波形を確認する。


心室細動VFです!」


「一五〇ジュールにチャージ」


 和佐がエネルギー充電のボタンを押した。


「よし、チャージ完了。全員離れろ」


 心臓マッサージをしていたエリクや酸素を送り込んでいた翔太も距離を取り、和佐が看護師の胸にパドルを胸に当てる。


 ――ドンッ。

 看護師の身体が跳ねた。すると心電図モニターは規則正しい音を奏で始め、皆がほっと肩の力を抜くのがわかった。


 エリクと翔太が心臓マッサージやアンビューバッグでの換気を再開して二分ほど行ったあと、血圧も呼吸も十分に戻ったためにふたりは手を止める。


「ICUに運んでください」


 一叶が駆けつけてきた看護師に伝えると、倒れた看護師はストレッチャーで運び出されていった。


「ねえ、なにがあったの?」


 エリクの声で振り返ると、部屋の角に看護師が座り込んでいた。涙でぐちゃぐちゃになった顔は青ざめ、がくがくと震えている。


「わ、私たち……カーテンの向こうでカサカサッ……って、ゴキブリが這ってるみたいな音が聞こえて……そ、それで、カーテンにムカデとかミミズとか……っ、とにかく虫の影が一匹、二匹って、たくさん張り付いて見えたの……っ」


 看護師は頭を抱え、自分の髪をぐちゃぐちゃと掻き混ぜる。


「そ、そしたら彼女、きっとあの子がいたずらしたんだろうって、カーテンを開けに行ったの。でも、開けてもなにもなくて……とはいえ、私も見たわけだから、彼女も見間違いだとはどうしても思えなかったんだと思います。話を聞こうとして、彼女があの子の肩に手を置いたら……っ、彼女がきゅ、急に胸を押さえて苦しみ始めて……っ」


 エリクは「それって……」と表情に焦りを滲ませながら言い、タブレットを操作する。


「やっぱり、七海ちゃんの同級生が亡くなったときと同じ状況、しかも死因は心停止だって、新聞記事に書いてある」


 エリクがこちらにタブレットを見せてくる。そこには七海の通っていた小学校出起きた男子生徒の謎の突然死について書かれたネット記事が表示されていた。


 例の件の話題が出た瞬間、びくりと身体を震わせた七海を案じつつ、一叶は先ほど見た光景を話す。


「わ、私……さっきの看護師さんの救命処置中に……視たの。ミミズみたいな形をした黒い靄が看護師さんの口から出てきて、七海ちゃんの口の中に入っていったのを」


 和佐は腑に落ちた顔をする。


「だからあのとき、腰抜かしてやがったのか}


 一叶は頷く。


「……っ、私を殺して。っ……そうすれば、みんな救われる」


 後から聞こえた声に振り返れば、七海がベッドから飛び降りたところだった。先ほど倒れた看護師が落としたのだろう点滴セットのチューブを拾うと、あろうことか自分の首に巻いて絞める。


「馬鹿、やめろ!」


 真っ先駆け出した和佐が、咄嗟に七海の手を掴む。


 ――バチンッ!

 大きな静電気が発生したような音がして、和佐は後ろに大きくよろめいた。


「くっ!」


「九鬼先生!」


 血の気の失せた顔で、七海が和佐を見る。彼が押さえている右腕から、またあの黒い靄が立ち上っていた。それだけではない。


 ――ジュウゥゥッ……ボタァッ……ボタァッ、ボタァッ、ボタァッ。


 和佐の腕の上でミミズの形をした黒い靄が焼け焦げ、地面に次々と落下し、床の上で蠢いたのちに蒸発するかの如く消えていく。

 皆が「え……」と、その光景に戦慄していた。


「は、今のなに?」


 翔太はひしっと、隣にいたエリクにしがみつく。


「なにかが相殺したみてえな、反発した感じがする……」


 和佐は苦しげに眉を寄せ、頬に汗が流れるのもそのままに、七海に目をやった。


「まさか、お前……本当に呪われてんのか?」


 和佐の視線を受けた七海は瞳を揺らした。


「私のせいで、死んじゃった……雄くん、私のこと、気味悪いって。ビオトープに……突き落とそうとして、触った……から……」


 先ほどのエリクの新聞記事の通りなら、そのあとの結末はこうだ。心停止を起こした彼はビオトープの池に運悪く落ち、沈んでしまった。


「だから……私は、死ななきゃ」


 七海の目から、黒いなにかがにゅるりと顔を出した。それは細い黒い靄状のあのミミズで、涙のようにぼたぼたと落ちては地を這う。その様に全身の産毛が逆立つのを感じながら、皆で息を吞んだ。


「ちっ、ガキのくせに生意気なこと言ってんじゃねえ」


 和佐は床を這ってきた靄状のミミズを右手で握り締める。その瞬間、和佐の拳の中でジュウゥゥッとそれが焼け焦げ、消滅した。


「てめえに殺す気はなかった。そんなのただの事故だろ。その呪いが治れば、死ぬ必要はねえだろうが」


「違うよ、先生。お腹の中の……治っても、またなる……終わらない……」


「お前……本当は、呪いの原因を知ってるんじゃねえのか?」


 和佐の問いかけに、七海はふるふると首を横に振る。


「わから……ない。知ら……ない」


 翔太はじっと七海を観察し、「あの子、嘘をついてる」と小声で教えてくれる。


「自分も苦しいのに、どうして……」


 いや、言えない理由に思い当たる節がないわけではない。これがもし、呪いを使った虐待なのだとしたら。


(七海ちゃんが庇っているのは……お母さん?)


 和佐と七海の話を見守っていたエリクが言いづらそうに切り出す。


「呪いの原因がわからない以上、その影響がどこまでの範囲に及ぶかもわからない。可哀そうだけど……隔離だ」

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