2章 コードブラック⑥

 救急診察室に行くと、ベッドに横たわっている春香のもとへ向かう。


「井上さん……」


 手足同様に無数の擦り傷が出来た春香の顔は血の色をなくし、服には血が滲んでいる。患者であっても、心を通わせた人の悲惨な姿を見るのはショックが大きい。


「おい、呆けてんじゃねえ」


 和佐の声ではっとすると、彼は即座に近くにいた看護師に声をかける。


「レントゲンとMRI、頭部CTは?」


「撮影済みです」


 看護師が見せてきたタブレットを、すぐに和佐は確認した。


頸椎けいつい椎間板ついかんばんに異常なし、骨折の所見もなし……頭のほうも問題はねえ」


 てきぱきと動く和佐に、一叶は反省する。頭の切り替えが早くて、感情的にならず冷静に物事に向き合うことのできる医師。自分も見習わなければと春香のそばに行き、「井上さん」と声をかける。すると春香の瞼が震え、ゆっくりと目を覚ました。


「あ……魚住……先生……?」


「よかった。井上さんは事故に遭われたんです。それで、今は身体の状態を診させてもらっています。痛むところはありますか?」


「痛い……のは……首と……腰……背中……」


 事故に遭ったとき、背中から地面に落ちたのかもしれない。患者の訴えを聞いていた和佐は、納得した様子で頷く。


頚椎けいつい腰椎ようついの捻挫、背部打撲だな」


「少し、身体に触りますね」


 声かけをしながら春香の手に触れたとき、頭の中に映像が入り込んでくる。


『僕ガ……イル……ヨ……』


 虚ろな目でそう呟きながら、車が行き交う道路に向かって歩き出した春香。よく見れば、その手を黒い男が引いている。


『僕ガ……イル……』


 春香はふふっと笑い、幸せそうにその黒い男を見つめた。黒い男の身体には目玉がたくさんあり、ぎょろぎょろと気味の悪い音を立てている。


 そこへ強くブレーキを踏んだせいか、タイヤが地面を擦る音と悲鳴のようにあがるクラクションが鳴り響く。春香はゆっくりと軽自動車に向き直り――幸福そうに微笑んだ。


 ――バンッ!


 車とぶつかった春香の身体が吹き飛ぶ。背中からコンクリートへと叩き付けられるように落下し、バウンドしながら地面を転がった。


「……! っ、はあっ……はあっ……っ……?」


 そこで我に返った一叶は、荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回す。そこは救急診察室で、決して道路などではなかった。


「おい、なにぼさっとしてんだよ」


 怪訝な顔で和佐に見られ、一叶は慌てて白衣の袖で額の汗を拭う。


「す、すみません。手足が痺れていたりはしませんか? 触られてる感覚は……あり……ます……か?」


 言いながら、触れていた彼女の手首を見ると、そこには……。


 後ろから看護師の「ひっ」と小さな悲鳴が聞こえてくる。和佐も訝しむように一叶の手元を覗き込み、眉を寄せた。


「おい、それ……」


 春香の手首には、誰かに強く掴まれたような痣が残っていた。すぐに、あの黒い男のものだとわかる。


「……井上さん、触られている感覚はありますか?」


 痣の件は余計に怖がらせてしまうので、今は彼女の前ですべきではない。そう思って、何事もなかったように診察を続けると、春香はぼんやりとした様子で大丈夫だと頷いた。


 内心動揺していたが、一叶は医者としての仕事に集中する。


「吐き気はありませんか?」


「あり……ます。気持ち悪い……」


 それを聞いた看護師も、顔を強張らせながらではあるが、嘔吐物を受ける洗面器――ガーグルベースンを春香の顔の近くに用意した。


「ぶつかったのは道路を走行中の軽自動車で、横断歩道が青になっていないのに渡って、身体の正面から衝突。後方に飛ばされて、背中を地面に強打しています」


「あ? んでそんなことわかんだよ……つか、なんで正面なんだ。横断歩道を渡ってたなら、車は身体のサイドからぶつかるはずだろ。十字路だったのか?」


「いえ、十字路ではないです。井上さんが歩道の途中で立ち止まって、車のほうに向き直ったんです」


「つーことは……」


 和佐は意味を理解したのか、悪い予感が当たったとばかりに春香を見下ろす。


「春香さん、あなたは……死のうとしたんですね?」


 伝えながら泣きそうになった。彼女も虚ろな目の端にうっすら涙を浮かべ、自分でもどうしていいのかわからない、そんな声なき悲鳴をあげているように見えた。


「……どういうこと?」


 声が聞こえ振り返ると、戸口に立ち尽くす春香の母親がいた。そのすぐ後ろには父親だろうか、年配の男性と京紫朗もいる。


「あ……」


 一叶が春香の手を離し、背筋を伸ばすと、和佐が両親に近づいてった。


「娘さんは検査の結果、幸い頭や骨に異常はなく、頚椎と腰椎の捻挫、背中の打撲で済みました。首は初期の安静と固定が重要なので、後遺症を左右します。首と腰はコルセットをつけて安静に過ごしてもらって、痛みに対しては筋弛緩剤や鎮痛剤を出させていただければと」


「じ……事故の際に首にダメージが加わると、眩暈や吐き気が生じるのですが、井上さんも症状を訴えているので、ブロック注射を打たせていただければと……」


 これで間違ってないはず……、そろりと和佐を見上げれば、なにも言わずに見つめ返してくる。どうやら、同じ意見のようだ。


 家族に病状の報告をしているときだった。春香の母が「あなた……」と、廊下の先を見つめて言った。


 廊下に面した処置室の壁には、外からでも様子が見えるよう窓があり、恐らく容態をが気になって見に来たのだろう翔太が立っていた。


 少し遅れて、慌てて彼を追いかけてきたのだろう。そのさらに後ろに、息を切らしたエリクも現れる。


(今、ご両親と鉢合わせするのはまずい……)


 ひやひやしながら見守る一叶の隣で、和佐が舌打ちした。


「クソが、なにやってんだよ」


 小声で言った和佐の顔にも、焦りが滲んでいる。


「この子は……ぎりぎりだったの……」


 母親はゆるゆると翔太に向かって歩き出した。


「おい、やめないか!」


 父親がその腕を掴むが、それを母親は振り払う。


「ストーカーにも追いかけ回されて、やっと幸せになれるってときに夫が亡くなって、ボロボロのあの子に……あなた、なんて言った?」


 震える手で、母親は翔太の白衣を掴む。


「なんて言ったのか、言いなさいよ!」


「すみません……でした」


 翔太は項垂れ、されるがままになっていた。


「あんたのせいで娘が死んでたら、どうするつもりだったのよ! 人殺しぃぃっ、ああっ、ああっ……なんで、こんなことに……っ」


 母親に罵られながら、翔太の瞳が光をなくしていくのをただ見ていることしかできない。


『あの言葉は、本当は娘さんの本心でもあるんですよ』と、そう説明したい。


 けれど、今出て行っても言い訳になってしまうし、結果として危険に晒したのは事実だ。ここで彼を庇うのは医療者としては間違っているし、翔太の立場をより悪くする。


 それに、母親だってわかっているのだ。確かに翔太の一言が退院の引き金にはなっただろうが、事故を起こしたのは車で、ましてや娘が自ら飛び込んだ。


 死にたがっている娘をどうしたら治せるのか、どう接すればいいのか。行き場のない不安や恐怖を医療者にぶつけているだけなのだと。


(でも……今の央くんは、それがわかってるのかな)


 母親の心を理解し、理不尽な怒りは一枚透明な壁を隔てて冷静に親身に受け止める。それができるのは、医療者とて人間なので、心身共に健康であるときだけ。


 けれど今の翔太はあまりにも脆く見え、一叶は飛び出していきそうになる身体を必死に自分の腕で抑えていた。


「お前……」


 じっと耐えている一叶に気づいたのか、和佐がこちらを見る。


「これは……央くんだけの問題じゃない」


 オカルトメディカルチ―ムが請け負った患者が死にかけたのは、同じ患者に関わっていた医者全員の責任だ。


「だから……痛いです」


 一叶は胸を押さえる。


(でも、痛くていい)


 一叶たちはエンパスではないけれど、彼が感じている痛みを同じだけ受け止めて、挽回しなければ。


 和佐の物言いたげな視線を感じたが、彼は結局なにも語らずに泣き崩れる母親と立ち尽くす翔太に目を戻した。




 翌朝、記録を打ち込んでいると、同じく夜勤だったエリクがデスクの椅子に腰かけながら一叶を振り返る。


「井上さんの入院期間、一か月だっけ」


「うん。松芭部長がお母さんを説得してくれたから……」


 春香は昨日、ブロック注射後に経過観察室で合併症などが現れないか三十三分程度、看護師に経過観察を行ってもらったのちに一般病棟へ移された。


 母親は翔太に感情を吐き出していくらか落ち着いたのか、京紫朗がケアを兼ねて話を聞き、頚椎や腰痛の捻挫にしては長い入院の許可を取り付けることができたのだ。


「骨折があるわけでもないし、頚椎と腰痛の捻挫だけなら入院を必要としない。しても、せいぜい三日程度が一般的なのに、松芭部長、絶対詐欺師になれるよね」


 にこにこと言うエリクの後ろに、黒い笑みを浮かべている京紫朗が立っている。


 一叶が「あ、う、あ」と言葉にならない声を発していると、京紫朗がエリクの耳元に顔を近づけた。


「詐欺師になる予定がないのが悔やまれますね」


「うわああっ、今のは嘘です! ごめんなさい!」


 びしっと背筋を伸ばすエリクにくすくすと笑いながら、京紫朗が会議用のテーブル席に座る。


「井上さんの場合、嘔気症状があり、首の組織や神経が傷ついていることが予想されましたので安静加療のもと、入院にこぎ着けました。自殺未遂を起こしたこともあり、期間を伸ばせたというだけです」


 エリクはデスクのキャスター付きの椅子に座ったまま、会議用ぼテーブルまで移動した。


「でもこれで、井上さんを病院に引き留められますね」


 一叶も椅子ごと京紫朗たちのほうへ向き直る。


「でも、安心はできないです。また、自ら命を絶とうとしてしまうかも……」


「水色さんの言う通りです。ご家族から抑制帯の許可は頂いていますが、目が離せません。我々の敵は、病だけではありませんから」


 京紫朗の言うように、霊病医が戦わなければならないものは他にもある。


 昨日、一叶は春香の手首に触れた際に視た映像と、肌に残っていた痣のことを報告している。


「あの黒い男は――小池さんです。小池さんは窓に文字を刻めるほど力があ、あるので、身体拘束をしていても、その抑制帯を小池さんが外してしまえば、井上さんは……」


「だから四六時中、看護師つけてんだろ」


 そう言って部屋に入ってきたのは、日勤の和佐だ。デスクに自分の荷物を置き、和佐は立ったまま京紫朗のほうを向く。


「松芭部長、結局霊病のことは両親には話せてないんですよね?」


「お母さんのほうは興奮していましたからね。今日、折を見て話をする時間を作ってもらえましたので、そのときに伝えます」


 娘が車に飛び込んでいったのだ、取り乱して当然だ。


 一叶も霊視で視た春香の顔が頭から離れない。あの仄暗いのに幸福そうな笑みが――。


 身体は時間が経てばよくなっていくかもしれないけれど、心のほうはそうもいかない。

 一叶は膝の上で拳を握り締める。


(央くんも、大丈夫かな)


 昨日の一件のあと、翔太はずっと心ここに在らずで、京紫朗が休むようにと前日に引き続き帰らせた。


 春香の母親の感情をもろに受けたはずだ。医療者なら一枚壁を隔てて患者やその家族の感情を受け止める。そうしなければ、こちらも受け止めきれないから。


 けれど、そもそもエンパスの彼に同じことをしろというのは酷な話なのではないだろうか。通常時も壁など隔てずに感情をもろに受信しているのだから。


(思い詰めていなければ、いいけれど……)


『ここで皆の手を取れなければ、一番初めに壊れるのは緑色くんかもしれません』


 京紫朗の一言を思い出し、ぞっとした。


 早く来ないかなと戸口のほうを向いたとき、エリクの心配そうな声が聞こえてくる。


「そういえば……央っち、まだ来ないね」


 壁にかかっている時計を見上げると、出勤時間を過ぎていた。


「……まずいですね」


 皆が京紫朗を振り返ると、彼は顎に手をやり、眉を寄せている。


「彼は共感性が強い。自分なりに深入りしすぎないよう工夫はしているみたいでしたが、まだ自分の体質との付き合い方が掴めていないみたいでしたから……」


 空気が張り詰める中、一叶は思い切って口を開く。


「あ、あの。私、央くんの様子を見にいってもいい……でしょうか?」


 夜勤明けなので、急患さえ来なければ帰れるはずだ。


「それなら僕も行くよ」


 エリクがひょいっと片手を挙げる。


「え? でもエリクくん、央くんの代わりに夜勤に入ったから、ふ、二日まるまる連続勤務で疲れてる……よね?」


「平気平気、眠気通り過ぎていっそハイになってるから」


 そうは言っているけれど、エリクの笑顔には疲れが滲んでいる。それでも無理をするのは、翔太のためだろう。


「それではふたりとも、緑色くんの様子を見に行ってくれますか? 今回は負の感情を曝露された彼が心配ですし、緊急事態ということで連絡先と住所をお教えしますので」


 一叶とエリクは頷き、翔太の家の住所をメッセージアプリに送ってもらうと、夜勤の引き続きを京紫朗に任せ、定時に仕事を上がった。




「駄目だ……まったく繋がらない」


 一叶が耳からスマートフォンを外すと、エリクがハンドルを握りながら視線だけをこちらに向ける。


「央っち、寝てるのかな?」


「そうだといいんだけど……」


 予想では、一睡もせずにゲームをしているのではないかと思う。寝ていないといえば……。


「エリクくん、運転代わりにしてあげられなくて、ごめんね」


「いいよいいよ、免許ないんでしょ? でも、取る予定もないの? 結構便利だよ」


「あ、その……できれば取りたいなとは思ってたんだけど……」


 実家が田舎だったこともあり、高校卒業と同時に運転免許を取得するのがクラスメイトの間でも当たり前な雰囲気だった。一叶もその流れで母に頼んだのだ。


『お母さん、車の免許を取りたいんだけど……いい?』


 母に頼み事をするときは、いつも緊張した。母は一叶が意見すると、決まって反論するからだ。だからテストでいい点を取ったとか、母の期限がよくなるタイミングで切り出すようにしていたのだが、案の定――。


『……車?』


 テストの点数を褒めてくれていた母がぴたりと動きを止め、無表情になる。


『お、お金なら、バイトで貯めるから』


『なに言ってるの? バイトなんて、勉強する時間がなくなるじゃない。そんなんで医者になれると思ってるの?』


 満点だったテスト用紙を持つ母の手が震える。その指が紙に食い込んでいくたび、どくどくと心臓が嫌な音を立てるのがわかった。


『それに、事故を起こしたらどうするの? 医者が事故を起こすのは、そこら辺にいる平凡な人間が事故を起こすのとはわけが違うの。余計なことしないで!」


 母はぐちゃぐちゃに握り締めたテスト用紙を一叶の顔に投げつけた。肩で息をしながらこちらを睨みつける母の顔は、今も忘れられない。


(あれ以来、余計なことはしないようにしよう。そう思ったんだよね……)


 一叶がつい考え込んでいると、


「うおちゃん?」


 エリクの心配そうな声がして、慌てて彼に笑みを返す。


「あ……私、どんくさいから……免許をとっても人を轢いちゃいそうだし……やめちゃったんだ」


「そっか……でも、そうならないために教習所があるんだし、興味があるなら試してみたら? なんなら、僕も協力するしさ?」


「エリクくん……ありがとう」


「ううん、僕はなにも。ただ、まだ未来はわからないのに、今からもう諦めたって選択肢を捨てちゃうのが、ちょっともったいないなって思っただけだよ」


(未来はわからない、か)


  選択肢くらいは、残しておいてもいいのかもしれない。そんなふうに母の言いつけ以外の道にも目を向けられるのは、いつもポジティブなエリクに引っ張られるからだろう。


「あ、ここかな?」


 そうやら目的地に着いたのか、エリクが駐車場に車を停めた。少し身を屈めて、窓からマンションを見上げる。


 シートベルトを外して、ふたりで車を降りると、マンションの入り口へ向かった。 ふたりでエントランス入口に書かれている看板を仰ぎ見る。


「マ、マンションの名前も同じだし、ここで合ってるみたいだね」


「だね。ええと、部屋は505……五階だ」


 スマートフォンを見ながら、エリクが先導するように前を歩き、エレベーターのボタンを押す。そして五階に上がると、505号室の前で足を止めた。


 ――ピーンポーン。


 インターフォンを押せば、少しして扉が開く。


「な……んで……?」


 部屋から出てきた翔太は、充血した目の下にやはりクマを作っており、中からゲームの音がする、今の今まで、ゲームをやっていたのだろう。


「ご、ごめんね。仕事に来なかったから、心配で……松芭部長に住所を勝手に聞いて来ちゃったの」


「うおちゃん、何回か電話したんだよ? でも繋がらなくてさ。なにかあったんじゃないかって……勝手にごめんね?」


 一叶とエリクがおろおろしていると、翔太は俯いた。


「いや……こっちこそ、ごめん。ふたりとも夜勤明けでしょ。なのに手間ばっかかけて……ひとまず、あがって。ここじゃ話し声が響くし、目立つから」


 そう言って中へ促してくれる翔太に甘えて、一叶とエリクはお邪魔することにした。


「散らかってるけど、適当に座って」


 リビングに行くと、真っ暗な部屋の中でテレビが爛々と光っていた。乱雑に地面に置かれたゲーム機を避けながら、翔太は明かりをつける。


 一叶とエリクがリビングの入り口で立ち尽くしていると、翔太が自嘲的な笑みを浮かべた。


「減免した? 仕事さぼってゲームとか」


 一叶は首を横に振る。


「ううん、しないよ。ただ……ゲームしないとならないほど現実逃避したくなったのは、どうしてなのかな……って」


 エリクと絨毯の上に座ると、翔太がふたりぶんのコーヒーを淹れて運んできた。


 差し出されたマグカップを受け取ろうとして、一叶は手を伸ばす。


「深入りしないでって言った」


 拒絶の言葉がコーヒーにぼとりと落ち、一叶は息を詰まらせる。いっそう苦々しく見えるコーヒーを見つめ、悲しくなった。


 マグカップ一個分の距離にいるのに、目の前には明確な境界線を引かれている。


 母に車の免許を取ることを否定されたときのように、余計なことはしないようにと諦めることは得意だったはず。わかってもらおうと努力しても、駄目だったときに傷つきたくないから。


 けれど、まだ未来はわからない。なのに今からもう諦めて、選択肢を捨ててしまうのはもったいないと、エリクが言っていた。


 諦めなければ、今までの道を片足だけ外れてみれば、目の前の境界線を超えてみれば、変えたいと思う繋がりを本当に変えられるかもしれない。


 一叶はマグカップを両手で受け取り、ぎゅっと握り締めると――。


「ごめんなさい。で、できませんっ」


 勢いよく頭を下げた。


「は……?」


 翔太の動揺する声が降ってきたので、一叶はばっと顔を上げる。


「わ、私がもっとうまく人を元気づけられて、気の使える人間だったらよかったんだけど……それができないから、せめて今央くんをひとりにしたくないの!」


 翔太の両腕を掴むと、不意打ちだったからだろう。彼は「うわっ」と体勢を崩して、その場に尻もちをつく。


「あ、あんた、普段は引っ込み思案なのに、なんでこういうときだけ強引なわけ?」


 軽く身を仰け反る翔太に、一叶は前のめりになって攻め込む。


「強引にもなります! 睡眠時間が短いと生活習慣病とか、うつ病のリスクが高くなって、寿命を縮めることもわかってるんですよ!」


「お、落ち着いて」


「落ち着いてなんていられません! 文献では確か、六時間を切ると要注意だって! 命削ってまでゲームしないとならないほど追い詰められてるんですよね!?」


 翔太に馬乗りになる勢いで捲し立てていると、後ろのほうで「おおっ、うおちゃんがスパークしてる……」とエリクが呟いているのが聞こえる。


「わ、わかった……わかったから」


 大きく上下する一叶の肩に、翔太が手を乗せた。


「い、いろいろ聞きたいこと、あるよね。ほんと、なにから話せばいいんだか……」


「なにからでもいいよ。央くんの話、全部聞くから」


 エリクも強く頷く。すると翔太は顔をくしゃりと歪め、唇を引き結んで俯くと、絞り出すような声で話し始める。


「野原真理とは……高校三年のとき、同じクラスになったのがきっかけで話すようになった」


 一叶はマグカップを近くのテーブルに置いて、翔太の話に集中する。


「初めは席替えで隣になったから、『おはよう』って挨拶しただけだった。けど、たったそれだけのことでも、野原には……大きなことだったんだと思う」


 エリクが「大きなこと?」と聞き返すと、翔太が頷く。


「野原はクラスで浮いてる存在だった。周りのやつらは地味な女子くらいにしか思ってなかったと思うけど、誰かに目を向けてもらえるような存在じゃない、全身でそう訴えるみたいに、周りを拒絶してる空気があって……」


「それで声を……かけたんだね」


 声にならない目の前の人の痛みや悲しみを知ってしまったら、無視できない。それがエンパスの彼の優しさであり、苦しみなのかもしれない。


「うん。その頃から俺、ゲームオタクだったんだけど、挨拶したその日に野原のほうから、鞄につけてたゲームキャラのキーホルダーのことを聞かれてさ」


 翔太の視線が棚に飾られているマスコットに移る。手のひらサイズのそれは薄汚れていて、年季が入っている。


「それでやってるゲームのことを教えたら、次の日には野原もハマったって言って、話すようになった。思えばあのときから、好意を持たれてたんだと思う。俺はそのことに気づかないで、軽い気持ちでギルドオフ会に誘った」


「ギルドオフ会?」


 聞き慣れない単語に首を傾げれば、


「ゲーム内で一緒に活動してる仲間と、現実世界で会うことだよね?」


 そう言って、エリクが答え合わせを求めるように翔太を見る。


「ん、そう。ゲームのギルド……のオフ会で他のメンバーとも仲良くなって、少し明るくなったようにも見えた。けど……野原からプライベートのことを根掘り葉掘り聞かれるようになって」


「プライベートなこと?」


 エリクの問いに、翔太は当時のことを思い出したのか、顔を顰める。


「ギルドの中で仲がいい友達は誰だとか、異性の友達はいるかとか、いろいろ。しかも、いつからかギルドの中で俺と野原が付き合ってるって話が回ってた」


「それって……そ、外堀を埋められてたって……こと?」


 言い方はあれだが、一叶はそれ以外の言葉が思いつかなかった。


「そう。頻繫に遊びに誘われるようになって、オフ会よりもふたりで会うほうが楽しいからそうしてって強要までされて……断ったときは付き合ってもないのに責められた」


 翔太にとって悪夢のような日々の始まりだ。彼の額には脂汗が滲んでいる。


「勝手にお弁当を作ってきて渡されることもあって、無下にすることもできなくて受けとると、『私はこれだけのことをしてあげたのに、なんで俺からはなにもしてくれないの?』って、どんどん見返りを求めてくるようになった」


「央っちはさ、そこまで干渉されてて嫌な思いもしてたはずでしょ。どうして突き放せなかったの?」


「……野原に同情してたから」


 静かに告げられた翔太の言葉に、一叶は「同情?」と聞き返す。


「そう。親が再婚してて、自分だけ愛情を注がれてなかったから、愛されない自分を卑下してるところもあって、人とうまく関われないから過去にいじめを受けてたらしい。だから誰かを独占しないと不安なんだ。あいつはずっと……寂しかったんだと思う」


「優しくされたの……初めてだったのかな。野原さんは初めて優しくしてくれた央くんが離れていくことを恐れてたんだね」


「そう……だと思う。俺に見放されたら、ひとりになるって怯えてたし」


 央はそう言って、しょげたように自分の膝を抱えた。


「わかってる、俺がエンパスだから深入りしてるんだって。しかも自分から首を突っ込んだくせに、これ以上あいつと関わると頭がおかしくなりそうだったから、ゲームも退会して、連絡先も消して、携帯も変えて、遠方に引っ越してまで離れた。けど……」


 翔太は膝の間に顔を埋める。その身体が小刻みに震えていた。


「あいつ、俺の通ってる大学も住んでるとことも突き止めてきて……っ、逃げられない。だから周りの友達にも住んでるところとか研修先とか一切言わないでここに来た。そのせいで……友達ができなかったりもした」


「央くん……」


 翔太の背に手を添えれば、彼は少しだけ顔を上げる。


「俺は……知ってしまえば、なにかをせずにいられない。目の前で溺れそうな人がいるのに見てるだけなのはもどかしいじゃん? そういう感覚。でも、俺が中途半端に関わったせいで、あいつは俺に執着するようになった」


「それは央っちのせいじゃ――」


「いや、俺のせいだよ。なんの知識もない俺がそばにいたって、あいつの家庭環境が改善するわけでもないし、逆にあいつは俺以外の世界を見なくなった。こんなの、またひとりぼっちになるだけだ。俺の優しさは人を駄目にする。そう学んだ」


 人との距離感は難しい。近すぎればなれなれしいと嫌がられたり、なんでも受け入れてもらえると甘えが出てきたり、遠すぎればよそよそしいと相手に思われて傷つけてしまったり、近寄り難いなと怖くなってしまう。しかも、医療者と患者、同級生、先輩と後輩、年配者と若年者、立場によっても距離感のボーダーラインが変わってくる。


 翔太が患者に深入りしないスタンスになった理由は、そこにあるのかもしれない。エンパスであるがゆえに適度な距離を測ることが難しいから、徹底する必要があった。


「けど、どうしたって深入りしそうになるから、そういうときはゲームで頭の中から無理やりその思考を追い出してた」


「ゲームはエンパスの央くんが心を守るために必要な、お守りなんだね」


「え……」


「だ、だって、仕事中にヘッドフォンしてゲームしてるなんて、誰かに見つかったら怒られちゃうし、それでもやめられない事情があったからだって考えるほうが……し、自然かなって」


 一叶も初め、エレベーターでゲームをしていた翔太に会ったときは驚いた。今みたいに考えられるようになったのは、翔太という人に踏み込んで理解したいと思ったからだ。


「お守り……そんなふうに言われたの……初めてだ」


 翔太は呆気に取られた様子で、視線を僅かに落とす。


「みんなゲームが手放せない俺に、いい印象持たないから……まあ実際、仕事さぼってまでやっちゃうんだから、仕方ないんだけどさ」


「私は……いきなり仕事をやめたり、命を絶ってしまうより……ずっといいと思う」


 翔太の惑う瞳がこちらを見つめる。一叶は彼の迷いを視線を逸らさずに受け止めた。


「生きるために必要な逃げなら、ゲームにでもなんでも逃避していいんじゃないかな。央くんにとって、息をするのと同じことなんだよ……きっと」


「……っ、息をするのと同じ……うん、そうなのかも……」


 喉を抑えて、翔太は微かに口元に笑みを浮かべる。


「央っちがさ、どんなに深入りしないって思ってても、助けたい気持ちは……殺せないんじゃない? 精神科医になりたいのだって、野原さんのことがあったからでしょ?」


 翔太は弾かれたようにエリクを見た。


 自分を傷つけた相手なのに、もうなんとかしようとしてる。そういう翔太の優しさまで消してしまうことはない。


「央くん、エンパスじゃなくたって、医者は人の人生に深入りする仕事だし、お、思ったように助けられなくて傷つくことも……あるよ」


 翔太はこちらを向き、目を見張った。


「俺だけじゃ……ない?」


 そりゃそうだよ! と、エリクは翔太の肩を叩く。


「まあ、話を聞く限り、央っちが悪かったところなんて、どこにもないと思うけどね」


「私もそう思う。央くんは誰よりも早く、言葉にしてない人の痛みを察知して、寄り添ってくれるでしょう? だから、央くんの優しさは害なんかじゃないよ」


 一叶の話を聞きながら、翔太は瞳を潤ませていた。そして、軽く首を傾げながら、泣きそうな顔で、震える唇を開く。


「俺は……変わらなくて、いいってこと?」


「あ……えと、ひとつだけ変わってもいいんじゃないかなって思うことも、あるかな」


 不思議そうな顔をしている翔太に、一叶は肩を竦めて苦笑する。


「央くんにとってゲームは初め、好きなものだったのに今は安定剤みたいになってるし、その……ギルド? も居場所だったはず……だよね。なのにやめなくちゃいけないことにまでなって……野村さんにもっと怒ってもいいと思うんだ」


「怒る?」


「う、うん。勝手に独占欲を持たれて、干渉されて……央くんはすごく怖かったはず。もっと怒って、泣き喚いたっていいくらいだよ」


「でも俺、これでも怒ってる……つもりなんだけど」


 エリクと声を揃えて「そうなの!?」と前のめりに驚いてしまう。


「い、いやいや、確かに苛立ってるときもあったけど、央っちがされたことを思えば、その程度で済むようなムカつきじゃないはずでしょ!」


「央くん……確かに暴言で誰かを傷つけるのはよくないけど、相手のいないところで発散するくらいは……い、いいと思うよ? なんて言えばいいんだろう、その……プライベートな時間でもいい子でいなくていいといいますか……っ」


「わかる、わかるよ、うおちゃん。僕たちはサイボーグじゃないからね、公私ともに聖人君主にはなれない。前にうおちゃんがキャパをメモリーに例えて話してたけど、たまりすぎた鬱憤は外に出して、心に空きスペースを作れば、余裕ができてまた誰かを受け入れられるでしょ?」


「できるだけ胸の中のもやもやをすっきりしてからじゃないと、寛容に人に接するのは難しいと思う。だから、プライベートではもっと悪いやつになったらいいかと!」


 名案だ! とばかりに意気込んで言えば、翔太とエリクは目を丸くして、次の瞬間、ぶはっと吹き出した。


「うおちゃん、悪いやつって……あはは!」


「わかった、目指せ大王」


 笑いを堪えているせいか、口元をむずむずとさせながら翔太が言う。


「央っち、ぶふっ……やめて、苦し……っ」


 なぜかエリクはお腹を抱えながら床に転がってしまう。


「え? え?」


 ふたりの反応が予想外で戸惑う。だが、翔太が楽しそうにしている。それなら、まあいいかと一叶も笑った。


「央くん、これからは央くんが壊れちゃうほど深入りしてると思ったら、私たちが止めるよ」


「……!」


 エリクも「そうそう」と指で目の端の涙を拭いながら起き上がる。


「央っちの思うままにやったらいいよ」


「で……でも俺、そうやって優しさの押し売りしたせいでストーカーにまとわりつかれて、それを井上さんにも重ねて……ストーカーされるような態度を取ったからだろって、そういう捉え方される言い方した」


「そうだ、そもそもどうして、央っちがそれを言う流れになったの? 僕たちが小池さんの家に行ってる間になにがあったのさ?」


 エリクと小池の家に行った日は、春香が空き病室で彼の霊に首を絞められる事件が起きた日だ。


 翔太は言いにくそうに沈黙したあと、心が決まったのか静かに切り出す。


「あの日、井上さん、死ぬのを邪魔されたって怒ってたでしょ。一緒にあっちに行ってあげられたのにって……」


「あ、うん。それを私たちも変だなって思ってたんだ。井上さんにはご家族もいるし、た、確かに旦那さんの存在は替えがきかないけど、それでも大事な人がいるのに死を選ぶのは少し極端かなって」


「井上さんは首を縛られてたとき、これで解放される、許される、そういう開放感みたいなものを感じてて、その理由は『私があの人を死なせた。私のせいだ』って気持ちの中にあると思った」


 そういえばあの日、カンファレンス中に翔太は誰かに乗り移られたかのように『私のせい』と繰り返していた。


「旦那さんの死に関して、なにか後悔するようなことがあった……?」


 思いついたままに言えば、翔太は「たぶん……」と頷く。


「だからあとを追いたかったのかもって思ったら、居ても立っても居られなくなって、俺……井上さんのところに行って、その疑問をぶつけたんだ。そうしたら……」


 春香は暗い瞳から涙を流しながら、こう告げたそうだ。


『私がストーカーにさえ遭わなければ、あの人は死ななかった』


 春香はこのとき、ひどい罪悪感に襲われていて、翔太も経験があるからこそ、普段以上にその心に共感してしまったらしい。そして、彼女が言うはずだった言葉を先回りして口に出してしまった。


『あの人は私が死なせたようなもの。私が無意識に愛想を振りまいたから』


 翔太の呟きを聞いた春香は『そんなこと、あなたに言われなくてもわかってるわよ!』と枕や床頭台の物を投げつけ、暴れた。そこへ見舞いに来た母親が現れ、事情を知り、退院してしまったそうだ。駆けつけた京紫朗や和佐が宥めたそうだが、引き留められなかった。


「自分を責めてたのは俺も同じ。俺がストーカーされるような態度を取ったんだって。だから井上さんに自分を重ねて、能力をコントロールできずに医者失格なこと言った。それでもまだ……なんとかなると思う?」


 一叶とエリクは顔を見合わせる。


「なんとかしよう」


 エリクに賛同するように、一叶もこくこくと頷く。


「い、井上さんはオカルトメディカルチ―ムが担当してる患者で、そこで問題が起きたのなら、同じ患者に関わってた医者全員の責任だと思う」


「だね、だから央っちだけの問題じゃない」


 翔太は息を詰まらせ、下を向くと、ぽたぽたと涙が落ちる。か細い声で「ありがとう」と言った彼の背を、エリクと一緒に抱きしめた。


「央っちがなにを言おうと、僕たちこうして夜勤明けに押しかけちゃうくらいお節介なやつらだから、諦めて世話焼かれときなさい」


「ん、わかった。それから、いろいろ当たってごめん」


 真理の一件で距離感を間違えてはいけないと学んだのに、また踏み込みすぎて同じ過ちを繰り返してしまった。そう思い込んで、その現実から逃げるようにゲームに没頭し、不眠になってイライラしてしまったのだろう。


「央くんが優しく在ろうとして、無理しすぎてしまっただけだって、みんなわかってるよ。だから今度はひとりでじゃなくて、一緒に向き合おう。私たちの患者に」


 翔太は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。


「……、うん」


 翔太は強く頷き、一叶の肩に額をつけると、しばらくそのままでいた。

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