2章 コードブラック⑦

 午後、やっと病院に来た翔太は霊病科に入るや深々と頭を下げた。


「迷惑かけてすみませんでした」


 タブレットを手に立っていた京紫朗は、安堵したように肩の力を抜く。

「大丈夫ですよ。うちの科ではよくあることですから」


 よくあること……と、一叶は隣にいるエリクと複雑な感情を共有した。


「九鬼も、当たってごめん」


 デスクに向かっていた九鬼はぴたりとキーボードを叩く手を止める。


「……あの日、あの患者を担当してたのはお前だけじゃねえ。俺は自分の汚名返上のためにここにいるだけだ」


 そう言ってなぜか、和佐はこちらをちらりと見る。一叶が首を傾げると、和佐はふいっとパソコンの画面に向き直る。


「てめえも、自分が開けた仕事の穴を埋めろ」


「もう、大王は素直じゃないよね。あの日のことは俺の責任でもあるから、気にするなって言えばいいのに」


「勝手に翻訳してんじゃねえ」


 和佐が振り返って、キッとエリクを睨みつける。いつもより怖くないのは、和佐なりに翔太を気にかけているとわかったからかもしれない。


「てめえらはつくづく無駄話が好きだな。おら、サボってやがったんだから仕事しろ」


「ええっ、僕とうおちゃんは夜勤明けなんですけど!」


 和佐は翔太の胸に日記帳が印刷されたコピー用紙の束を押し付ける。


「おら、ストーカー野郎の日記のコピーだ。俺と部長はもう読んだ」


 一叶はそのコピー用紙を見ながら、昨日の梓との会話を思い出す。


「そういえば梓さん、治療に役立ちそうなら共有してくれるって……」


「兄貴から手紙の解析が終わったって渡されたんだよ」


 刑事をしているのだ、こちらに何度も顔を出せるほど暇ではないはず。それなのに昨日の今日で資料を準備をしてくれたのだ。頭が上がらない。


「患者から逃げねえって決めたなら、目ぇ通しとけ」


 翔太はコピー用紙の束をしっかりと掴み、強く頷いた。


「兄貴が日付を確認した限りだと、それが書かれたのは逮捕されて保釈金を払ったあとだ」


 和佐は腕組みをしながら、翔太の持つコピー用紙の束に向かって顎をしゃくった。一叶とエリクも翔太の手元を覗く。


【最近、きみと出会ったときのことをよく思い出します】


 そんな書き出しで始まったのは、小池が春香に出会った頃のことを振り返っている日記だった。春香が働くスーパーに客として行ったとき、レジで『またいらしてくださいね』と言われたのがきっかけで、春香が自分のことを好きなのだと思ったらしい。


 翔太の手元を覗き込んでいたエリクがぽつりと言う。


「『またいらしてくださいね』、か……それくらいなら、接客の範囲内な気がするけどね?」


「自分は親切心とか社交辞令で言ったつもりでも、それを好意と勘違いする人もいるってこと。本人はそのつもりないから、自覚してないうちにストーカーのターゲットになってるってこともある」


 翔太がしみじみと語る。

 普通なら、ただの店員の接客でここまで妄想は広がらない。けれど……普通なんてそもそもあってないようなものだ。人間はみんな同じだと思いがちで、だから自分の物差しで普通を決めつけようとする。


【きみのことで頭がいっぱいで、付き合うところを想像したりしたよ】


 日記のコピーを読んでいる一叶たちを、和佐がちらりと見やる。


「その好意は勘違いだって病院でも言われてたみてえだけど、逮捕されたあとも認めたくない自分がいるって小池は書いてやがる。行動に移せねえから日記で欲求発散してたんだろうな」


「行っちゃいけないって思ったから、日記の中で発散してるのだとしたら、自分なりに衝動に向き合ってたってこと……なのかも?」


 皆の視線が自分に集まり、一叶はあたふたと答える。


「ええ、すぐに行動に移さなかったあたり、治療の効果は多少なりとも出ていたともみれますね」


 京紫朗が同意見だと頷き、一叶はほっと息をついて再び日記に目を戻した。


【きみのシフトに合わせて、一日に何度も会いに行ったけど、ある日からどうしてかきみがいつもいる曜日と時間に出勤しなくなって、僕は仕事を休んで毎日待ち伏せをした。そうしたら、昼間から夜の時間に変わってて焦ったっけ。このとき、辞められたりしたら会えなくなることに気づいて、あとをつけてきみの住んでるマンションを見つけた。でも、部屋から知らない男が出てきて、裏切られた気分だった】


 知らない男というのは、きっと春香の夫のことだろう。


「最近は張り込んで後をつけるだけじゃなくて、SNSとかで居場所を特定されたりするから安易に投稿すると危ないし、逆に友達が載せた写真とかから居場所がバレたこともあって、マジ危険」


 翔太の渋面を横目に見る一叶。経験者の言葉は重みが違う。


「わ、私はSNSはやらないからあれだけど、自分がどれだけ自衛しても、周りの人がうっかり個人情報がわかるような投稿をしちゃうこともあると思うし、気をつけないとなんだね」


「ん、俺はできなかったことだけど、周りの人に話しておくのもあり……かも。本当に命の危険があるんだって。松芭部長がタクシー手配してくれたり、安否確認してくれたりさ、自分以外の助けがあるってだけでも安心するし」


 翔太の視線を、京紫朗はなにも言わずに優しい眼差しで受け止めている。

 彼が誰かの手を取れてよかったと思う。でなければひとりで心を壊していたかもしれない。そう思うとぞっとする。


 そのとき、「あー……」とエリクがなんとも言えない声をあげた。

 彼の視線の先を辿れば、日記にはこうあった。


 しばらくして春香はスーパーを辞めていて、焦ってマンションを訪ねると、もう違う人が住んでたそうだ。表札の名前が変わっていて、気づいたらしい。小池はスーパーに家族を装って電話し、結婚して引っ越してたことを聞き出した。当然自分と両想いではなかったのかと納得できなかった。そんなときに休みがちだった仕事もクビになり……。


【僕には本当に、きみしかいなくなった】


 文末のその言葉がひどく重たく見えた。


「ストーカーを続けるために仕事を休んでたら、そうなるよね」


 エリクの物言いからは、複雑な心境が入り交じっているのが読み取れた。一叶も同じ気持ちだった。


「うん……お互いに不幸になるだけなんだね、ストーカー病って」


 隣にいた翔太が「あいつも……」となにか言いかけて、すぐに口を噤む。きっと、こう言いたかったのだ。


 ――野原真理も自分の人生を犠牲にしているのだろうか、と。


 そのあとの日記でも、小池は引っ越し会社にまた家族を装い、『引っ越しのときに見覚えのない荷物が紛れてたから家まで取りに来てほしい』と連絡をして、その引っ越し会社のトラックを追跡し、春香の家を見つけ出したとあった。


 しかし、家から出てきた夫に警察を呼ばれ、待ち伏せていた警官に逮捕されたと。


「井上さんと会って話したかっただけだったのに、どうして邪魔するんだって思った……か。この段階に来ても、まだ自分が悪いことをしたって思考にはならないんだね」


 赤裸々に語られるストーカーの心の内を綴った日記に、エリクもどこか圧倒されるように呟いた。


「こうなる前に気づけなかったのが悔やまれますね……」


 一叶の口から、ぽつりと本音がこぼれる。


「菌やウイルスが起こす単純な病気ではないですからね。兆候を見つけるのは、医療者でさえ難しい」


 京紫朗も難しい面持ちで、翔太の持つ日記のコピーに視線を注いでいた。


「あ、でも、そのあと小池さんは反省できてたみたいだよ?」


 日記のコピーを覗き込みながら、エリクが声を上げる。


 確かに初めは病気なんかじゃじゃないと思っていたけれど、警察にお世話になって家族に心配をかけたことでかなり落ち込んだらしい。このままでは駄目だと思い、警官に勧められたこともあって病院を受診をしたとある。


「けど、家族から見放されてひとりになったことで、より井上さんしか自分にはいないと思うようになって、また家に足が向いたってあんだろ」


 和佐が先に結末を述べると、室内に暗い沈黙が流れた。


 あとは梓が語った通りだ。あとをつけたときに、夫の葬儀が行われることを知り、同じくひとりぼっちになった春香に勝手に共感した。春香と同じだと思ったから、小池は自分がそばにいなければと思ったのだ。


「あっ」


 翔太がふとコピー用紙を落とす。「すんません」と謝る翔太に合わせ、皆がしゃがんでそれを拾い始める。一叶もコピー用紙の一枚を手に取り、なんとなく文字に目を落とす。


【四月十五日】


 梓が『最後の日記は四月十五日みてえだ』と言っていたのを思い出す。これは、小池が死ぬ前に書いた最後の日記――。


【きみもひとりぼっちなんだよね。僕と同じだ、きっと寂しい思いをしてるはず】


 どこか、そうであってほしいと懇願しているような文面。


【僕がそばにいてあげなきゃ。だけど、周りの人間が邪魔をする。でも、僕の愛は本物だ。それを証明して見せる】


 ひどく、追い詰められている。そうしなければもう、どうにもならないのだと、どこからか悲鳴が聞こえてきそうで、胸が詰まる。


【この身体さえきみに会いに行くのを妨げる枷でしかないのなら、僕はその枷を自分で壊して、きみに会いに行くよ】


 そして、小池は本当に――。


 脳裏に首を吊った小池の姿が浮かび、強く目を瞑った。そのとき、はあっと耳元で息遣いが聞こえた気がした。


(え……)


 誰かの吐息に揺れたもみあげの髪が肌にこすれ、ぞわりと鳥肌が立ち、一叶がはっと目を開いた。


『僕がいるよ』


 囁かれた。確かに鼓膜が声を拾い、一叶が「ひっ」と悲鳴を上げて紙を放り投げると、すぐさま両手で耳を塞いだ。


「魚住?」


 そばにしゃがんだ翔太が一叶の顔を覗き込む。


「……っ、日記のコピー……見てたら、小池さんの声……声が、すぐ耳元で……っ、囁かれて……」


 しどろもどろに、震えながら答えると、腕を組んで立っていた和佐が言う。


「兄貴が言ってたろ。ああいう遺品にはよくねえもんが憑いてたりするって」


 梓が日記の実物は持ち出せないと話していたときのことだ。

 あのときは、よくないものの意味がわからなかったけれど……。


「実物を持ち出せない理由がわかりました。コピーですら、こんなに強い思念が憑いているのを感じるから……」


「家族から見放されてひとりになったことと、井上さんが家族を失ったこと、この共通点が小池さんのストーカー行為を再熱させたんだ」


 翔太は一叶の代わりにコピー用紙を拾い、テーブルの上に載せた。


「警察にお世話になって家族に心配をかけたことを小池さんは気にしてた。それで結局、家族が離れていってしまったのが堪えたんだね」


 受診を進めたのは警官だが、受診のきっかけは恐らく家族のことを考えたからなのではないかと日記から感じた。


「うん、一度は治療を受けるところまで行ってる。治療のおかげで病識もあったし、魚住が言ったみたいに一時期は自分の衝動に対処できてた。小池さんが井上さんに抱いてる共感は間違ってるって、認知の歪みを修正できれば、こっちの言葉も届くかも」


「それには小池さんが認知の歪みを自覚する必要がありますね。ですが、それは同時に現実と自分の中の負の感情を見つめることになりますから、なかなか難しい道のりです」


 京紫朗はそう言ってテーブル席に着くと、肘をついて組んだ両手の上に顎を置く。


「井上さんも小池さんも、喪失から立ち直れないところが似てる……よね」


 そう言って翔太が椅子に座ると、皆もぞろぞろとあとに続いた。


「ストーカーとストーカー被害者が似てるって、ありえねえだろ」


 大股を開いて腰掛けている和佐は、理解できないとばかりの顔をしている。


「グリーフワーク」


 翔太が放った言葉に、一叶は反応した。


「大切な人との離別……特に死別したときに遺族が長期に渡って受ける大きな悲しみ(グリーフ)と立ち直りの作業プロセスのこと……だよね」


「そ、ボウルビィがまとめたグリーフワークには四つの段階があるでしょ」


 そう言って、翔太が項目をひとつひとつ述べる。


 ひとつ目は相手を失った事実を認められないショック期。

 二つ目は失った相手を諦めきれず、強い怒りを感じる喪失期。

 三つ目はどうしていいかわからず混乱し、成す術がないと知り絶望する閉じこもり期。

 四つ目は相手を失った悲哀が和らぎ、生活を立て直し始める再生期。


「ストーカー加害者は、その前の段階で停滞してる。つまり井上さんが愛する人との死別直後で、小池さんは失恋直後の状態がずっと続いてるようなものなんだと思う。すごく苦しんでるはず」


「つまり緑色くんは、ふたりとも四つ目の相手を失った悲哀が和らいで、生活を立て直し始める再生期に進ませるケアが必要と考えているんですね」


 京紫朗に「はい」と翔太は答える。


「小池さんも、ストーカーになりたくてなったわけじゃないから……」


 それを聞いた和佐は呆れたように、はっと息を吐いた。


「お人好しがすぎるんじゃねえか」


「え、そう?」


 不安げにこちらを振り向いた翔太に、一叶はエリクと顔を見合わせる。


「許容範囲内じゃない?」


 和佐と京紫朗の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。


「エンパスも央っちの個性ってことで、自滅しそうなときは僕たちがお人好しがすぎる央っちのストッパーになろうってことになったんですよ」


「す、ストーカーは病気なので、医者として加害者側にも立って考えるのは普通のことかなと。それが結果的に井上さんを小池さんの霊から解放することにもなりますし……」


 こくこくと頷きながら説明すると、なぜか京紫朗は微笑ましそうに見てくる。


「和気あいあいしてる場合ですか。井上春香の入院期間は一か月。その間になんとか手を打たねえと」


 和佐の言う通りだ。悠長に構えている暇はない。その間にまた、小池が春香を死に追いやる可能性もある。なんたって相手は誰の目にも留まらず彼女の病室に侵入でき、彼女になにかしたところで証拠が残らない幽霊だからだ。


「そうですね。事態は急を要します。優先して私たちがすべきなのは井上さんの治療と保護です。さて、誰がなにを担当しますか?」


 京紫朗の試すような視線が一叶たちに向けられ、その場に緊張が走る。


「俺は引き続き、患者の事故後の怪我のほうの治療を担当する。病室に小池が現れるかもしれねえしな、男手がいんだろ」


 すぐに答えた京紫朗に続き、エリクが言う。


「僕も大王と行くよ! あと、念のため井上さんを一度念写してみようかな。前に診た大学生たちみたいに、臓器に憑依されてることもあるかもだし」


「わ、私は旦那さんの霊を探そうかと……」


 控えめに挙手るる一叶に、エリクも今思い出したかのような顔をする。


「そういえば、旦那の霊もいたんだったね」


「うん……今は後遺症を左右するから、安静と固定が重要な時期でしょう? また命を絶とうとして無茶したりしないように、旦那さんはちゃんとストーカーから井上さんを守ろうとしてそばにいたんだってことを知らせたほうがいいんじゃないかなと思ったの」


 翔太が一叶の心を見透かすような目で、こちらを向く。


「だから旦那さんを探したいんだ?」


 一叶は「うん」と首を横に振る。


「旦那さんがここにいますって言いながら話せば、聞く耳を持ってくれるかもしれないから」


「実際に連れてくる必要はねえだろ。患者には旦那の姿は見えねえんだしよ」


 時間がもったいねえ、と和佐はぼやく。


「そばにいるって嘘をつくこともできますが、真実にしてあげたいんです」


 少なくとも自分には視えてしまうから、あるものをなかったように、なかったものをあるように振る舞うことはできない。


「俺も魚住と行く。井上さんに生きる希望をあげられるのは、旦那さんだけだと思うから。それで、親御さんたちも……安心させてあげたい」


 春香の母親に人殺しと罵られた翔太の姿を思い出しているのは、本人だけではない。個人プレーの和佐でさえ渋い顔をしているのは、あれは翔太だけでなく春香を診ている霊病科全体の責任だと思っているからではないだろうか。


 翔太の答えを聞いたエリクは、一叶のほうを向く。


「それなら、央っちのストッパーはうおちゃんに任せた!」


「うん、任せて」


 頷きながら笑みを返せば、翔太は気恥ずかしそうに身じろいでいた。


「では赤鬼くんと黄色くんは、私と先に井上さんのところへ診察へ行きましょう。水色さんと緑色くんは旦那さんの幽霊を見つけ次第、合流で」


「部長がいれば、ご両親の説得もお手のものですもんね!」


「なんたって私は詐欺師ですからね」


 うっとエリクが呻いた。皆が不思議そうにしているので、前にエリクが京紫朗を詐欺師呼ばわりしたことをこそっと伝えた。翔太も和佐も珍しく息ぴったりに「アホだな」と声を揃えた。


「我々の科の病状説明は特殊ですので、信頼を得るところから苦戦するかもしれませんが、ご家族の説得も皆さんのお仕事ですからね?」


 黒い笑顔を前に、和佐が「とばっちりじゃねえか」とぼやくのが聞こえた。

 京紫朗は両手を二度叩き、空気を入れ替えるように言う。


「じゃ、始めましょうか」


 


「魚住は旦那の居場所に心当たりがあるの?」


 エレベーター前でエリクたちと分かれた一叶は、血液内科病棟に来ていた。


「あ、うん。階段のそばの廊下の突き当りにね、佇んでる霊がいて……出勤するたびに直視しないようにしてたんだけど……」


 離しながら廊下を歩いていると、すうっと肌を撫でる冷気。その先の窓ガラスから差し込む光を浴びた成人男性が立っていた。


「あ……」


 一叶に合わせて、翔太も立ち止まる。


 数日前、階段の踊り場で一叶を助け、小池に襲われていた春香を助けるべく自分たちを導いたあの霊だった。


「いた?」


 こちらを向いた翔太のほうには目をやらず、一叶は答える。


「行こう。向こうも私たちに気づいてる」


 彼はこちらを見つめていた。歩き出した一叶に、翔太は「ん」と短く返事をして続く。


井上誠也せいやさん、ここにいたんですね。春香さんのそばにいなくていいんですか?」


 春香を受け持ったとき、旦那のカルテにも目を通したので知っている。

 一叶たちが誠也の前で足を止めると、彼は困ったように笑っていた。


『いる資格が……ないよ』


 自分の手のひらを見つめ、悔しげに握り締める。


『結局、事故から守れなかった。手を伸ばしたけど、触れなかったんだ』


「……目の前にいるのに……助けられなかったのは……おつらい……ですよね」


『ありがとう。あのストーカー、俺と同じ霊のはずなのになぜかあいつが春香のそばにいると近づけなくて……』


 困り果てている彼に、一叶も頭を悩ませる。すると一叶と誠也の会話の邪魔をしないようにするためか、静かに見守っていた翔太が顔を覗き込んできた。


「どうしたの?」


「あ、ふたりで話しててごめんね。事故のときも、誠也さん井上さんのそばにいたみたい。誠也さんは同じ霊のはずなのに、小池さんがいると井上さんのそばに行けなかったって」


「松芭部長が言ってたよね。実際に物を動かしたり、現実世界に干渉できる霊は強いって。小池さんは窓に文字を刻めるほど力がある。その執念の強さが井上さんを近づけさせないようにしてたとか?」


「奥さんを助けたいって誠也さんの気持ちよりも、小池さんの執念のほうが強いってこと……?」


 口に出したことを一叶はすぐに後悔した。誠也が沈んだ様子で俯いていたからだ。

『俺が……気持ちで負けたんだ。春香に……後ろめたさがあったから』


「後ろめたさ……ですか?」


 誠也は頷く。


『ストーカーのあいつのせいで、俺たちはよく喧嘩していて……』


 アパートで同棲していた頃は電話がひっきりなしに鳴ったり、手紙を投函されたり、せっかく手に入れたマイホームにも小池が現れるようになって、もう逃げられないと言う状況にお互いに精神的に参っていたのだと誠也は話した。


『その頃から怠さが長く続いてて、疲れやすくなったなって自覚はあったんです。でも、春香が大変な時期だったし、春香も俺もピリピリしてることが多かったから、なんとなく言い出せなくて……病院に行くのを後回しにしてました』


 誠也は急性前骨髄球性白血病で亡くなっている。わかりづらいが、それは恐らく初期症状だっただろう。


『けど、三月終わりあたりから高熱が二週間近く続いて、ひとりで地元のクリニックを受診したけど、異常は発見されなくて……薬をもらって飲んだけど、体調はよくならなかった』


「ひとりで受診したのは……ストーカー被害に悩んでる井上さ……春香さんを気遣って……?」


『はい。それで数日経ってストーカーが捕まってから、今度はこのきさらぎ総合病院に来て血液検査をしてもらったんだ。そしたら白血病だって』


 ほんと参るよ、と誠也は苦笑する。


『それで緊急入院することになったんです。春香は自分がストーカーに遭ったせいで、俺に心労をかけたから病気になったんだって思い込んでて……そのあと、すぐに俺が……死んだから……今も、自分を責めてるんだと思います』


「誠也さん……」


 かける言葉を探していると、翔太が今どういう状況下知りたそうな顔をしているのに気づく。


「あ……」


 一叶が掻い摘んで説明すると、翔太は納得したふうに「そっか」と頷いた。


「あの、誠也さんのカルテは井上さ……春香さんの担当になった際に……拝見してます」


 一叶は誠也に向き直り、勝手に見たことへの申し訳なさから軽く頭を下げる。


急性前骨髄球性白血病きゅうせいぜんこつずいきゅうせいはっけつびょう……早期に治療を始めることがもっとも大切なM3タイプの白血病と言われるものです」


 恐らく、この説明もすでに担当医から聞いただろう。けれど聞いたからこそ、ふたりの想いはすれ違ったまま重ならない。


「最初の一週間から十日を乗りきることができれば、比較的完治しやすい白血病と言われていますが、誠也さんが診断されたときにはすでに……身体は多くのがん細胞さいぼうに侵されていて、白血球は通常の何十倍もの量になっていたのかと……」


 実際に入院後、投薬治療によって一時小康状態となったけれど、数日後には容体が急変して昏睡状態となり、そのまま帰らぬ人となった。


「この説明を聞いて、春香さんは自分のことがなければ、もっと早く誠也さんが病院にかかることができたんじゃないか、そんなふうに考えてしまったのかもしれませんね」


 誠也は肩を竦める。


『まったく同じことを、春香が言ってました。あいつに死にたいと思わせてるのは……俺なんです』


 そう言って俯いてしまう誠也に、一叶は返事に迷う。患者からの本音は、ときにどんな病を相手にするよりも怖い。


「……誠也さんの心残りは……春香さんに死にたいと思わせてしまったこと。そして春香さんが死を望む理由は……誠也さんを死なせてしまったことだったんですね」


 隣で翔太が息を呑んだのがわかった。誠也の姿は見えないものの、翔太は彼のいるだろう方向を予測して向き直る。


「……誠也さん、生きている人は死者のそばにいると、その人の心を病ませ、生命力を奪ってしまいます。そこに愛があろうと、なかろうと」


 言いにくそうに切り出した翔太の横顔を一叶は見つめる。

 そうだ。だから霊病医は、彼らの存在を腫瘍のように切り離さなくてはならない。春香のそばから、ストーカーの小池だけでなく夫の誠也も。生者の前では、死者は等しく死者なのだ。


「この世にいる霊は、恐らく未練があるから旅立てないのだと思います」


 翔太の話を聞きながら、一叶は自分の死の真相を伝えるべく大学生に憑依した女子高生のことを思い出していた。彼女は今も、彼らを祟り続けているのだろうか。彼らが死ぬそのときまで、憎しみを抱えたまま。


『俺は……成仏しないとならないってことか』


 誠也は自嘲の笑みを浮かべ、参ったと言わんばかりに頭に手を当てた。


『……俺、今からすごくかっこ悪いこと言いますけど……いいですか?』


 不安に揺れる瞳をこちらを向ける誠也に、一叶は「今からかっこ悪いこと言うけどいいですか? だって」と彼の言葉を翔太に伝え、ふたりで頷き返した。


『俺、春香の事故で気づいたんです。声をかけても届かない、手を伸ばしても触れられない。死んでる人間は無力で、生きてる人間の行動を変えることはできないんだって』


 春香の手を握ったときに見えた事故の光景の中で、誠也が春香の名前を呼んだのが聞こえた。どうして、霊の声が聞こえるのも、視えるのも自分なのだろうと思う。その存在に会えるのを心から待ち望んでいる人は、他にいるのに。


『生者(春香)は前に進むことができるけど、死者(俺)は振り返ることしかできない。だからいつか、俺を置いていく春香を見て苦しむ。それが執着になって、あのストーカーみたいになるかもしれない』


 誠也はひと呼吸おいて、絞り出すような声で続けた。


『……怖いんだ。いい夫でいられる自信がない』


「誠也さん……誠也さんも、この世に留まり続ければ苦しくなる……ってことですね」


 どういうこと? と問うような目で見てきた翔太に誠也の言葉を伝えた。すると翔太は言葉を詰まらながらも言う。


「誠也さんは小池さん……ストーカーのようにはならないと思います」


『え……?』


 驚いたように翔太を見る誠也に、一叶も声をかける。


「私もそう思います。ふたりとも相手を想うあまり苦しんでいますが、一方通行な愛ではないですから」


 一方的に自分の想いだけをぶつけている小池とは、まったく違う。


「春香さんが死のうとしたのは、誠也さんのせいじゃない。自分のせいで誠也さんが病気になったと、春香さんが勘違いしているせいです。だから、その誤解を解きましょう」


 誠也をこの世に留めているのは、春香さんの存在だ。その心残りを翔太が紐解いて、難題のように見えていたそれを単純明快にしてくれる。


『俺……「お前のせいじゃない」「気にするな」……言ってやりたいこと、たくさんあったけど、今はただひと言だけ……「生きてくれ」って伝えたい』


「伝えましょう。私、雅也さんの言葉、全部伝えますから」


 誠也は双眼に確かな意思を宿し、強く頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る