1章 いわくつきの診療科④

『自己主張が苦手で活躍の場を逃してしまうところがある。それは医術を学ぶうえで大きな損です』


 エレベーターへ乗り込んだ一叶の頭の中で、先ほどの京紫朗の言葉がぐるぐると巡っていた。


 一叶がぼんやりと足元を見つめていると、


「うおちゃん、大丈夫?」


 ふいにエリクが顔を覗き込んできて、ぎょっとする。


「あっ、ええと、はい……お見苦しいところをお見せしてしまって……」


 焦ったときのクセで、ついずれてもいない眼鏡を押し上げてしまう。


 するとエリクは「んー」と悩んだように一叶を凝視したのち、ぱっと表情を輝かせた。


「いや、どっちかって言うと僕は霊病医の説明を聞いてるとき、ちょっと目をキラキラさせてた央っちのほうが気になったかな!」


 ぎくりと翔太の肩が跳ねた。


 エリクは一叶の気を紛らわすために話を逸らしたのだろうが、翔太が困っているので申し訳ない。もちろん気を使わせてしまったエリクにも。


 けれど、実は一叶も気になっていたのだ。あのときの翔太の反応が。


 答えを求めるように彼の様子を窺うと、「だって……」ともごもご口を動かした。


「選ばれし者とか国家機密とか、設定からしてかっこよくね?」


 翔太は首にかけたヘッドフォンを握って、子供のように耳元まで赤面する。


「そういえば央っちって、研修医室でもよくゲームしてたよね。もしかして、オタクさんなの?」


「そーだよ、悪いか」


 てか、なんでさん付け? とぼやきながら、むっとする翔太にエリクはきょとんとした。


「別に? うちには二・五次元の大王がいるしね」


 エリクが和佐を指さすと、彼は「くだらねえ」と言い捨てた。


「俺はさっさと自分の体質治して外科に行く。ただでさえ、後れを取ってんだ。この科でも実績に繋がりそうな症例を経験するしかねえ。現状に満足してるお前たちとは、一生慣れ合えねえわ」


 和佐は目標に向かって貪欲で、自分とは正反対だ。そんな和佐が高い壁のように見えて、自分がちっぽけに思える。


 そのとき、エレベーターが三階の内科病棟に到着した。先に歩き出した和佐が片手でドアを押さえながら、一叶を振り返る。


「お前も、そんな引っ込んでばっかだと、いつか雑用係に降格すんぞ」


 和佐の言っていることは間違っていない。先ほど京紫朗にも指摘されたが、自分からいかなければ、チャンスを逃す。それを研修医の立場になって幾度も経験してきたはずなのに、二年経った今も変われない自分がもどかしくて仕方なかった。


 どうしたら、和佐みたいに強くなれるのだろう。

 白衣の裾を握り締めていると、翔太がため息をついた。


「あんた、外科で問題起こしたって噂になってたけど、戻れんの?」


 和佐は「あ?」と先ほどよりもいっそう険悪な空気を纏って翔太を睨んだ。


「てめえには関係ねえだろ」


「その通り。あんたには関係ない。だから、人が突っ込まれたくないことに土足で踏み込むの、やめたら?」


 そこで気づいた。翔太はもしかしたら、図星を指されて言い返せなかった一叶を庇っているのかもしれない。


「あんたが胸張って戻るために箔つけないとならないのはわかるけどさ、それを俺たちに押し付けるのは違うだろ」


「他の同期に比べて出遅れてるってのに、呑気だな。実績持って戻らねえと、次の配属先でなめられんぞ」


「初っ端から部長にあんな態度とっといて、出世って……あんたがいちばんほど遠いだろ。俺が言うのもなんだけどさ、仕事さえできればいいってわけでもないんじゃない?」


 呆れ気味に言う翔太に、和佐は「はっ」と馬鹿にするように笑う。


「ついていきたいと思える上司なら従う。そうじゃないなら、こっちから見切る。部下にも上司を選ぶ権利あるだろ。仲良しごっこがしてえなら、てめえらだけでやってろ」


 前を向いたまま、和佐はそんな捨て台詞を残してエレベーターを出ていく。


「あ、ちょっと! 僕も大王と一緒なんですけど!」


 慌ててエリクがあとを追いかけていき、思い出したかのようにエレベーターを振り返ると「じゃね!」と手を振った。


 そこでドアが閉まり、途端に静かになる。胸を押さえて深く息をついていると、黒いオーラが漂ってきた気がして隣を見た。


「焦って勝手にイライラして、それをぶちまけるとか、マジで大王。当たんなっての、伝染するだろ。あー、ゲームしてえ」


 翔太がぶつぶつ毒を吐いている。


(げ、ゲーム?)


 移動時間でさえゲームをしていたくらいなので、相当好きらしい。


 そうこうしているうちに、精神科病棟のある七階に到着した。開いたドアをさりげなく押さえ、「ん」と先に行くように顎で促してくる翔太に一叶は目を瞬かせる。


(央くん、さっきも庇ってくれた。表情はあんまり変わらないけど、優しい人なのかも)


 そんなことをぼんやりと考えていたら、翔太が首を傾げた。


「出ないの?」


「あ、出ます! ありがとうございます!」


「別に。目の前であんたが挟まれでもしたら、俺の人間性疑われそうだし」


 思わず『そっち!?』と突っ込みそうになったが、気遣ってくれたことには変わりないので、ありがたくエレベーターを降りる。


「た、確か、702号室でしたよね」


 病室に向かっていると、「離して!」と切迫した声が廊下に響いた。


 央と顔を見合わせ、駆け足で向かうと、どんな偶然か担当患者の個室に辿り着いた。


 患者は三名の看護師に取り押さえられていて、その近くには母親らしき女性が青ざめた顔で立ち尽くしていた。


「私はまともよ! どうして誰も信じてくれないの!」


 患者の叫びを聞いた瞬間、翔太が顔をしかめて後ずさった。その身体がぐらつき、慌てて支える。


「だ、大丈夫ですか?」


「っ、強烈すぎ。頭に響く……」


 翔太は頭を押さえながら額に汗を浮かべ、胸元の服を握り締めた。


「胸が、詰まる感じがする……」


「え?」


「食事すら拒んで……ここまでしても旦那の存在を認めてくれないことに、追い詰められてる。今度は死んでやろう、そんな気迫すら……ある」


 翔太が言うように、看護師が三人がかりで彼女を押さえているのも、それほどの緊急性があったからなのかもしれない。なら、今自分がすべきことは彼女をどんな方法でもいいから落ち着かせることだ。


 翔太に寄り添いつつ患者を見る。すると彼女のそばに人型の靄が視えた。


(あれは……!)


「い、います!」


 ひとまずそう叫んだ。すると患者も周りの看護師も動きを止め、こちらを振り返る。


「そこ……」


 集まる視線に緊張しつつも指をさせば、患者ははっとした顔になる。


「あなたには……視えてる?」


 こくこくと頷くと、患者はわあっと号泣しだした。


「え、はったり?」


 翔太が困惑気味に小声で尋ねてくるが、自分にしか視えていないものを証明する方法がとっさに浮かばず、返答に困ってしまう。


「ちょっと、あなた! おかしなこと言わないでちょうだい!」


 彼女の母親が体当たりする勢いで迫ってきた。母親は一叶の名札を見るや、さらにまなじりを吊り上げる。


「医者のくせに、患者を混乱させるようなことしか言えないの!? しかもなんなのよ、霊病科って! この病院は霊感商法でもやってるの!?」


 腕を掴まれ乱暴に身体を揺すられる。それを止めたのは、娘の一声だった。


「やめて!」


「でも、春香……!」


「いいからっ、お母さんもそこの看護師も、みんな出ていって! 私は……この先生と話がしたい」


 彼女の視線は、まっすぐに一叶に注がれている。


 どうしましょう、と顔を見合わせていた看護師たちに翔太が声をかけた。


「ここは一旦、俺たちに任せてください」


 彼女たちの中でひとりだけ、翔太の名札を見ながら得心がいったような顔をした者がいた。彼女は霊病科を知っていたらしい。


 その看護師は母親に歩み寄ると、その背に手を添えながら声をかける。


「お母さん、ここは先生に任せて、いったん様子をみてみましょう?」


 娘に拒絶されたこともあり、渋々といった様子で従う母親を連れ、看護師たちが病室を出ていく。


「幻覚じゃないわよね? 夫はここにいるわよね?」


 ドアが閉まった途端、必死に話しかけてくる彼女は、一叶が靄を見た場所と同じところを指さしていた。


「あ、えと、私には靄状にしか……その、視えなくて。旦那さんなのかどうかは、はっきりとは言えないのですが……なにかいるのは確かです」


「そうなの……」


 視線を落とした彼女の目の下には、くっきりとくまがある。


 すると翔太が近くにあった丸椅子をふたつ持ってきて、ベッドサイドに置いた。一叶は彼に軽く頭を下げ、腰かける。


「あ、あの、井上春香さん……ですよね」


 患者確認も兼ねて尋ねれば、春香は「はい」と頷いた。


「私は霊病科の魚住です」


 一叶に続いて、隣に座った翔太が「同じく央です」と挨拶をした。


「霊病科?」


 聞き馴染みがないからだろう、彼女は軽く首を傾げる。


「あ、えと……」


 彼女なら、霊病の説明をしても素直に聞けるだろうか。隣を視れば、翔太が『大丈夫だと思う』と言うように強く頷いた。


 彼に後押しされるように一叶も首を縦に振り、思い切って口を開く。


「れ、霊病といって、霊が生きている人間に影響を与えることで起こる身体の不調などを治すのが専門の科でして……」


「あの人が私を病気にしたって言いたいの!?」


「い、いえっ、そうではなく……!」


 伝え方を間違っただろうか。焦ってわたわたしてしまう一叶に代わり、翔太が「違います」と静かに修正する。


「今回は旦那さんの霊がいるのを感じるとお聞きしていたので、我々も確認できれば他の医師やお母様を説得するお手伝いができるのではないかと思ったんです」


 それを聞いた春香は、ほっとしたように表情をいくらか和らげた。


「ごめんなさい。私、過敏になってるのね……信じてもらえないって、結構堪えるの」


 自嘲的に笑う彼女に、ずきりと胸の奥が疼く。


「……わかります」


 しまい込んでいた昔の痛みが蘇り、ついそう答えていた。彼女の問うような視線を感じ、一叶は肩を竦める。


「私も……みんな視えるものだと思って、母に霊の存在を告げたことがあったんです。でも……」


『はいはい、どうせただの注目引きでしょう』


 こちらを見向きもせず、仕事の支度をしながら忙しそうに返事をする母の姿が脳裏に浮かぶ。


「ただの注目引きだって、相手にしてもらえませんでした」


 目の前の彼女と同じで、昔から辛いことを深刻に話せない質だった。真剣に話した分だけ、軽く受け流されたときの悲しみは大きい。


 一叶は胸の痛みを誤魔化すように、苦笑しながら続ける。


「それからは見間違いだって思い込むようにして、視えないふりをして、口にしないようにしてきました。わかってもらえないって諦めてしまった私と違って、わかってもらおうと戦っている井上さんは……すごいです」


 春香は目を見張り、じんわりと瞳を潤ませた。


「……正直、気配しか感じられないの。ときどき、影みたいな形で視えて、初めは気のせいかもって思ってた。だけど、影が通った場所で物が落ちるの。それであの人がいるんだって気づいた」


 彼女は膝の上で握り締めた手に力を込める。


「でも、証明できるものでもないでしょう? それに、はっきり視えたわけじゃないから、自信もなくて……」


 苦しげに気持ちを吐き出す彼女につられるように、翔太も表情を歪めながら言う。


「自分がおかしいのかもって、井上さんはたくさん悩んだんじゃないですか?」


「……っ、ええ、悩んだわ。でも、気のせいだったらつらい。あの人にそばにいてほしい。どんな形でも……」


 春香はようやく言いたいことが言えたからか、微かに安堵した様子で天井を仰ぎ、「はあ~~っ」と息を吐く。


「ずっとイカレた女扱いだったから、やっと少し気が抜けた気がするわ。あの人はここにいる。私のことをこんなに心配してくれてる」


 うっとりしたように靄のほうを見ている。その表情から、なぜだか危うさを感じて、「あのっ」と彼女の手を掴んだ。そのとき――。


「……!」


 触れたところから、すううっと冷気が流れ込んでくる感覚があった。続けて急に空が暗くなり、一叶は窓を見る。


(えっ)


 あんなに晴れていたのに、ザーッと雨が降っていた。


 一叶はゆっくりと窓辺に近づいていった。ガラスを洗い流すかの如く流れていく雨水。曇っているガラスを白衣の袖で拭い、その向こうを目を凝らしながら眺める。


 ひらっと、紙のようなものが落ちてきた。次から次へとスローモーションで落ちてくるそれを見ていると、切り取られたノートのページであることがわかった。

 そのとき、窓ガラスがふわっと白く曇る。


「ひっ」


 一叶は思わず後ずさった。

 息遣いのように、何度も繰り返し白くなる窓。恐る恐るガラスに顔を寄せると――。


 ぬうっ……と、眼鏡をかけた肉付きのいい男の顔が現れ、血の気が一気に引いた。


「……っ!」


 声にならない悲鳴をあげた一叶の肩を誰かががしっと掴む。


「い、嫌!」


 とっさに手を振り払おうと暴れると、


「魚住先生!」


 その声で我に返り、振り向くと翔太が焦った様子で一叶を見つめていた。


 辺りを見回すと、一叶は春香の手を掴んだまま丸椅子に座っており、窓に近づいた痕跡もなければ雨も降っていない。


(今のはなに?)


 動揺しながら、春香から手を離す。

 白昼夢にしても、こんなに身体が震えている。感じた恐怖は紛れもなく本物だった。


 翔太と春香は何事かと困惑した様子で見てくる。


「あ、あの……」


 一叶が言葉を詰まらせていると、後ろから声がした。


「井上さん、あなたに旦那様の存在が感じられるように、彼女にも普通の人には視えないものが視えます。それをお話ししても?」


 振り返れば、病室の入り口に京紫朗が立っていた。彼はこちらにやってくると、春香にお辞儀する。


「初めまして、霊病医の松芭です」


「は、はあ……」


 春香はぎこちなく頭を下げ返した。


「先にお伝えしておくと、彼女の話が必ずしも井上さんにとっていい話になるとは限りません。知りたくなかったことを知ることになったとしても、構いませんか?」


 春香はごくりと唾を呑み、「は、はい」と答えた。


「あ、あの、松芭部長。私の見間違いかもしれませんし……」


 患者を前に取り繕うこともできず、縋るように京紫朗を見上げてしまう。


 けれど京紫朗は笑みを浮かべたまま、困りましたと言わんばかりに眉を下げた。


「きみは何者になりたいんですか?」


「え?」


「せっかく綺麗な色を持っているのに、それを自らくすませてしまう。その消極さが本来のきみの力を抑え込んでしまっているんです」


 抽象的なのに、一叶を縛るものを言い当てられたような気分だった。


「失敗はフェローである今だからこそ、できることです。なんのために指導医がいると思っているんですか?」


 京紫朗は小首を傾げる。

 不思議だ。彼の言葉が一叶の呪縛を少しずつ緩めていくのを感じる。


「人にどう思われるかは気にせず、きみが感じ取ったままを話してみてください」


 自分が何者になりたいかなんて、考える必要はない。自分は母の敷いたレールの上を歩いていくのだから。


 けれど、医者になったのは母ではなく自分だ。


(私はお母さんがいないと、なにもできないかもしれない。でも……)


 患者に一叶の事情など関係ない。できることがあるのに、自信がないからしないというのは――不誠実だ。


 半ば責任感に突き動かされるような形で、一叶は春香に向き直った。深呼吸をして、口の中が乾くのを感じながら話し始める。


「……さ、先ほど井上さんの手を掴んだとき、急に窓の外に雨が降り出して……」


 一叶は先ほどの光景を思い出すように、窓に視線を移した。


「そこの窓に近づいて、外を眺めたんです。あ、でも、実際にはこの椅子から動いてなかったので、白昼夢だと思うんですが……」


 怪訝そうにこちらを見る春香と翔太の視線に居心地の悪さを感じながら、それでも医者としての責任感を思い出して、一叶は続ける。


「空から切り取られたノートのページが、ぱらぱらと落ちてくるのが見えたんです。それで、あの……息遣いを窓越しに感じて……ガラスがふわっと白く曇って……そうしたら、肉付きのいい男の顔が現れて……」


「え……」


 か細い声が聞こえて彼女を見ると、ひどく青ざめていた。彼女だけでなく、なぜか翔太も顔面を蒼白させている。


 このまま続けていいものか、判断を仰ぐように京紫朗に目を向ける。すると首を縦に振ったので、一叶は他に視えたものも話す。


「その人、眼鏡を……かけていました」


「嘘っ!」


 自分の身体を抱きしめて震えだした春香に、京紫朗が目を細める。


「なにか、思い当たる節が?」


 彼女は唇をわなわなとさせて、絞り出すような声で答える。


「……わ、わからない。でも、す、ストーカーかもしれない」


 ぞわりと鳥肌が立った。自分が視たものがストーカーだったかもしれないと知って、また震えがぶり返す。


「私、スーパーで働いてて……毎日お弁当を買いに来る男の人がいたんだけど、その人がお釣りを受け取るときに、手を……握ってくるようになって……シフトに入ってるときは必ずといっていいほどお店に来るし、空いてるレジがあるのにわざわざ私のところに並ぶの」


 春香が話している間、隣から小さなうめき声が聞こえた気がして、ちらりと見る。すると翔太が真っ青な顔で黙り込んでいた。


 聞いていて気分のいい話ではないので、当然の反応だろう。一叶は彼の様子を気にしつつ、今は春香の診察中なので、彼女の話に集中する。


「シフトの時間を変えたけど、ずっとお店の前で張り込んでたのか、私がいる時間を突き止めて来るようになったわ。しかも、そのお客さんにあとをつけられるようになって、家にまで押しかけてくるようになって……」


「それは怖かったでしょう」


 京紫朗が労わると、春香は心底といった様子で何度も頷いた。


「ええ、本当に気持ち悪かった。夫がいてくれたから、その人が捕まるまで耐えられたけど、今はひとりだから……いつまた、あの男が現れるか……」


「そうでしたか……」


 京紫朗は神妙に相槌を打ち、彼女の肩にそっと手を乗せる。


「ここは病院です。警備の者もいますし、許可されている面会者以外は通しませんので、不審者が簡単に入れる場所ではありませんから、その点は安心してください」


「はい……ありがとうございます」


 そう言って彼女は靄のほうに笑いかける。


「夫がそばにいてくれてるのも、私を守るためなのかも」


 彼女が靄に心惹かれている姿を見ると、胸がざわざわとする。


(どうして……)


 どうして自分は、死者にいつまでも囚われ続けるのはよくないはずなのに、それを指摘できない後ろめたさのようなものを感じているのだろう。その理由がわからず、動悸に襲われていると――。


「井上さんに今必要なのは、理解者です。どうでしょう、数日病院で休まれて、食事と睡眠がしっかりとれるようになってから退院するというのは」


 京紫朗の声で我に返った一叶は、春香を見た。彼女は京紫朗の言葉に素直に頷く。


「それでは、また様子を見に来ますね」


 身を翻した京紫朗に続き、病室を出ると、彼女の母親が責めるような目を向けてきた。京紫朗は会釈をして、母親の前に立つ。


「娘さん、今は落ち着かれていますよ」


「その場しのぎの気休めを言っても意味ないわ」


 一叶が霊がいると言ったことを咎めているのだ。母親に睨まれて肩身が狭くなる。


「はい、ですが先ほどは自傷の危険もありました」


 京紫朗は看護師から、そのときの様子を聞いたのだろう。


 病室から少し距離を取るように、京紫朗が母親をナースステーションのほうへ促す。


「死別の悲しみを乗り越えるには、悲嘆の感情や行動を否定せずに受け入れることが必要です」


「先生は、あの子が夫の霊が視えるなんて言ってても、認めろとおっしゃるんですか!」


「どちらでもありません。ただ「そうだったのね」と、娘さんの言葉を否定せず、その気持ちに寄り添ってあげてください。娘さんに信じてもらえなければ、どんな言葉も届かなくなってしまいます」


 母親も悩んでいたのだろう。辛そうに表情を歪めて俯く。


「お母さんも大変でしたね」


 京紫朗が肩に手を乗せると、母親は「ううっ」と嗚咽を漏らしながら涙を流した。


 そこで気づいた。母親の怒りは娘になにもしてあげられないという気持ちから来ていて、ぶつける相手がいないから一叶たちに向けていたのだと。


 そんなことにも気づかないで、一叶はわかってもらおうと喋るばかりだった。必要だったのは、娘を支えようとする母親の頑張りを労わることだったのに。


 京紫朗はそれを瞬時に悟り、母親の感情を引き出した。京紫朗ほど経験を積めば、自分にもできるようになるのだろうか。患者と、その家族の心を汲み取れる医者に。


「大切な人を亡くしたとき、一番大事なのは亡くなった人への気持ちを吐き出して、きちんと悲しむことなんです。その過程でその人がこの世にはいないということを認識します。逆にそれができていないから、旦那さんがまだいるように感じるんです」


「じゃあ、私はどうしたら……」


「きちんと悲しめるような環境を作ってあげましょう。栄養状態なども見つつ、休息を兼ねた入院を数日ほどしていただいて、遺族がサポートを受けられる『グリーフ・ケア』などでカウンセリングを受けてもらえるよう促していきましょう」


「わ、わかりました」


 母親は先ほどとは打って変わって、京紫朗の話に真剣に耳を傾けている。


「どうか、娘をお願いします」


 深々と頭を下げる母親にお辞儀をして、一叶たちはB館へ繋がる渡り廊下へと向かった。


 ガラス張りの渡り廊下に差し込む光は、白いフィルターのように、人も世界も輪郭を曖昧で朧げにしている。


「水色さん、きみにはあれがどう見えていますか?」


 歩きながら唐突に問われ、一叶はきょとんと目の前の京紫朗の背を見る。


「あれ……というのは、黒い靄のことですか?」


「きみには靄に見えるんですね」


 京紫朗は足を止めて、こちらに向き直る。


「でも、きみは視える人間です。視ようとしてこなかったから曇っているだけで、視ようとすればもっと鮮明に視えるようになります。霊視れいしは感受性を豊かにしていくことで研ぎすまされていく第六感ですからね」


「霊視……?」


「はい。霊を視たり、霊体と交信して情報を受け取る能力のことです。現在、過去、未来……時や場所に囚われず、物事の本質を見抜くことができます」


 途方もない話だと思うが、自分が視たものを伝えたとき、春香はすぐに自分のストーカーだと言った。白昼夢と現実が一致していたのだ。自分に特別な力があるとは思えないが、否定もしきれない。


「こう言うと、どこかの詐欺師のように聞こえてしまうかもしれませんが、私にはオーラが視えます」


 ぽかんとする一叶たちに、京紫朗はおどけるように笑う。


「オーラというのは物体や人が発する霊的エネルギーのことです。生命力、感情や本質、霊性のオーラからなり、それらがいくつかの階層になって視えるのですが、なにがわかるかというと、その人の性格や置かれている状態、能力などがわかります」


「じゃあ、松芭部長はオーラを視て、俺たちを選んだ……?」


 翔太は目をぱちくりさせながら言う。

 出会い頭に水色さんと呼ばれた理由が腑に落ちた。あれはオーラの色のことだったのだ。


「そうです。きみたちのように霊性のある人たちは色に光が混じって視える。死が近かったり、霊に取り憑かれている人間のオーラは黒く視えます。彼女もそうです」


「彼女って、井上さんですか?」


 一叶が聞き返すと、京紫朗は頷く。


「はい。そばにいるのが大切な人の霊だったとしても、死者と生者は真逆の性質を持つ存在です。一緒にいれば、生命力を奪われてしまう。ですが、夫がいると信じきっているうちはその死を認められず、霊も人も前に進めない」


「霊も……。早く離れないといけないんですね……」


 わかっていても、簡単に受け入れられるものでもない。


 生きているうちになにかできたのではないかという後悔。

 支えを失ってしまったような心細さ。

 自分だけ先に進んでいいのかという罪悪感。

 ひとりで生きていくのが怖い。


 だから、見えなくてもそばにいると思いたいのではないのだろうか、お互いに。


「自覚してない傷を人は治そうとはしない。まずは現実を受け入れてもらうことからだな」


 翔太は俯き加減に、「ま、それがいちばん難しいんだけど……」と付け加えるように呟く。


 人間は知らないうちに、たくさんの傷を負っているのかもしれない。日々の忙しさからそれを見過ごして、気づいたときには病気になっているのだ。


「きみも、ほどほどに」


 京紫朗は一叶に向かって、そう言った。


 どきりとした。なぜ、悪いことをしているのがバレたみたいな気持ちになるのだろう。


 どういう意味ですか? そう尋ねたいけれど、答えを聞きたくない。


 わけのわからない不安に内心動揺していると、


「……除霊とか、もう俺たち医者の仕事じゃないんじゃね?」


 これは偶然だろうか、京紫朗の視線を遮るように翔太が前に立った。


(助け舟を出してくれた……?)


 一瞬そう思ったが、エスパーじゃあるまいし、と心の中でかぶりを振る。


「これは除霊ではなくて、立派な治療ですよ。さ、このあとはどうしますか? 霊病科に戻ってもいいですが……」


 京紫朗の視線が一叶を捉える。もう一度、機会が巡ってきたと思った。


「私は……」


 本当はあのとき、どうすることが患者のためになるのか、答えは自分の中にあった。ただ、出しゃばっていると思われるのが嫌で、口にできなかっただけで。


 けれど、それはすべて自己保身のためで、患者のためではない。自分が患者なら、そんな医者に診てもらいたくなんかないはずだ。


「く、九鬼さんたちが担当してる患者にも会って、霊がそばにいるかを確認……したいです。私の情報が、治療に役立つかもしれないので」


 その答えを聞いた京紫朗は満足そうに唇で弧を描く。


「合格です」

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