1章 いわくつきの診療科③

 チン……と静かな音を立て、エレベーターの扉が開く。全員で外を覗き込むように顔を出すと、薄暗い廊下が真っ直ぐ続いている。


 皆で顔を見合わせ、エレベーターを降りると、病棟に比べて空気がひんやりとしていた。外来患者もいないせいか、閑散としており、異界にやってきてしまったかのようだ。


「霊安室なんて、担当患者の臨終の立ち会いで一度行ったきりだよ」


 エリクはケロッとした様子で先頭を切るように歩いていく。


 数こそ少ないけれど、担当患者の臨終の立ち会いは研修医の必須研修のひとつなのだ。


 一叶たちは段々と口数が減り、ついに廊下の突き当りまで来た。隣の霊安室と同じ造りの扉の前で足を止める。


「こんな隅に【霊病科】なんてあったんだ」


 翔太は扉についている【霊病科】と書かれたパネルをまじまじと見つめていた。


「お、オリエンテーションでも案内されてない……ですよね」


 皆で呆然と霊病科の前で立ち尽くしていると、和佐が舌打ちをした。


「突っ立ってても時間の無駄だ。勝手に霊病科に任命してきやがったあの上司に直談判してやる」


 ドアの取っ手を乱暴に掴んだ和佐が勢いよく開け放つ。


 そこは十畳ほどの広さの部屋だった。左右の壁際にはパソコンが載ったデスクが並んでいる。他にも小型の冷蔵庫と、電子レンジやポットが載った棚が設置されていた。


 中央には大きな楕円型の会議用テーブルがあり、その誕生日席に見覚えのある顔が座っていた。積み上げられた書物とファイル、そしてタブレットに囲まれている彼はパソコンを閉じると顔を上げる。


「さっきぶりですね。ひとりふたりは来ないと思っていたんですが、全員来てくださるなんて、幸先がいい」


 出会ったときのように、にっこりとする京紫朗を和佐が指さす。


「出たな、インチキ占い師!」


「人を指さすなって注意してた本人がこれだもんね」


 エリクが子供みたいに唇を突き出した。なんというか、ここに集められた人間は部長を含め、個性的だと思う。


「はは、今年は活きががいいですね」


 そう言った京紫朗は、すっと怪しげな笑みを浮かべた。


「ひとりくらいは生き残りそうです」


 不穏な一言に、全員が黙る。


「生き残るってなんすか?」


 皆の気持ちを代弁したのは翔太だった。


「立ち話もなんですし、まずは座りませんか?」


 初対面のときからではあるが、優しい口調に有無を言わさない圧力がある。皆もそれを感じ取ったのかもしれない。どかっと雑に腰掛けた和佐以外、戸惑いながら着席する。


 各席の前には【霊病医学】と書かれた分厚い書物とホチキスで止められているオリエンテーションの資料が数枚、タブレットとPHSピッチが一台ずつある。


「改めまして、私は霊病科、オカルトメディカルチームの部長、松芭京紫朗です」


 和佐は京紫朗の隣の席で腕を組み、片目で胡散臭そうに京紫朗に視線をやる。


「で? その霊病科っていうのは、なんなんですか?」


 新人にふてぶてしく問われても、京紫朗は気分を悪くした様子もなく答える。


「各科の依頼を受け、霊によって引き起こされた病を診る診療科のことです」


「マジか……」


 和佐の向かいに座っている翔太は少し目を輝かせたように見えた。いや、きっと見間違いだろう。ここで喜ぶ要素がない。


 ここで二年研修してきたが、きさらぎ総合病院は多くの患者を抱えるだけあって医師の腕もよく、学ぶことも多かった。その都内屈指の総合病院が本気でオカルト専門の科を設置しているだなんて、それどころか国も公認だなんて、唖然とする以外にない。


「霊病科フェローとなるきみたちがこれから目指すのは……霊病医」


「霊病医……」


 手元の霊病医学の書物に視線を落とす。信じられないことに著者は【厚生労働省】となっている。


「病院は日々生死の狭間を行き来する患者たちで溢れています」


 顔を上げると、京紫朗は天井を仰いでいた。


「あの世とこの世の境界に存在していると言ってもいい。ここには〝いろんな意味〟で死に近い者が集まりやすいんです」


 京紫朗はそう言って、こちらに向き直る。


「霊は肉体であれば臓器にも憑りつき、精神を病ませ、ありとあらゆる霊症を起こします。あ、霊症というのは霊によって起こされる症状のことです」


 京紫朗は片手で医学書を持ち上げ、微笑する。


「この『霊病医学書』を差し上げますので、随時それを見ながら知識を習得していってください」


「あの……霊病は現代医療で治せるもの……なんですか?」


 一叶が控えめに手を挙げて尋ねると、京紫朗は医学書を置いて困ったように笑う。


「いえ、霊病の場合、救命措置として現代医療を施すことが大半で、治すには根本的な治療――霊病に対して特殊なアプローチが必要になります」


「特殊なアプローチ……?」


「ざっくりいえば、霊病の原因を突き止めて解決することです。霊病疑いの患者を現代医療と霊病の二方面から診て、本当に霊病かどうかを検査、診断し、霊病でなければ適した科に患者を任せ、霊病であれば私たちが治療をする。流れはこんな感じです」


 京紫朗はテーブルの上で肘をつき、両手を組む。


「そういうわけで、霊病医には様々な専門性が必要になるんです。その上、特殊な体質や能力を持っている医師でないとならず、数が少ない」


「だから強制労働させんのか」


 和佐が不愉快そうに顔を顰める。


「ええ、そうなんです。心になにかしらの問題を抱えている人が霊の影響を受けやすいことがわかっています。世が世ですから、患者数も年々増加していて人手不足でして」


「世が世?」


 エリクが首を傾げると、京紫朗は白衣のポケットからスマートフォンを取り出し、目の前で軽く振って見せる。


「病は気からとも言うでしょう? パンデミックによる失業、職場の人間関係、最近ではネットリンチ……心に闇を抱えた人たちが多いんですよ」


 他にも過労や生活困窮、育児や介護疲れ……様々な要因が人を死へと誘う。ストレスはどんな感染症よりも手強い病原体だ。そういったものが霊を呼び寄せるのだろうか。


「混乱を避けるために表立って公表はされていませんが、 国も霊病による死亡者数の増加を問題視しています。ですが、霊の存在はなかなか受け入れがたいようでして」


 京紫朗の顔に若干の疲れが滲む。


「うちの病院でも強制配属が決まった時点で半分、一度目の仕事で残り全員が退職するのはざらでして。稀に三か月持った方もいたのですが、目の当たりにした心霊現象に精神が耐えられず、今や私しか残りませんでした」


 だから、京紫朗を見たことがなかったのかと納得する。今までもいろんな科を回って診ていたのだろうが、たったひとりでやっていたのだから遭遇する確率は低い。


「霊病医の素質がある者は少なく、定着率も悪い。その関係で期間を定めざるを得なかったんですね」


「兵役かよ」


 和佐の例えは過激だが、まさにその通りだ。


「そうですね。ですが、この民主主義国家で表向き働き方の強制はできませんから、配属を言い渡された病院を退職して他病院で就職をすれば霊病科以外で働ける……という逃げ道は残されているんです」


「ん? でも、転職先の病院でも霊病科に配属されたら……?」


 エリクの指摘に、京紫朗以外の全員が「あ」となる。


「ええ。大きい病院にはほとんどが非公式ですが、霊病科があります。ここを辞めても、一度目をつけられた者は高確率で配属されるでしょうね。つまり、堂々巡りです」


 京紫朗は満面の笑みで言い放った。


 皆、一斉に悟る。これは、逃げられないということでは?


「霊病は自然と治癒する者、一生付き合っていかなければならない者、さまざまいます。この辺は、普通の病気と変わりありません」


 笑みを消さずに淡々と話していた京紫朗の表情が、ふと真剣なものへと変わる。


「ですが、霊病は精神病と混同されやすく、見落とされがちです。霊病医の介入がなければ大抵は霊症を止められず、患者は……命を落とすでしょう」


 衝撃を呑み込むように、一叶たちが息を詰まらせた。次の瞬間、和佐がテーブルを叩いて立ち上がる。


「勘弁してくれよ!」


 室内が水を打ったように静まり返った。


「俺は外科医になりたいんだ! なのにどうして、邪魔ばかり入んだよ!」


 まるで、前にもその道を妨げられたかのような言葉だった。


「勇猛果敢、常に真正面から勝負に挑んでいき、天性の才能と勝負強さで大概は成功を収めることができる。ただ、物事が思うように進まなくなると焦り、ドツボにはまってしまう赤色くん……いえ、九鬼くんは赤鬼くんのほうがしっくりきますね」


「またか」


 和佐は忌々しそうに言う。エリクが「また?」と聞き返すと、和佐はため息をついた。


「俺を霊病科に誘いに来たときも、そう言ってたんだよ」


「それ、俺もなんだけど」


 翔太も困惑顔で京紫朗を見ている。


 和佐の隣でエリクが「僕も僕も!」と手を挙げてアピールしていた。どうやら性格占いを受けたのは、一叶だけではなかったようだ。


「それとの付き合い方がわからないうちは、きみは手術室に入っても動けないのでは?」


「……! あんた、どこまで俺のことを知って……」


 一叶にはなんのことだかわからないのだが、和佐には心当たりがあるらしい。悔しげに顔を歪めていた。


「あなた方は各々、普通ではない自分の体質に悩んでいるはずです。霊能力や超能力といった類のね」


 図星を指されたのは一叶だけではないのか、皆が思わず息を呑む。


「ここにいれば、その体質を治せるかもしれませんし、力をうまくコントロールできるようになるかもしれない。きみたちにとっても、メリットはあるはずです」


 その言葉は一叶にとっては魅力的だった。あんなもの、視えないに越したことはない。


 和佐は「くそっ」と言って椅子に座り直す。皆、渋々といった顔ではあったが、残ることに決めたのか席を立たない。


「さて、オリエンテーションはここまでにしましょう。さっそくですが、カンファレンスを始めます」


 カンファレンスとは患者情報や起こっている健康問題を参加者で共有し、解決策を考える会議のことだ。


「今日から皆さんに担当してもらう患者のカルテは、皆さんの前にあるタブレットで確認してください」


 タブレットはカルテの観覧や記録、様々な検査依頼などができる。霊病科に来る前から使ってきたものだ。


「今回担当する患者は五人です」


 想像した以上に多く、皆の「えっ」という声が重なった。


 先ほど京紫朗から数が増えているとは聞いていたが、これまで自分を除いて霊に悩まされている人に遭遇したことがなかったので驚いた。


「まずは夜間に救急搬送されてきた四名の患者からです」


 タブレットを見ると、すでに霊病科が診る患者のリストが出ていた。


「全員、二十歳男性。同じ大学の二年生でテニスサークルの仲間同士、居酒屋で飲んでいたところ突然、大量の水を複数回嘔吐」


「水を? 居酒屋で溺れでもしたのか?」


 和佐は冗談を交えつつも険しく眉を寄せ、タブレットを覗き込んでいる。


「救急隊の報告では溺れたとしても、あんなに水は吐けないとのことでした。まるで、体内から無限に湧いてきているようだと。でもすぐに、吐いた痕跡は跡形もなく消えた」


 エリクがタブレットから顔を上げる。


「え? 救急隊員がそういう幻覚を見たってことですか?」


「救急隊員だけではありません。患者本人も本気で吐いたと思っています。対応した救急隊員たちはよほどショッキングだったようで、パニック症状を起こし、今は休みをとっています」


 京紫朗の説明で場の空気が一瞬にして冷え、皆の表情が張り詰めた。


「水を吐いたのは幻覚かもしれませんが、患者の身体には実際に異常が起こっています」


 一叶は京紫朗がタブレットに視線を落としたのに合わせ、入院時の記録を確認する。


「一時期深部体温が35℃台、SpO2エスピーオーツーが88%台まで低下、軽度の低体温症、低酸素血症状態に陥りました。病院到着後は、すぐに症状が治まり、バイタルは安定」


 バイタル――バイタルサインは脈拍、呼吸、体温、血圧、意識レベルといった生命徴候を指す医療用語のことだ。


 人の体温には脇など身体の表面から測定する皮膚体温と、脳や内臓など身体の内側で測定する深部体温があり、深部体温が三十五度以下になると軽度低体温症になる。


 一方、SpO2は酸素レベルがわかる値だ。90%未満だったということは我慢できないレベルの呼吸苦があったはずなのだが、どうやって危険な状態から回復したのだろう。


「『集団ヒステリー』みてえなもんか? 水を嘔吐したって患者の思考が救急隊員にも伝染してパニック症状を起こし、同じ妄想が見えた」


 和佐の見解に翔太が難しい表情で首を捻る。


「でも、集団ヒステリーが起きるのは学校のクラスメイトとか、宗教団体とか、心理学的に結びつきが強い集団の中でだ。救急隊とその大学生たちは会ったばかりで、集団ヒステリーを起こすほどの心理的な結びつきはないと思う」


 エリクは「確かに」と相槌を打ち、頷く。


「それに集団ヒステリーは感受性や非暗示性が高くて共鳴しやすい若い女の子のグループに多いよね。男子大学生四人組だけならまだしも、会ったばかりの成人男性まで集団ヒステリーにかかるなんて、結構稀なケースじゃない?」


 和佐は舌打ちをする。


「なら、てめらはなんだと思うんだよ。人の意見を否定してばっかいねえで、他の可能性を言ってみろよ」


 和佐に睨まれたエリクは、呆れたように反論した。


「あくまで和佐くんの可能性を皆で吟味しただけでしょ。もう、なんで否定されたってとるかなあ」


「早く劣等感と、さよならできるといいね」


 タブレットを見たまま興味なさげに言う翔太に、和佐が「んだと?」とまたも噴火しそうになったので、一叶は慌てて口を挟む。


「で、でも、私も『感応精神病かんのうせいしんびょう』かもと思ってたので、九鬼くんと同じだなと……」


「ああ? 同情でのっかってくるんじゃねえ」


 目から光線が出るのではないか、和佐が睨むとそれほどの威力を感じる。


「ち、違いますっ、違いますっ」


 ぶんぶんと頭を振れば、京紫朗は小さく吹き出した。


 和佐はむすっとしていたが、他の皆が呆気にとられたように京紫朗を振り向く。


「きみたちは仲良くなれそうだね」


(――どこが!?)


 そう心の中でツッコミを入れたのは、一叶だけではないはず。


「水色さんの言う感応精神病は、集団ヒステリーと似ている病気ですね」


 水色さん……に対して、皆がツッコミを入れたそうにしているのを肌で感じるものの、今はカンファレンス中だ。皆、物言いたげではあるが黙っている。


「ひとりの妄想が他の人にも共有される現象……こちらは短時間で終わる集団ヒステリーとは違って長い間続きます」


「はい……ですがこれも、強く気持ちが繋がっているふたりや、それ以上の集団に起こるとされているので、央くんやエリクくんの意見を聞いて違うかな……と」


「そうですね。これは単なる妄想ではない。対応に当たった宿直医は聴診で両肺に水泡音のようなものを聞いたそうで、胸部レントゲンを撮ったところ、映っていたんですよ」


 京紫朗の話を聞きながら画面をスクロールし、レントゲン画像をタップして拡大すると――。


「ひっ」


 思わず悲鳴をあげてしまう。


「ムンクの叫び……?」


 翔太の言うように、レントゲンには人が叫んでいるような白い陰影が映っており、和佐も眉をひそめる。


「しかも四人共かよ」


 救急で入った他の三名のレントゲン画像も確認すると、同じ白い陰影があった。


 これは医学的に見れば、肺に腫瘍や炎症などの病変があると写るものだ。不整な円形に近いと肺癌、境界がぼやけて不明瞭な場合は肺炎や肺結核などが疑われる。


「これは肺炎……?」


 首を傾げながら、レントゲンが撮られた時間のバイタルサインを確認する。


「でも、これが撮られたときはとくに発熱もしてない……」


 溺れるような環境下ではないものの、患者には溺水したときと同じ症状が起こっている。溺れた際、汚い液体を誤嚥すると肺炎が生じたりするので、念のため喀痰の培養検査や炎症と感染の兆候を見るための血液検査を確認してみる。


「CRP、B-D-グルカンも異常なし……」


(なら、このムンクの叫びのような白い陰影はなに?)


 人間、誰しも得体の知れないものを恐れる。だから一叶も根拠に基づいた現実的な答えを必死に探そうとした。けれど、むしろ霊的な力が働いているという証拠しか出てこない。


「はい。白い陰影があるも発熱はなし、血液データ上でも炎症や感染の兆候はみられない。今のところ溺水に伴う肺炎等はないと判断されていますが、症状が治まったあと何度確認しても肺雑音とレントゲン画像の異常は残っているそうです」


 肺雑音というのは肺の音の異常を表す単語だ。患者の肺から聞こえた水泡音は一般に肺炎や気管支炎などで生じるとされている。


 数時間おきに頻繫に撮られているレントゲン画像と、バイタルサインの測定記録が担当医の焦りを物語っていた。


 原因不明の溺水症状なんて聞いたことがない。皆もそうなのか、カルテを見て困惑している。


「この患者たちがうちの科に回された理由がわかるでしょう。独歩可能で既往歴もなく、現在は一般病棟に移っていますが、原因がわかるまで精査入院になっています」


 カルテを見ていよいよ、怪奇的な症例は現実に存在するのだと実感した。


 初っ端から衝撃が強すぎて、混乱の嵐だ。皆も口数が明らかに減っている。


「続いて、精神科病棟に入院している井上いのうえ春香はるかさん、三十歳女性」


「あ……」


 彼女のカルテを見た翔太が声を発した。


 皆の視線を集めていることに気づいた彼は表情を僅かに陰らせ、ふいっと顔を背ける。


「俺、ここに配属になるまで精神科で研修してて、この患者のことも知ってたっていうか……一年前に癌で夫を亡くしてる。その頃から不眠と食欲低下があって、倦怠感も強く出てるから仕事にも行けなくなった」


「緑色くんの言う通りですよ」


 緑色くん……と、またも全員の思考が一気に持って行かれそうになったが、きっと例の性格占いにちなんだあだ名だろう。ひとつひとつ突っ込んでいたら、カンファレンスが先に進まない。ただでさえ、奇妙な症例の連続で質問が追いつかないのだから。


「患者は『夫の霊がいるの』と幻覚を見ているような発言を繰り返しており、一年経っても改善されず、心配した両親に連れられて外来を受診。『遷延性悲嘆障害ちえんせいひかんしょうがい』と診断されて任意入院になりました」


 親しい人との死別による悲しみは、時間が少しずつ癒していってくれる。だが、数年経っても死別直後の悲嘆や苦痛がずっと続くことがある。そのような状態を呼ぶ障害だ。


「患者は夫の存在を認めてくれない両親や医者を信じていません。食事も薬も拒んでいる状態です」


 患者のカルテを見るとBMIが17と瘦せ気味で、一週間で体重が3kgも減少しているために栄養補助剤を処方されている。


 隣を見ると翔太は思い詰めたように俯いており、膝の上で拳を握り締めていた。


「死別後、数週から数か月は亡くなった人の夢を見たり、声を突然聞いたり、その姿を見たりすることがあるっていうけど、井上さんの場合は一年もその状態なんだ。本気で、旦那がいると思ってる」


 初対面では素っ気なさそうに見えたが、自分のことのように悩んでいる翔太は患者に感情移入しやすい人なのかもしれない。


「はい。まずは夫の霊がいるのかいないのかを確かめましょう。妄想であれば否定も肯定もしないこと」


 妄想は恐怖や不安を感じるような内容が多く、また本人がそれを妄想であると認識できないのが大半だ。妄想への対応としては、妄想に対して否定も肯定もせず、不安な気持ちに共感し、安心感を与えることが重要だ。


「患者の敵ではないことを理解してもらい、適切な治療を受けさせ、徐々に現実を自覚してもらうよう関わるのが我々の仕事です。霊病医なら、夫の霊の存在を信じている患者に信頼されやすいでしょうから」


 京紫朗はそう言って、タブレットをテーブルに置く。


「さて、誰がどの患者を担当しますか? 各々、能力を最大限に生かせる場所にいくように」


 改めてカルテに視線を落とす。


 能力というのは医者としてだけではなく、霊的なほうも含めてということなのだろう。皆がどんな能力を持っているかは知らないけれど、少なくとも自分には視える。


 どちらの患者にも会って、霊がそばにいるか確認したほうがいいのだろうけれど……どちらも診るなんて出しゃばりすぎだろうか。


 どうするべきか考えぐねていると、翔太が静かに口を開いた。


「俺は……精神的ケアがいる井上さんで」


「僕は水吐いた大学生四人組かな」


 エリクもすぐに決めてしまい、急がなければと焦る。


「あ、わ、私は……」


 慌てる一叶を、和佐が黙れと言わんばかりに睨んだ。


「俺も水吐いた大学生共だ。せめて医療っぽい案件じゃねえと実績にならねえし」


 それを聞いた京紫朗は、苦笑交じりのため息をつく。


「能力のことは考えましたか?」


「……そんなん使わなくてもできるんで」


 そっぽを向いたまま不貞腐れたように言う和佐に、京紫朗は無言で困ったように微笑していた。


(どうしよう。九鬼くんとエリクくんが大学生四人組を診るなら、人数的に私は央くんのほうに行ったほうがいいよね。でも……)


 京紫朗は能力のことを考えてと言っていた。視える自分がどちらの患者にも会うほうが、彼らの症状が霊病によるものなのか、早く断定できるのではないだろうか。

 そう思って口を開こうとすると、喉に圧迫を感じた。


「あ……っ、う……」


 翔太が「魚住?」と自分を呼んだ気がした。和佐はぴくっと眉を動かし、怪訝そうに一叶を見ている。


(苦しい……!)


 まるで、見えない手に首を絞められているかのようだ。


『あなたは私がいないと、なにもできないんだから』


 母の言葉が頭の中に響く。


(ああ、そうだ。余計なことをするのはやめよう)


 抵抗するのをやめたおかげか、首の締めつけがすうっと引いて行き、一叶は深く息をついた。


「あ……私は、央くんといきます」


 新人のくせに、あれもこれも診れますなどとでしゃばって、なにもできなかったら? また、皆にお前はなにもできない、とろくさいと笑われる。


(これでよかったんだ)


 もともと自分で決めることが昔から苦手だった。いつもは母がこうしろああしろと言ったほうに進んできたから。


「本当にいいんですか? 水色さん」


 京紫朗にそう呼ばれて、出会ったときに彼から言われたことが蘇る。


『自由と解放を求めている〝水色さん〟』


 まるでまだ縛られている気かと言われているようで、京紫朗の顔を見れなくなった。


「はい……」


 その答えは期待外れだったのか、京紫朗は残念そうに言う。


「きみは勤勉な医者だと指導医の岩脇先生から聞きましたが……自己主張が苦手で活躍の場を逃してしまうところがある。それは医術を学ぶうえで大きな損です」


 自分の欠点をはっきりと指摘され、酷く落ち込む。


 長いこと、自分の意見が言えないことに悩んできた。答えがわかっているのに、学校でも研修中も、他に人がいるときは進んで発言することはほとんどしなかった。


『私が言ったとおりにしたから、あなたはテストでもいい成績を収めて、医大にも受かったの。だからこれからも、私の言う通りにしていればうまくいくわ』


 実際、母の言う通りだった。すべて、一叶が成し遂げたことではない。だからそれを言われてしまうと、自分の意見を言えなくなる。


(もしかして……)


 自分の話を聞いてもらえるわけがない、どうせなにを言っても否定される。そう思ってしまうのは……母がそうだったから?


 受け身の姿勢が癖になっていた。そうして声をかけてもらうのを待っている間に、チャンスを逃してばかりだった。これから先も、自分はそうして生きていくのだろうか。


 出口の見えないトンネルを延々と進み続けているような気分でいると、ふいに視線を感じた。隣を振り返れば、翔太がなにか言いたげにこちらを見ており、目が合うと即座に視線を逸らされる。


「……?」


 一叶が首を傾げていると、京紫朗が腰を上げた。


「それでは私は頃合いを見て行きますので、皆さんは今まで通り担当患者の診療を始めてください」


 PHSをポケットに入れ、タブレットを手にすると、一叶は皆と共に立ち上がり、ぞろぞろと霊病科を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る