1章 いわくつきの診療科⑤

 エレベーターで内科病棟のある階に降り、患者のいる大部屋に行くと扉が開いていた。


 中を窺うと、男子大学生たちがベッドの上で電気毛布を被り、ガタガタと震えている。


 和佐とエリクが彼らと話しており、そばには内科病棟の看護師がひとり控えていた。


 皆、髪色も明るく今どきの子という感じだ。気になるところがあるとすれば、病室の時計をしきりに見ていることだろうか。それにエリクも引っかかったらしい。


「さっきから、みんな時間が気になるのかな?」


 その問いに、男子大学生たちは俯いて黙り込んでしまう。


 エリクは和佐のほうを見て、肩を竦めた。


 対する和佐は、横目でエリクの視線を無機質に受け止めるだけだった。


 エリクは気を取り直すように、再び男子大学生たちに尋ねる。


「みんなはテニスサークルに入ってるんだってね。運ばれてきた日も飲んでたみたいだけど、変なものを口にしたりはしなかった?」


 男子大学生たちは首を横に振った。

 問診に協力的とは言えない彼らにしびれを切らしたのか、和佐が切り込む。


「水を吐く幻覚以外に、体調に気になることは?」


 男子大学生たちは俯いて、恐々とした様子で重い口を開いた。


「身体中、寒気がして……冷え性になったかも……」


 初めに返事をしたのは、廊下側のベッドにいる襟足の長い茶髪の男子大学生だ。


 きさらぎ病院ではベッド番号がカルテに記入されており、それと照らし合わせると、彼が【佐藤さとう雅之まさゆき】だとわかる。


「お、俺も、風邪を引きやすくなった……と思う」


 雅之に続いたのは、彼の隣の窓際のベッドにいる島袋しまぶくろとおるだ。


「今朝の深部体温は……」


 エリクがタブレットを確認する前に、看護師が答える。


「皆さん、直腸温で35℃台です」


「悪寒もあるし、手足の冷感の自覚もある。やっぱり軽い低体温症だね」


 低体温は免疫力の低下に繋がり、 細菌やウイルスなどの病原体に感染しやすくなる。風邪をひきやすくなったのは霊症のせいではなく、霊症に伴う身体の生理現象だろう。


 ありがとう、とエリクがにこりとすると、看護師が頬を染めた。それを眼中にも入れず、和佐が問う。


「全員、いつからそういった症状を自覚し始めた」


 すると男子大学生たちは声を揃えて言う。


「一週間前から」


 その一致ぶりに和佐たちは目を見張った。

 入口で様子を窺っていた一叶たちも戸惑いながら視線を交わす。


「ひとまず、胸の音を聴くぞ」


 和佐は聴診器を耳につけながら、雅之の向かいのベッドにいる佐伯さえき弘樹ひろきに近づく。そして、病衣の上から背中に聴診器を当てた。


 音を聞いている和佐は段々と眉を寄せ、険しい面持ちで聴診器を離すと、エリクを見る。


「――おい、ぼんぼん。そっちの患者の肺の音も聞いてみろ」


 エリクは不思議そうにしながらも、透の正面のベッドにいる倉田くらた健二けんじの背に聴診器を当て、すぐに顔色を変えた。


「なんか、深い水の中にいるみたいな音だ……そこに唸り声みたいなのが混じって……こんな音、聞いたことがないよ……!」


 ぞっと水を浴びたような戦慄に襲われたのは、一叶だけではないだろう。


「お前たち、これが普通の状況じゃねえことはわかってんのか? 本当に思い当たることはねえんだな?」


 和佐が念を押すように再度尋ねると、


「知らねえよ!」


「そ、それを見つけるのが医者の仕事だろ!」


 雅之と透は怒ったり、八つ当たったりと剝き出しの感情を露わにした。


「気持ち悪いっ、なんだよ、水の音って!」


 弘樹は自分の身体を掻きむしるようにしながら取り乱し、健二は無言で頭を抱えて震えている。


「……これなら、撮れるかも」


 ぼそりと呟いたエリクは健二の正面に立ち、レントゲンフィルムを翳した。


「はい、息を吸ってー」


 健二は「え……?」と困惑気味にエリクを見た。


「はい、止めてー。カシャッと!」


 彼が大きく瞬きをすると、青いフラッシュのようなものが焚かれ、レントゲンフィルムからぶわっと青い炎が上がった。エリク自身は熱くないのか、炎がフィルムの上をバチバチと焼きながら消えていく間、それから手を離さない。


「マジか……」


 隣で翔太が呆然としている。

 一叶も目の前で起こったことを受け入れられないでいるのだが、まだ青いフラッシュの残像が残っているので、見間違いではない。


「やっぱ撮れた、心霊写真」


 エリクは自分の身体の前でレントゲンフィルムを見せる。


 思わず「ひいっ」と小さく悲鳴をあげてしまった。


 そこに映っているのは患者の肺のレントゲンなのだが、病院で撮られたものよりもくっきり、鮮明に長い髪の女が叫んでいるような白い陰影が見える。


「水色さん、近くに霊はいますか?」


 病室を見据えたまま、京紫朗が問いかけてきた。

 一叶は改めて患者たちを視てみる。だが、春香のときのようにそばに靄の存在はない。


「靄が視えないので、いないと……思います」


 京紫朗を見ると、彼は顎に手を当てて考え込むように下を向いた。


「そうですか。彼らのオーラは黒……死の色が視えるのですが、もしかしたら身体に憑いているのかもしれませんね」


 恐怖が背筋を走り抜けた。

 そういえばオリエンテーションで、京紫朗が霊は肉体であれば臓器にも取り憑くと言っていた。


(じゃあ霊は、あの子たちの身体の中にいるってこと?)


 なんてことないように京紫朗は可能性を述べていたが、一叶と翔太は驚きやら恐怖やらで声を発せない。


「お前……」


 和佐はレントゲンフィルムとエリクを交互に見つめ、気味悪がっている。


 そこでようやく、京紫朗が室内に足を踏み入れた。


「黄色くん、他の三人の念写ねんしゃもお願いしますね」


「松芭部長……と、なんでてめえらもいんだよ? 盗み見か」


 和佐は病室の入り口にいる一叶たちに気づいた途端、不機嫌になる。


「黄色くんもとい、エリク先生の力は透視とうし念写です。物体や人の中にあるものを読み取って、レントゲンフィルムに焼き付けることができる」


「うわ、僕、このこと母さん以外に誰にも話したことなかったんだけどなあ。院長に聞いたんですか?」


 目を丸くしているエリクに、翔太が言う。


「部長はオーラが見えるらしい。だから俺たちの力のことがわかるんだと」


「前に同じ念写能力がある方のオーラを視たことがあったので、もしかしたらと思ったまでですよ」


 エリクは疑いも恐れもせず、「へえ、そうなんだ!」と、ただただ興味津々といった反応を見せた。


「といっても僕は、読み取ったものはなにかに焼き付けないと認識できないんだけどね」


 そう言って、エリクは肩を竦める。


 前々から天真爛漫という言葉が似合う人だとは思っていたが、あまり細かいことに囚われない人なのかもしれない。


「これでわかりましたか? 普通では起こりえないことが、この世では起こるんです」


 京紫朗は男子大学生たちの顔を見回し、これで最後だとばかりに笑顔で問う。


「なにか、私たちに話しておきたいことはありますか?」




 霊病科に戻り、皆で会議用のテーブル席につくと、エリクが頬杖をついた。


「結局、なにも言いませんでしたねー」


 京紫朗に促されても、男子大学生たちは怯えに満ちた顔で口を噤んだままだった。


「なにも聞き出せてねえけど、いいんですか」


 腕組みをしながら、足を組んで椅子に座っている和佐が京紫朗にちらりと視線をやる。


「あれだけのものを目の当たりにしても、そして明らかにおかしな状況に陥っているのにも関わらず話さない。それはなぜだと思いますか」


「……話せないから」


 断言するように答えた翔太は、集まる視線を無視するようにテーブルをじっと見つめている。


「やましいことでもあるんじゃない?」


「だろうな。逆恨みでもされて、生霊でも取り憑いてんじゃねえの」


 和佐は忌々しそうにインナーの上から右腕をさすった。


 オカルトクラブに興味はないと不平を訴えていた彼だが、生霊の存在を語る声は至って真剣だった。


 実際に霊症に悩まされる患者を前にしたからというのもあるが、そもそもここに集められた一叶たちは普通ではない。他者よりも霊の存在を受け入れるハードルは低いのかもしれない。


「ふたりとも、ひねくれすぎだって。話すと命に関わるからなのかもしれないじゃん」


 エリクは両腕を伸ばしてテーブルにうつ伏せになり、だらしなくゴロゴロしながら翔太や和佐のほうを向く。


「相手にどんな事情があろうと、何者であったとしても、患者には平等に治療を受ける権利がありますから、私たちは治療をするだけです。さあ、カンファレンスを始めましょうか。まず、水色さんと緑色くんから」


「あ、ええと……」


 一叶があわあわしていると、見かねた翔太が声をかけてくる。


「ゆっくりで平気。経験値積むべし」


 親指を立てながら、翔太が励ましてくれた。そのおかげか、少しだけ肩から力が抜けた。一叶は翔太に頷いてみせ、申し送りをする。


「精神科病棟705号室の井上春香さんは、変わらず死んだ夫の霊が視えると訴えています。実際に、そばにはそれらしきものが……」


「なんでそう言い切れんだよ」


 和佐に疑わしげな目を向けられ、一叶は獣に睨まれたかのような気分で首を窄めた。


「あ、それは……」


 一叶がどんどん縮こまると、翔太が小さく息をつく。


「霊視できるらしい。俺も間近で見てたし、嘘じゃない」


「そこのぼんぼんみてえに、目に見える技でも披露したのか」


「そういうわけじゃないけど」


「なら、虚言癖があるだけかもしれねえだろ」


 信じてほしいと言うほうが無理がある。わかってはいるけれど……。


『はいはい、どうせただの注目引きでしょう』


 あのときも今も、嘘なんてついてない。そのことだけは、母に疑ってほしくなかった。


 あからさまに詐欺師扱いされて平気なほど、強靭な精神は持ち合わせていない。


 一叶が唇を噛んで胸の痛みに耐えていると、


「ぶー、大王、口は禍の元っていうことわざが日本にはあるんだよ。知らないの?」


 少しだけ身体を起こしたエリクが自分の唇を摘みながら、もごもごとブーイングした。


「けっ、うるせえ」


 和佐は鬱陶しそうにあしらう。


「……俺に嘘はつけない。俗に言うエンパスってやつだから」


 一叶の疑いを晴らすためか、翔太は言いにくそうに告白する。


 ――エンパス。生まれながらにして人の感情やエネルギーに敏感で、人並みはずれた共感力を持つ人をそう呼ぶ。最近はメンタルクリニックでも取り上げていたような……。


「ごまかそうとすれば、人間は焦ったり逆ギレしたりする。俺はその感情を自分のものみたいに感じられる。人が多いと混線して、感じ取りずらくなるけど」


 エンパスだとわかって、納得した。一叶が返答に困っていると話を逸らしたり、傷ついているときに庇ってくれたりしたのは偶然ではなかったのだ。時たま心の内を見透かされているような気がしたのも。


「い、井上さんが叫んだとき、体調が悪そうでしたよね。それもその体質が原因で?」


「そう。あえて感じようとするとダメージでかいから、そっち方面では頼りにしないで。俺は適度な距離でしか、人とは付き合わないって決めてるから」


 患者だけでなく一叶たちとも一線を引いて接すると、遠回しに牽制されたようで、少しだけ寂しさを覚える。


 具体的にどう負担がかかるのかは一叶には計り知れないが、苦悶する彼の表情を見るに、かなりのものなのだろう。


‎ 一叶がわかったと応えるように頷くと、和佐が割り込んでくる。


「で‎? まさか、そっちの成果がそれだけってことはねえよな?」


「あっ、すみません!‎ まだありますっ」


‎ カンファレンスの途中であったことを思い出し、慌てて首を横に振ると話を戻す。


‎「井上さんのそばにいる霊が旦那さんかどうかはわかりませんが、いるのは事実です。ただ、気になることがありまして……」


「気になること?」


‎ エリクが首を傾げる。

‎ 一叶は自分の手のひらを見つめ、彼女に触れたときのことを思い出していた。


「井上さんの手に触れたときに、視えたんです。窓の向こうに雨と一緒にノートのページ……? が降ってくる光景と、ガラスにふくよかな男の人の顔が映るのが……話を聞いたら、井上さんのストーカーだろうって」


「ス、ストーカー!?」


‎ 大きな声をあげるエリクに俯きながら頷く。


‎ あのねっとりとした息遣いがどこからか聞こえてきそうで、ぶるりと身体が震えた。


‎ 一叶でさえこんなに気持ちが悪いのだ。春香はもっと不快だったことだろう。


「井上さん、職場のスーパーの常連客にストーカーされてたそうです。結婚してからは、なくなったみたいなんですけど……」


「じゃあ、うおちゃんの霊視が一致してたってことだよね!」


‎ エリクに尊敬の眼差しを注がれている気がする。こちらからしたら、エリクの念写のほうがいかにも超能力という感じで衝撃的だったのだけれど。


「そばにいる旦那さんの霊が危険を教えてくれたのかな」


‎ エリクの言うように、春香もそう思っているようだった。そうであったなら、どれだけいいか。


‎ けれど一叶には、はっきり姿が見えたわけではないので断言はできない。早とちりをして、春香をぬか喜びさせるのは、一年たった今も夫との別れを受け入れられずにいる彼女に酷だ。


‎ もっとはっきり視えたなら、春香を安心させてあげられるかもしれない。それが夫でないにせよ、彼女を守る誰かの存在なら──。


「……そうとは限らねえだろ」


‎ 一叶の期待を一刀両断したのは和佐だった。


「そいつの霊視がただの白昼夢じゃなきゃ、患者に憑いてる霊がそのストーカーの生霊って線もあるだろ」


‎ 和佐はあえて、『ただの白昼夢じゃなきゃ』の部分を強調したように聞こえた。


 まだ一叶のことを信じられないのだろう。嘘をついていると思われているのは悲しいが、それよりも夫と死別して、ひとりになった春香をストーカーの生霊が狙っているかもしれない、という可能性にぞっとする。


「患者に付き纏ってる霊がストーカーだった場合、旦那がいない今が狙い時ってことだ」


 和佐の言葉に、翔太が身を震わせた。青ざめた顔をしていて、今にも倒れそうだった。


「央くん、大丈夫?」


 声をかけると、翔太は「ん」と答えて頷く。エンパスゆえに、春香の感じたストーカーへの恐怖をリアルに思い出してしまったのだろうか。


「エンパスは人より受け取る情報の量が多いですからね。疲れやすいんです。緑くん、少し休憩室で休んできてもいいですよ」


 京紫朗の提案に、翔太は「いえ……」と首を横に振る。


「そういえば松芭部長、死者が生者の近くにいるのはよくないんすよね?」


「はい。いい霊であろうと、死者はそばにいるだけで生者の生命力を奪ってしまいますから」


 それを聞いたエリクは、閃いたとばかりに勢いよく起き上がった。


「なら、旦那さんとストーカーの霊が井上さんのそばにいるのはおかしくない? 井上さんが死んじゃったら、そばにいれない&付き纏えなくなるし!」


 その回答に、全員がなんとも言えない顔でエリクのほうを向く。


「え、なになに?」


 本人は全くわかっていない様子で、目をぱちぱちとさせた。


「いや、あんたって発想が……柔軟……? 順応性が高い……んだな」


「ゲームオタク、濁すなよ。さすが豆腐頭って、褒めてやれ」


 エリクはぷくっと頬を膨らませる。


「嬉しくないよ!」


 やいやいと騒ぎ始める皆に一叶もおろおろしていると、京紫朗は小学校の先生が生徒の注目を引くように手を叩いた。


「きみたち、話がまた脱線していますよ」


 皆、ばつが悪そうに黙る。京紫朗は若干呆れの混じった笑みを浮かべて続けた。


「生霊を飛ばした本人は自覚症状がないことのほうが大半なので、ストーカーがもし強い執着や執念から生霊を飛ばしていたとしても、井上さんへの影響まで心配できないかと思いますよ」


 一叶は「あの……」と京紫朗に質問する。


「も、もし旦那さんだったら、まさか自分が命を奪ってしまってるって、知らないでそばにいるかもしれない……ということですか?」


「それはどうでしょう。自分が霊だと気づいていれば、自分がそばにいることで体調を崩す奥さんを見たときに、気づけると思います。察しがよければ、ですが」


 そういうものなんだ、という顔で皆が聞いている。


 そうなると、春香のそばにいる霊がストーカーの生霊である線は捨てきれないわけで、それを夫だと思い込んで大切に思っている春香のことを考えると、先ほどよりももっとぞっとした。


「どちらにせよ、霊と人はどんな理由があれ、引き離さなくてはいけません。それが私たちの最終目標です。次は黄色くんたちの報告を聞きましょうか」


 京紫朗に促され、和佐は渋い面持ちで口を開く。


「患者たちは一週間前から軽度の低体温症だったと思われます。いつから症状を自覚し始めたかって聞いたとき、口を揃えてそう答えたんで」


「全員同じ頃から体調を崩してたって知ったら、普通驚くはずなのに、そんな素振りがなかったのも気になります。前々から、お互いに症状が出た時期について話してたんだとしても、それに対して『変だよね』『なんでだろうね』とか、もう少し狼狽えてもいい気がするし」


 エリクの話を聞きながら、和佐の問診の際に少しの間もなく、はっきりと答えた男子大学生たちの様子を思い出した。


「そう答えたときのあの子たちの怯えよう、なにかあったとしか思えない……ですよね」


 翔太も「うん」と頷く。


「こうなった理由に心当たりはあると思う。大王がいつからそういう症状を自覚し始めたかって聞いたとき、すごく焦ってるみたいだったから」


 和佐が「誰が大王だ!」と抗議するも、エリクは無視して申し送りを続ける。


「あと、あの肺雑音! 受け入れた当直医はそう表現するしかなかったんだと思うけど、水泡音なんかじゃないよ。深い水の中で誰かが唸ってるって感じだった」


「あれは恨みがましそうな声だったな」


 和佐のひと言が湿気を含んだような空気に吸い込まれて、いっそう重たく感じた。


「それと全員が時間を気にしてたんだ。なにかあるのかも……」


 エリクは腰を上げて、自分の前のテーブルに置いていたレントゲンフィルムを手に取ると、一叶のほうに向けて並べ始めた。


「うおちゃんは霊視ができるんだよね? 僕が念写したこれからもなにかわかりそう?」


 長い髪の女が叫んでいるような白い陰影が映っているレントゲンフィルム。思わず目を背けると、隣にいた翔太も嫌そうに顔を顰めた。


「出た、心霊写真……」


 霊病科に配属された以上、これからもこういうおぞましい写真を何度も見ることになるのだろうか。すでに心が折れそうだが、退職して新しい研修先を見つけたとしても、そこでまた霊病科に配属されないとも言い切れない。つまるところ、ここで一年踏ん張るしかないのだ。


(慣れていかないと……)


 意を決して、それを一枚手に取ってみる。


 ――ブク……ブクブクブクブク……。


 どこからか、重くて静かな水の音がして、意識もそこへ深く沈んでいく。


(寒い……)


 冷水をかけられたかのような寒さを感じ、レントゲンフィルムを持つ自分の腕を見ると、白衣がじんわりと濡れ始め、ペールブルーのカットソーが透けていた。全身を見下ろせば、ぽたぽたと水が床に落ち、髪も肌に張り付くほどびっしょりだった。


 歯がガチガチと鳴る。痛さを感じるほどの寒気が身体に浸みて、ガクガクと震えていると、遠くで低く呻くような不気味な声のようなものが聞こえた気がした。


 一叶はレントゲンフィルムに耳を近づける。


「魚住?」


 訝しむように翔太に名を呼ばれた気がするが、一叶はレントゲンフィルムから聞こえてくる声をなぜだかどうしても見失いたくなかった。


 返事もせずに、吸い込まれるように耳をそば立てる。


『……ァァァァ』


 音が近づいてくる。一叶はもっとと欲張るように、レントゲンフィルムに耳をくっつけた。ぐしゃりと、フィルムが歪むほどに強く。


『ァァァァァァァアアアアアアアッ!』


 徐々に大きくなっていったそれは、割れんばかりの叫び声に変わった。その瞬間、ぶはっと肺の中の酸素をすべて吐き出してしまったかのような息苦しさに襲われる。


「……っ!」


 慌てて立ち上がった一叶は、持っていたレントゲンフィルムをテーブルの上に放り投げ、喉を押さえた。


「うおちゃん⁉」


 エリクの驚く声がしたが、一叶はそれどころではなかった。テーブルに片手をつき、倒れそうになった身体をなんとか支える。


 斜め前に座っている和佐は目を見張っていた。


「はあっ、はあっ……っ、はあ……っ」


 なんとか呼吸ができるようになったものの、うるさいほど心臓が鳴っている。


「っ、平気?」


 翔太も席を立って、一叶の背に手を添えた。その瞬間、顔色を変える。


「ちょ、身体すごく冷たいんだけど」


「そ、それは、全身びしょ濡れだから……」


 かじかんだ声で説明すると、皆が怪訝そうに一叶を見ていた。


 不思議に思って自分の姿を確認する。全身水をかぶったかのようにびしょびしょだったはずなのに、今は白衣も髪も乾いて元通りになっていた。


「あ、あれ? さっきまであんなに……」


「ひとまず、これ着て」


 翔太が脱いだパーカーを肩にかけてくれる。


「ありがとう」


 翔太が「ん」と頷く。今まで彼が着ていたものなので温かく、ほうっと息をつく。


 一叶が椅子に座り直すと、翔太も自分の席に戻った。


「今視えたもの、話せそうですか?」


 京紫朗の問いに、一叶はゆっくりと首を縦に振る。


「水の音が聞こえて……気づいたら身体が水浸しになってるように見えたんです。そのあと、女の人の……さ、叫び声みたいなのが近づいてきて……」


 震える両手で首を押さえた。


「息……息ができなくて、苦しくて……」


 あのとき感じた死が蘇り、目の端に涙が滲む。


(っ、怖かった……)


 こんな経験を何度もすることになるのだろうか。今なら霊病医がすぐに辞めていく理由がよくわかる。


「霊症にかかると、まず生命維持に欠かせない体温が下がって風邪を引きやすくなるなどの体調不良が起こります」


「そういえば、井上さんも手がすごく冷たかった……」


 あのとき、触れたところから冷気が入り込んでくる感じがした。そのあとに彼女のストーカーの姿が視えたのだ。男子大学生たちも低体温が続いているし、触れてみたらなにか視えるかもしれない。


「原因不明かつ突然に起こった体温低下や人と理由もなく不和になったり、怒りっぽくなったり、死にたいと思うなどの精神状態の悪化は霊症の兆候である可能性があります」


「霊病は自分だけでなく周囲の人間にも影響が出るんですね……」


「はい。感染症と同じように患者から霊病がうつることもありますので、付け込まれないよう気を強く持ってください」


 付け込まれないように、というのは霊にということだろうか。


「気力でどうにかなるもの……なんすか?」


 翔太が顔を引きつらせると、京紫朗はにこりとする。


「はい、そのためのチームです」


 それ以上、説明する気はない。……というのが、京紫朗の笑顔の圧から感じとれる。皆、なんとも言えない顔で押し黙った。


「周囲の人間か……」


 ふと、エリクが呟く。


「僕、あの大学生の子たちの家族とか友達に話を聞いてみようかな。あの子たちが自分から話さないなら、それを知ってそうな誰かを見つけるしかないしね」


 翔太が「ん」と相槌を打ち、真剣な表情でタブレットを見た。


「こっちの患者は遷延性悲嘆障害で入院してるから、精神状態の観察だけだと足りない。もう一歩踏み込んだほうがいいと思う」


 タブレットから顔を上げた翔太は、一緒に春香を診た一叶のほうを向いた。


自殺企図じさつきとまではいかなくても、夫の霊の存在を疑われれば追い詰められて、希死念慮きしねんりょを抱く可能性もあるから」


 自殺企図は死を実行してしまうこと、希死念慮は計画や行動を起こしてはいないものの死を強くイメージしたり願望する場合を指す医療用語だ。


「実際、私たちが病室に入ったときには危なかった……よね。ナ、ナースステーション前の病室に移動できないか、相談してみるのはどうかな?」


 翔太は病室を訪れてすぐ、春香から死んでやろうという気迫を感じたと言っていた。エンパスである彼の感覚は無視できない。


「ナイス」


 翔太は表情の乏しい顔で親指を立てる。


 気恥ずかしくなった一叶は視線を彷徨わせながら俯いた。そんな一叶たちを見守っていた京紫朗が小さく笑みを漏らす。


「男子大学生たちは自分に起きていることを話したがらない。黄色くんのアプローチと並行して、水色さん。彼らの霊視もお願いできますか?」


「あっ、は、はい!」


 ……勢いで返事をしてしまったが、またあんな恐ろしい目に遭うのかと思うと気が重い。


 けれど、患者は医者だけが頼りなのだ。伸ばされた手から逃げて、ましてや背を向けるなんてできない。


「待ってください、俺の患者です。なんで他のやつが診るんですか」


 和佐が背もたれに預けていた身体を起こし、抗議する。


「松芭部長は、早く俺らを使い物になるようにしたいんですよね。そのためには、できるだけ難しい症例を多く経験する必要があるはずです」


 苛立ちを募らせている和佐に気づいているだろうに、京紫朗は微笑を浮かべたまま目を閉じて「そうですね」と返した。その動じない態度が、なおのこと癇に障るのだろう。和佐はぐっと奥歯を噛みしめたように見えた。


「その機会を特定のフェローだけに与えるのは不公平かと」


 和佐は表情でも不服を訴えている。

 京紫朗は和佐が言いたいことを言い終えたところで、静かに瞼を開いた。


「赤鬼くんは……誰のために腕を磨きたいんですか」


 京紫朗の問いに和佐は眉を寄せると、軽く頭を傾けて目を眇める。


「自分と患者のためです。医者の腕が悪ければ、患者も迷惑でしょう」


「よかった。私も患者のためを思って言っていますよ」


 テーブルの上で両手を組んだ京紫朗の笑みからは感情が読めない。ただそこにいるだけで、強い存在感を放っていた。


「仕事はひとりではできません。自己ベストよりも、患者にとってベストを尽くすことが私たちには求められる。それは知識や技術以外のところでも」


 その言葉は、一叶にも痛く響いていた。


 他人のふり見て我がふり直せとも言うが、フェローになった今、自分はひとりの医者として患者に見られる。いつまでも研修生気分で、人とのコミュニケーションが苦手だからと患者から逃げたり、教わるのが普通だと待ちの姿勢でいては駄目なのだ。もしかしたら、臨床が向いていないと思うことすら逃げなのかもしれない。


「担当患者でなくても、この病院に来た患者は私たちが助けるべき人たちです。各々得意な分野を生かして連携し、治療にあたる。それがチーム医療です」


 和佐と対峙している京紫朗は淡々と述べる。

 一叶たちは口を挟むこともできず、固唾を呑んでふたりを見守っていた。


「この科は特に精神的にも肉体的にも危険を伴います。霊病を診るのは命がけなんです。互いを守り合いながらでなければ、向こう側に引きずり込まれる」


 向こう側……死者の世界にということならば、一歩間違えれば患者を診ている一叶たちも死ぬかもしれないということだ。


 パンデミックに立ち向かうのと同じくらい、改めて恐怖を感じる。


「ここは、きみのいた世界とは違うんです。私たちの敵は病であって人じゃない」


 なにが刺さったのかはわからない。和佐は悔しそうにぎりっと歯を鳴らすと、それ以上の反論はせずに口を閉じていた。

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