第14話

 普段からうるさい屋敷に、もう一人うるさい人がやってきた。チャイムが連打される。ピンポーン。ピンポーン。響く音に苛立ちながら葉太がドアを開ける。

「葉太ちゃん!牡丹ちゃん!あと理人ちゃん!みーんながお待ちかねの桜姉さんよ!」

 桜は元気な笑顔で三人に飛びつく。上等そうなカバンが彼女の地位を物語っている。

「桜ぁー、いらっしゃいませなのじゃ」

「わぁ!いらっしゃいませ!」

「よしよし、かわいいね。大丈夫?葉太ちゃんにいじめられてない?」

 牡丹に抱きつく桜を葉太が無理矢理剥がす。「お茶お願いできるかしら」とか言いながら桜はまた牡丹を軽く抱きしめる。牡丹は嬉しそうに笑うと厨房に駆けていった。理人も一緒だ。なんだか葉太は既視感を感じた。

「またあいつを家に連れ戻そうとしたわけ?」

 睨まれた桜は手をぶんぶん振って否定する。歩きながらの会話。

「違うわよ!喉が乾燥しただけ!」

 嘘ではない。だが、葉太は疑っている。

「牡丹ちゃんとあんたが上手くやってるか気になっただけよ」

「それで邪魔者をあっちにやったと。はぁ、性悪だな」

「違うってば!悩みとかないかなーって思っただけよ馬鹿弟」

 客間に向かって葉太を蹴飛ばす。桜は一回来ただけでこの屋敷の間取りを覚えてしまったらしい。蹴飛ばされた尻をさすりながら葉太は桜を威嚇する。効果なし。知らん顔して桜は客間に入って腰をおろした。

「それで、悩みとかないの?牡丹ちゃんがかわいくて困ってるとか?」

 葉太はため息をついて言う。「そんなわけあるかよ」

「ただ、ひとつ言うなら……」

「お、なになに?」

 ずずいと葉太に桜が詰め寄る。その顔は好奇心に満ちていた。

「俺、意外と牡丹を大事にしてんのかなって思ったりする」

 桜は呆気にとられている。正気を疑っているようだ。

「葉太ちゃん、もしかして牡丹ちゃんのこと愛してる?」

葉太が先ほどよりも大きなため息をついて言う。「そんなわけあるかよ」

「ただ、よくわからないから困ってんだよ」

「ふむふむ……。つまり、あんたが牡丹ちゃんを好きかどうかわからない、ってことね。いやあ、若いわね。それじゃあ姉さんが手を貸してあげる、それでいいでしょ?」

そう言うと桜はなにやらペットボトルの水をカバンから出して葉太に手渡した。冷たい。外の空気がまだ冷たい季節なのも相まって、なんだか不快感さえ覚える冷たさになっている。

「なにこれ」

「冷たい水。天然水よ?」

「それがなんだよ」

「一回牡丹ちゃんにそれをぶっかけなさいな」

 凛とした瞳は感情の起伏はない。何事でもない、普通のことかのように桜は言う。

「……嫌だよそんなの」

 まるで兄みたいだから、とは葉太は言わなかった。そんなクズに成り下がった覚えはない。

「好きな人だったら水なんてかけられないでしょ。簡単なこと。あんたがどれだけ牡丹ちゃんのこと考えてるかわかるじゃない」

 桜の声は踊るようだ。楽しんでいるようにも聞こえる。耳障り。冬の冷たいペットボトル。つまり、不快。なぜ不快なのかも葉太にはわからない。難しい感情だ。

「ほら、牡丹ちゃんの帰還よ!」

 トタトタと廊下を歩く音が聞こえる。牡丹だ。

「お茶とお茶菓子持ってきました!みんなで食べましょうね」

 何も知らない牡丹の顔が胸に突き刺さるようだった。葉太はペットボトルを握る。机にお盆が置かれた。

「なあ牡丹」

「なんでございましょう?」

「こっち向いて」

 こっちを向かないでくれ。葉太はそう思ったが純朴な少女は夫に従った。牡丹の頬に手を伸ばす。温かい。兄みたいになるな。自分に言い聞かせた。手が震える。

「あのさ」

 やめたい。けれど、手が動く。

「ど、どうされました?」

 これ以上はいけない。誤魔化そうと思ったが口が動かない。

「ふふ、葉太様ったら、はしゃいでるんですか?」

 やりたくないはずだ。この笑顔を汚したくない。

「ごめん」

 ペットボトルをひっくり返す。やれてしまった。やってしまった。絶望感。床に穴が空いて心だけおっこちたみたいだ。底なしの穴に心が落ちていく。

「……え」

 わけもわからず牡丹が立ち尽くす。葉太はただ、自分が彼女にしたことを咀嚼できなかった。やってしまった。笑顔を壊してしまった。自分は、そんな人間だったのだ。ぽろぽろと牡丹の瞳から涙が溢れる。

「なんで、ですか」

 愛する人からの仕打ち。牡丹の目はうつろ。葉太はいつもみたいに笑ってくれることを期待していた。でも、今回は違った。

「あ、えっと」

 牡丹の頭に手を伸ばす。撫でてやろうと思った。冗談だったんだ、と言いたかった。けれど牡丹は目をつむって頭をかばった。まるで殴られそうになったかのようだ。

「なんだ。結局愛してないんだ」

 桜は軽く言う。彼女を責めたかったが、葉太にはできなかった。しばらくして、泣き止んだ牡丹がぎこちなく笑う。地獄絵図だった。

「葉太様、私のこと嫌いですか」

「そんなわけ」

「ごめんなさい」

 牡丹が綺麗な礼をする。こんな時に限って理人はいない。ただ葉太は、自分が牡丹を少なからず思っていたわけではなかったという事実が飲み込めなかった。買い物に行ったときも、唇を重ねたときも、なんとなくそばにいてもいいと思った。そうなのだと信じていた。なのに、蓋を開けてみれば勘違いだったじゃないか。桜を見送った後も、胸のつっかえが取れなくて、しこりのように残っていた。後味が悪すぎる。葉太は決意した。この夫婦を終わらせる。だって、牡丹のことはどうでもいいのだから。

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【最高402位】盲愛そして、いびり愛 おくやゆずこ @Okuyayuzuko

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