第11話
葉太が起床したのは、午前十時のことだった。随分と遅い起床だ。スマートフォンで時間を確認したあと、大きなため息をついた。そして、いつものスタンドカラーのシャツに着替える。外は晴れているが、まだ雪が積もっている。億劫だなと伸びをした。あまり使われていない(一応)理人の部屋からはなにやら楽しそうな声がする。
「おい、飯」
黒髪と白髪が楽しそうに揺れている。毛糸玉がいくつか転がっていて、葉太は危うくそれを踏みそうになった。毛糸玉を避けた足が音を鳴らす。それに驚いた牡丹が慌てて持っているものを押入れの中に隠した。
「わわっ、葉太様?どうかされましたか?」
「どうしたもなにも。飯よこせ」
「ああ、なんだ。準備いたしますから大人しく待っていてください」
「俺は子供か」
牡丹が台所へと駆けていく。葉太は毛糸玉をいじって遊んでいる理人を見た。藤色。それから空色。
「なあ理人」
どかっと理人の横に座る。理人は視線を葉太のほうによこした。
「なんじゃ?」
「お前、よくよく考えたらいつもこの家にいるよな」
理人が毛糸玉をぽん、ぽんと投げて遊ぶ。空色が浮いてはゆっくり重力に反抗的な動きで落ちるのを繰り返している。
「そりゃそうじゃろ。我は子供ぞ?子供が行方不明になったら一大事じゃ」
「本家にいたときはあんまり顔見せなかったじゃないすか」
そう言葉にしつつ、あんまり、という表現は適切ではないなと葉太は思った。十年以上も顔を見せないのを、あんまりなんて軽い言葉で表していいのか疑問に思った。
「あそこはつまらんからの。特に今の当主は面白くない。あれの長男も良くないのう。面白くもないところにわざわざ出向くのは面倒じゃ」
今の当主。つまり、葉太の父親。
「それには賛成。兄さんも、ありゃあ人間のだめなところを詰め込んだようなやつだからだめだ。」
葉太は自分の父親と兄の顔を思い浮かべた。吐き気がした。
「ところでさ、理人はいつもどこにいたの」
「祠」
「ほこら?」
おうむ返しで葉太は聞き返した。確かにそんなようなものがあった。だが、いくら理人が小さいとはいえそこに入れるとは思えない程度にコンパクトなサイズだったはずだ。
「我は人ならざる者だからの。あの祠に魂を縛りつけられておる。だから魂だけになってそこで眠ることができるのじゃ。我レベルになると、肉体を捨て魂だけになるなんて芸当もできるのじゃ」
「なにそれ、よくわかんないんだけど」
理人が黒目がちなその大きな瞳を閉じた。
「わからんでいい。我にとっては悲しいことじゃからの。どうしても知りたいなら自分の親にでも聞くが良い」
「そっか、じゃあわからんままにしとくわ」
「それに比べて今は良いぞ。日々の移ろいを楽しいと思ったのは何十年ぶりじゃろうか。見届けたいものができたのは何十年ぶりじゃろうか」
理人がくしゃっと笑う。幼い子供の、水よりも山の空気よりも透き通るような笑顔だ。少なくとも葉太にはそう見える。
「今はとりあえず、これを見届けることにした」
「毛糸玉をか?」
そう尋ねると、ぶんぶんと首を振られた。
「牡丹がな、編み物を始めたのじゃ」
「ああ、それで毛糸玉がこんなに」
藤色のそれに触れてみる。心地よい感触がした。心が少し穏やかになるような、そんな感触。
「急に店に行ったと思ったら、急にこれを始めたのじゃ」
「あー、なるほどなるほど」
葉太は理解した。あの健気な少女は愛する旦那様のために、なにやら慣れないことをし始めたようだ。藤色に空色。よくよく考えれば、葉太と牡丹がそれぞれ好んでいる色ではないか。
「なあ理人、これから俺がなにをしようとも止めるなよ」
「何故じゃ?さすがに度がすぎることをしでかしたら止めるぞ」
一度廊下に出て牡丹の気配を探る。台所からへたくそな牡丹の鼻歌が聞こえる。どこかで聞いたことのある流行りの曲だ。葉太は題名を思い出そうとしたが、どうにも思い出すことができなかった。しかしながらとりあえず、葉太にとって必要な情報は牡丹の鼻歌の正体ではない。彼女がこちらに来る様子があるか否かだ。答えは否。当分こちらにはやってこないだろう。
「それじゃあ、失礼しまーす」
笑いをこぼしながら押し入れを開ける。音がしないよう静かに。神経が削れない程度に気をつける。ふわっと押し入れ独特の香りが漂った。
「なんだ、これ」
押し入れに丁寧に毛糸でできたなにかが押し込んであった。少しほこりがついてしまっている。それは藤色と空色をしていた。部屋に転がっている毛糸玉の色と同じだ。かぎ針もある。
「ああ、なるほど。贈り物にしちゃあど定番だな」
毛糸でできたそれを引っ張り出す。丁寧に編み込まれたマフラーだった。二枚ある。おおかた、葉太と牡丹用だろうな、と葉太は考えた。正解である。マフラーにはところどころ不恰好な部分もある。空色のほうがマシな作りになっているから、こっちをあとに作ったから慣れてきてうまくできたんだな、と葉太は邪推した。空色。牡丹の好きな色。自分で使うほうをうまく作るなんて、嫌なやつだななんて思ったりもした。
「ふーん。なるほどなるほど。ま、あいつが考えそうなことではあるわな」
「葉太―?なにをしておるのじゃー?」
「別に?ただの作品鑑賞だよ」
適当にあしらわれた理人は不満をあらわにした。理人に背中をつつかれようとも突如として吹き込んできた風によって髪が崩れようとも気にせずマフラーたちに向かい合う。
(これをどうにかしてやれば、あいつも俺のことをあきらめるだろうな)
最近忘れていた節があったが、そもそも葉太は牡丹のことが嫌いなのだ。そのはずなのだ。だからどうにかして牡丹から離婚を切り出してもらいたいのだ。自分から離婚を言い出そうものなら、風は吹き荒れ大地は揺れ、ついでに桜が雷を落とし、兄には鼻で笑われたりし、父にはもうこいつはだめだとあきらめられ見捨てられる。つまりはいろいろと面倒なことになり挙げ句の果てには家から追い出される可能性があるのである。
(さて、どうしたもんかねえ……)
葉太が考えだしたまさにそのときだった。カサリ、と音がした。紙の感触がする。
「なにこれ。手紙……?」
「ああ、それはなにやらニヤニヤしながら牡丹が書いておったやつじゃの」
一拍間が空いた。そして、一言。
「遺書かもしれんな」
「阿呆が!そんなわけなかろう!」
ひどいのじゃー、と葉太は理人に引っ叩かれた。重みが意外にもあり、じんじんとした痛みが伝う。桜とどっちがマシか、とか理人も物理攻撃するんだな、とか考えがぐるぐる巡り回る。
「えーっと、なになに……」
一文字目を視界に入れたその最中。誰かが駆けてくる音がした。その足音の主は一人しかいない。
「葉太様、ご飯の用意が……」
「あ、置いといて。食うから」
言葉は途中で終わった。牡丹の動きが止まる。じわじわ顔が赤くなっていく。へろへろとした動きで指を差した。
「あ、これ?遺書かなんかかと思って……」
「おやめくださいっ。そんなもの、今すぐ捨ててください!」
牡丹が熟れたりんごみたいな顔で怒る。
「なにそれ気になる」
「気になるに一票を投じるのじゃー」
「やめてくださいー!」
牡丹の制止も虚しく、葉太は彼女を無視して手紙を読み始めた。
「『葉太様へ。最近はとても寒くなりましたね。マフラーを編んでみたのでよかったらもらってくださいませ』」
「読み上げないでくださいー!」
「……『いつまでもお慕いしております』」
牡丹が天を仰ぐ。
「お前の照れるツボが俺にはわからん」
「うう、いじわるです」
「いじわるじゃねえよ」
葉太はマフラーを一瞥した。そして手紙に視線を戻す。
「いいよ」
「え?なにがです?」
「もらってやってもいい」
ボソリと葉太が言った。耳が少し赤い。
「じゃ、じゃあもらってやってください……」
牡丹がおずおずと差し出したのは、空色のマフラー。
「あれ、紫のほうじゃないんだ」
少し驚いた。葉太はてっきり藤色の方が自分のものだと思っていた。
「空色は、私の好きな色ですから」
「だからなに?」
「好きな人に、自分の好きな色を身につけてもらいたいんです!わかってください!」
ぽかぽか葉太を殴る牡丹。あまり力はない。
「それに、葉太様の好きな色……、紫色を身につけていたらちょっとは私のこと好きになってもらえるかなって思いました。だから、こっちの紫色のマフラーは私のです」
馬鹿だな。葉太はそう思った。照れて赤くなる牡丹を見ていると、葉太に照れが伝染した。気まずい空気が漂う。
「なあ牡丹よ、我のはないのか」
「あ、そうですね。理人は何色がいいですか」
うーん、と考える素振りをした後、理人は答えた。
「二人の色を混ぜて欲しい。二人と揃いじゃ」
「いいんじゃねーの」
葉太が微笑む。理人もそれに合わせて微笑んだ。
「はい、頑張って作りますから。……葉太様は無理してもらわなくたっていいんですよ?」
「お前は一家の主をのけものにする気か?」
むんずと雑に空色のマフラーを葉太は掴む。
「……寒いしちょうどいいわ」
牡丹が目をぱちくりした後、牡丹の唇は笑みを作る。
「……葉太様」
「なに?」
そっと牡丹はこう耳打ちした。
「大好きです」
したり顔ではにかむ牡丹に、葉太はこう言ってやった。
「知ってる。お前、今の十二点な」
そっぽを向く。なんとなく格好つけたい気分だったから、葉太は赤い自分の顔を見てほしくなかった。
「まだまだ合格までは程遠いですね」
牡丹は幸せそうだ。きっと明日も彼女は幸せだ。
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