第10話

 真冬の夜の廊下は冷える。ましてや雪が降っているものだから、余計に体温を奪われる。

「葉太様、葉太様」

「なんだよ」

 牡丹がニコニコした笑顔で葉太に近づいてきた。葉太にとっては鬱陶しい。けれど邪険に扱うこともできない自分がいて、少し困惑した。

「月が綺麗ですね!」

 頬を赤らめながら思い切ったように牡丹は言う。月が綺麗ですね。英語教師時代の夏目漱石が“I love you.“をそう訳したのだとかなんだとか。葉太には正直なところどうでもいいことだった。

「月、見えねーけど」

 雲で月は見えない。外は暗い。空の灰色と雪の白が印象的である。

「こ、心の目で見れば見えます……!」

「無理すんなよ。見えねえもんは見えんのだ」

 葉太は軽く牡丹をあしらった。牡丹は不満げだ。

「お前さ」

「なんでしょう?」

「……母さんのこと嫌いか?」

 思いもよらない質問に、牡丹の笑みが奪われた。

「母は桜様に嘘をついてまで、私を連れ戻したがっているのです」

「よければなんだけどさ」

 牡丹の方に葉太が手を置く。牡丹が赤くなる。

「話してくれない?」

「嫌です」

 牡丹はそっぽを向いた。彼女が葉太を拒むのは珍しい。

「嫌かよ。心配して損した気分」

 腹立たしい気持ちを包み隠さず舌打ちをする葉太に、牡丹は不満だ。

「あ、葉太様おタバコ吸われるんですか」

「ん?ああ、これ?」

 葉太のポケットにはライターとタバコの箱が入っていた。それを取り出して牡丹に見せる。

「お前も吸う?」

「触法行為です」

「難しい言葉で拒否すんな。まあいいけど」

 窓を開けてタバコを一本取り出す。なんだか映画のワンシーンみたいだと牡丹は見惚れた。

「火、おつけします」

「ん」

 咥えたタバコを差し出す。少しかがまないといけないので腰が痛い。

「んっ……あれ……?」

 ライターの扱いに慣れていないらしい牡丹は苦戦している。その様子が面白くて、葉太は笑みをこぼした。

「あ、できました!」

 葉太は火が綺麗だ、なんて思ってみた。そんなことを思ったのは初めてだった。

「火、ついてますかね……。あ、ついてる!」

 こうやって女を侍らすのも悪くはないかもしれないと葉太は一瞬考えたが、想像したら気分が悪くなった。煙が宙を舞う。

「美味しいですか?」

 口元を押さえて牡丹が聞く。しばらくして、けほけほ、と咳き込み始めた。

「すみませっ……」

 謝罪は咳によって途絶えた。なんとなく不愉快だ。葉太はタバコを携帯灰皿でもみ消した。

「あれ、タバコ……」

「咳がうるせえから」

 ぶすっとした愛想のない顔で葉太は言う。その裏に牡丹への心配が隠れているのを彼女は知っているのだろうか。

「あー、お前のせいで吸えねえし。口寂しいわー」

 葉太がいつもの人の神経を逆撫でするような顔で言う。

「葉太様ごめんなさい」

「どっかに飴とかねえかなー。口寂しいったらありゃしねえ」

 暗に持ってこい、と葉太は言っている。牡丹がなにかひらめいた顔をした。

「あの、口寂しいんですよね?」

「うん」

 もじもじしながら牡丹は葉太の首に手を回す。

「え、なに……」

「し、失礼します!」

 牡丹が背伸びをする。冷たい空気が肌を撫でる。そっと唇が触れ合った。吐息が温かい。閉じていた瞳を牡丹はゆっくりと開ける。そして、眉を下げて微笑む。

「は、お前……」

「え、あれ?違いました……?」

「違うに決まってんだろ馬鹿!飴とかよこせや!」

 葉太が牡丹の胸ぐらを掴む。牡丹が半泣きで平謝りする。

「……俺の初キスだったんだけど」

「え、葉太様その歳で……?」

「うるせえ、黙れ」

 葉太が牡丹の頬をつぶした。不思議と嫌な感じはしなかった。だからそれが不愉快で、行き場のない感情から牡丹の顔をもみくちゃにしてみた。

「大人なこと、しちゃいましたね」

 にやっと牡丹が笑う。恍惚に染まった瞳をしている。なんだか葉太は腹が立った。

「いいか?大人っていうのはな」

「はい?」

「こういうキスすんだよ」

 牡丹の鼻をつまむ。空気を吸うため口が開かれた。少しかがんで顎を掴む。そのまま唇を重ねる。舌を入れ終わったらちゃんとつまんでいた手を離してやった。なのに牡丹は息ができていない。ちゅっと小さく舌を吸われた。こいつの舌小さいな、とか思ったりした。牡丹のほうは馬鹿みたいに空気を欲しているだけで、なにか考える余裕もなかった。とにかく腰が抜けそうで、葉太の腕を掴む。牡丹からいい香りがする。石鹸の香り。

「わかった?これが大人」

 触れ合っていた唇を離した。葉太は口を手で拭う。

「よだれまみれです……」

「大人は汚えってことだよ。ほら、どうよ。怖くなった?」

 小さなお嬢さん、と耳元で囁いてみた。びくっと反応するのが面白かった。牡丹の目には涙がたまっている。

「ちょっと不思議な感じです」

「じゃあもっと怖いことしてやろうか」

 そのとき。風が吹き込んだ。葉太は嫌な予感がした。

「葉太もやりおるのー」

 白いおかっぱ。理人だった。

「うわー!」

 葉太は混乱している。ただただ恥ずかしい。

「こ、子供は見ちゃいけません!」

「子供じゃないのじゃー」

「あ、じゃあいいのですね……?」

「よくねえから!馬鹿!」

 せっかくびびらせようと思ったのに。葉太は大きく舌打ちをした。

(……あれ?俺、もしかしてやばいことした?)

 今までの出来事を振り返る。しばらくして、葉太の絶叫が響き渡った。

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