第9話
「どういうことでしょうか」
牡丹は笑みを崩さない。ただ、心中は穏やかではない。
「牡丹ちゃんが可哀想だと思って」
さらりと桜は言う。
「勝手に決めないでくださいませ」
毅然とした態度で牡丹は接する。拳を握る。緊張。そして不安。
「牡丹ちゃんは偉いね。でも、牡丹ちゃんはまだ子供なんだよ?」
「わ、私、成人しておりますが」
「成人したって言ってもまだ二年目でしょ?」
まだまだかわいい子供よ、と牡丹に微笑みかける桜。そんな桜の発言に一人が驚愕している。
「え、お前十九なの」
「葉太様の三つ下でございますよ。そんなことも知らないなんて」
「……お前がガキなことくらい知ってたし」
「……嘘つき」
嘘じゃねえし、嘘つきです、と言う論争を理人は黒く大きな瞳で見る。
「桜よ、とりあえず部屋に入ってはどうかの。ここで話して終わるような要件でもなかろう」
「ああ、そうね。私ったらそそっかしい」
桜がぺろっと舌を出す。案外お茶目だ。だからといって牡丹の警戒がとけるわけでもない。
「いいからさっさと行け」
「はあ、葉太ちゃんが厳しいよー。姉さん悲しい」
「さっさと!行け!」
兄弟は楽しそうだ。現に、桜は笑っている。けれど牡丹のほうはどす黒い感情が渦巻いていて、体の中を巡っている。つま先から頭まで。指先から心の奥まで。
「ここが客間?」
「悪かったな、狭くて」
「いやいや、すごく綺麗よ。掃除が行き届いてる」
頑張ってるわね牡丹ちゃん。そう言って桜は牡丹の頭を撫でる。
「お茶、淹れてきます」
客間に桜を案内するなり、牡丹はそそくさと部屋を出ていった。逃げたのだ。牡丹は不安で仕方がなかった。もし、葉太と自分が離れることになったら。そう考えると喉の奥から嫌な感情が湧き上がってくる。私の旦那様なのに。牡丹は口内を思いきり噛んだ。鉄の味がした。
「ねえ葉太ちゃん、葉太ちゃんは可哀想だと思わないの?」
桜が真剣な面持ちで口を開く。理人はというと、気に入ったのかまた塗り絵をしている。深緑の色鉛筆が気に入ったようだ。川がコケでも生えたのかと思うくらいの深緑をしている。
「全然思わねー。なんでだよ」
「牡丹ちゃんはあんたに囚われている」
葉太は意味がわからなかった。桜は淡々と言葉を続ける。
「この結婚のきっかけは、牡丹ちゃんよ」
「は?理人のせいだろ?」
「あの子が六歳、あんたが九歳のとき。主様が姿を現したとき。彼女は、主様にお願いをした」
桜がゆっくりまばたきをする。言葉を一つずつ探すように、慎重に話す。
「たまたま出会った男の子がいたから。子供だから一目惚れして、『あの男の子と結婚したい』ってお願いした。その『あの男の子』があんたよ、葉太ちゃん」
頭の中を空気が通っていくような、そんな感覚が葉太を襲う。
「じゃああいつは、六歳のころの思い出をずーっと引きずってるわけ?」
「そうよ」
「なんだそれ。……普通じゃない。異常者だ」
牡丹の笑顔を思い浮かべてみた。少女らしさが残るそれをおぞましく思った。
「あんたは知ってるだろうけど。あの子の親、離婚してるでしょ」
「……は?」
「知らなかったの?」
「知らないもなにも」
牡丹は言っていた。両親は仲睦まじい夫婦だったと。二人のようになりたいと。
「それは、あの子が作り出した妄想よ」
「妄想って……」
まるで精神病みたいだ。考えが浮遊してまとまらない。
「あの子のいたところは、一人ぼっちを強いられる場所。父親はあまり家庭をかえりみない人で、彼女はいつも一人だった。夫婦仲も悪かった。時には暴力もあったらしいわ」
「なんだよ、それ……」
牡丹は、葉太とは違うと思っていた。木村家で幸せに育った箱入り娘だと思っていた。けれど、蓋を開けてみれば違うではないか。むしろ、彼女は葉太に似ている。葉太も夏目家でずっと一人だった。あんなにたくさん人がいたのに、葉太のことを見てくれる人は誰もいなかった。
「だから牡丹ちゃんの母親は、父親と離婚した。それだけよ。でも、あの子にとってはつらいことだった」
だから。一拍置いて、桜は息を吐いた。
「あの子は昔の約束にすがった。あんたと結婚して、別の場所へと行きたい、ってね」
「それで……。うまいこと理人の立場を利用して今に至る、ってわけか」
「そう言うこと」
葉太は牡丹が恐ろしい。そこまでして何年も前に一度会ったらしいだけの男に、ここまで尽くすものなのだろうか。異常な愛に身震いした。
「だから、理人にお願いがあって」
理人が桜のほうに顔を向ける。場違いな顔をしている。
「牡丹ちゃんを、お母さんのところへ返してあげたいの」
そのとき、カシャンという音がした。湯呑みが落ちて、茶がこぼれた。牡丹だ。
「あー、とりあえず淹れなおせ」
「こら、せっかく淹れてくれたんだからもういいでしょ。お茶くらい我慢しなさい」
牡丹は目を見開いていた。それでも口角は上がっている。その唇は震えていた。
「牡丹ちゃん、座りなよ。私の隣来なよ」
桜の言葉を無視して、牡丹は葉太を盾にするかのように端っこに座った。葉太を挟んで桜がいる。その隣に理人。理人の対極に座るのが牡丹。いつも理人のそばにいる彼女にしては珍しい構図だ。桜はケラケラ笑っている。
「振られちゃった。残念、残念」
牡丹は唇をきゅっと結んだ。
「それでさ。牡丹ちゃん。お家に帰らない?」
「お断りします」
桜は善意だけで行動している。だが、その言葉が牡丹の黒い気持ちを生んでいる。
「我は別にどちらでも良い」
理人は変に淡白なことを言った。
「え、理人?どうしてですか?」
「我は約束を果たした。面白いことがなくなるのはちと寂しいがの」
皆忘れていたが、彼または彼女は気まぐれである。まるで風のようだ。ただその場所を吹いていくだけ。たまに心地よさを提供したと思えば、無責任に場を荒らしていくだけ。
「それじゃ、理人は牡丹ちゃんをお母さんの元に帰してもいいって思ってる?」
「それは知らんからそっちで決めるのじゃ。我は知らぬぞ、人間のことなんて。面白ければそれでいいのじゃ、この生活がなくなったらまた玩具を探すだけのこと」
好機。葉太は生まれて初めて姉の桜に感謝した。今、牡丹以外の全員が牡丹を家に帰すことに了承している。一人はそれを切望し、一人はどうでもいいと責任を手放し、一人は喜んでいる。なんて平和的な解決方法だろうか。とうとうさよならがやってきた。
「牡丹、お前の母さんも心配しているだろうしさ。帰ろうぜ……」
腕が引っ張られた。牡丹の白い指が、葉太のシャツを掴んでいる。小刻みに震える白は、薄い紫色に映えていた。
「葉太様」
ぽろぽろ涙が落ちる。それでもなお彼女は笑っている。異常な笑み。
「また、戻らなきゃいけないんですか」
牡丹が葉太から手を離した。これから死にに行く死刑囚はこんな感じなのだろうな、と葉太は思ったりした。
「私、母の元には行きたくないです……」
きっと、何か裏にある。彼女から葉太を、すがるものを取り上げたらどうなってしまうのだろうか。考えていると、なんだか癪に触った。とにかく、牡丹の涙にイライラした。おもむろに彼女の手を掴む。びくっと手が跳ねた。
「俺、やっぱ反対。こいついねーと困るんだわ」
「ちょっと、葉太ちゃん……?え、うそ、牡丹ちゃんなんで泣いてるの!?」
涙をせき止めていたものが壊れたようで、牡丹の瞳から涙がどんどんとめどなく落ちていく。
「わあ、泣かないで、ごめんね」
桜が優しく声をかける。桜の手が伸びたとき、牡丹は身構えた。その手は優しく牡丹を撫でた。
「こいつ、俺の召使いなんで。姉さんはお引き取りくださーい」
葉太は牡丹の冷えた手を自分の頬に当てた。冷たい。でも心地よい。いつもの冷たさ。
「ごめんね牡丹ちゃん。嫌だったかな」
「……嫌でした」
「そっか、今は葉太ちゃんといたい?」
こくん、と牡丹がうなずく。
「じゃあ牡丹ちゃんのお母さんには私がどうにか伝えておくからね」
その言葉に、牡丹が怯える。
「桜様は、母から言われてきたのですか」
「うん。でも、お母さんを嫌いにならないであげて。嫌いになるのは、私だけでいいよ」
「いいえ、桜様は私のことを思ってくださったんですよね」
桜が微笑む。大人の笑みだ。牡丹も微笑みを返す。子供っぽさが残る笑みだ。
(きっと、桜様は優しい人だ。でも)
母に騙されている。牡丹はそう感じた。
「ごめんね、牡丹ちゃん。今度会うときは笑顔で会おうね」
帰り際にそんな言葉を残して桜は去っていった。
「なあ牡丹」
桜の背中を見送った後、葉太はおもむろに牡丹に話しかけてみた。
「なんでございましょう?」
「ごめん」
葉太は拳を振り上げた。条件反射で牡丹は目をつぶって身構える。自然と涙が溢れている。
「殴んねーから安心しろ」
「あ、すみません……」
葉太は彼女の異常性を感じた。きっと彼女と彼女の母親との間には、なにかがある。桜も葉太も少しだけその「なにか」の片鱗を見ている。
「ねえ葉太様」
「なんだよ」
「私、葉太様が大好きです」
きっと、彼女の愛は偽物だ。これは葉太の持論だが、あながち間違いではない。牡丹にとって幸せではない状況から形式上救ってくれたことになる葉太を彼女は崇拝している。盲愛。それ以外に言い表しようがない。
「知ってるよ」
なにかを抱えているであろう少女を、葉太は何故か手放せなかった。同情だろうか。けれども、牡丹のことは嫌いだ。同族嫌悪かもしれないな、と葉太は思っている。とりあえず明日も、不思議な家族は続く。
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