第8話
「はあ!?事前に言えよ馬鹿が!来んな!おい、切るな……」
スマートフォンに葉太が罵声と唾を飛ばす。牡丹と理人は一緒にやっていた塗り絵の手を止めた。何故か真緑に肌を塗られた女の子の絵から葉太に視線を移す。
「どうかされましたか?」
「見苦しいぞ葉太よ」
葉太は空気を大きく吐き出した。スマートフォンの電源を切る。
「……って」
「え、なんと申しましたか」
ボソリと吐き出された言葉を牡丹は聞き逃した。理人はなにやらニコニコ笑って機嫌が良さそうだ。
「……姉さんがこっち来るって」
「まあ!お姉様が」
「なんかお姉様って言われると色々違和を感じる」
面倒くさそうに葉太は首を手で揉む。
「桜か。あやつは好きじゃ」
理人が葉太の姉、桜を思い浮かべながら言う。ふわふわと浮遊しながら。
「桜様っておっしゃるのですね」
「え、知らなかったの?」
「私は葉太様しか知りません!」
「分家ってそういうもんなの?それとも、俺ってそんな有名なの?影薄いのに?」
自分を指差しながら葉太は疑問を口に出す。牡丹はあんまり薄くない、なんなら濃い方だと謎のフォローを入れた。葉太にとってあまり嬉しくはなかった。褒められているのか微妙なラインだな、とか思ってみた。
「とりあえず、ひとつ問題がある」
葉太の発言に二人はきょとんとした。
「なんですか?」
「なんじゃー?」
二人の声が重なる。お互いに顔を見合わせて笑う。それを気だるげな目つきで葉太が見る。そして、牡丹の方へ向かっていった。牡丹が顔を赤くする。ちげえよ、とおでこに小さな刺激があった。
「……ちゃんと夫婦っぽくしとかねーと俺が困る」
理人に聞こえないくらいの小声でボソボソ葉太が喋る。
「夫婦っぽく、ですか?」
「姉さんに俺たちの関係を悪く思われたらどうなると思う?」
「えっと……」
「とてつもなく面倒くせえことになる」
ぐいっと肩を掴んで葉太は牡丹を引き寄せる。ぽぽぽと牡丹が赤く上気した。
「だからわかる?不本意にもイチャコラしなきゃいけねーわけよ」
こんなふうにさ、と手の甲にキスをするふりをする。
「それ、どこで覚えたんですか。けしからんです」
顔を羞恥に赤く染めながら牡丹は上目遣いで葉太を睨む。
「女遊びは多分得意な方なんだよ、血筋的に」
「浮気したら許しませんからね」
「もし俺が浮気したらどうすんの?」
半笑いで葉太が聞く。牡丹は笑顔で答えた。
「ちょん切ります」
「え」
「はさみで。ちょきっと」
牡丹はしたり顔だ。静かに葉太は股間をおさえる。理人がそれをからかった。
「とにかく、ちゃんとしろよお前。粗相したら追い出すからな、この真冬に」
「はーい。頑張ります!」
牡丹はかわいらしい笑顔を見せた。
「こっちはさっさとおしまいにしたいんだけどな。面倒、面倒」
「あ、なにかいいましたか?聞いてませんでした」
「聞かなくていいよ」
葉太が牡丹の頬をつねる。
「ちゃんとしなければならないのは葉太の方だと思うんじゃがの」
その理人の声は誰にも聞かれなかった。ただ空気を震わせただけだった。
「葉太ちゃーん!」
しばらくしてチャイムの音とともに明るい声が聞こえてきた。
「……いい歳して弟にちゃん付けすんなクソ姉!」
あからさまな舌打ちをした後、葉太が玄関に向かって叫んだ。
「腹立つわー。めんどいわー。ほら、行くぞ」
ドタドタと音を立てて玄関へと足を動かす。すこぶる行きたくない、というのが見え透いている。
「は、はいっ」
牡丹は緊張で背筋がいつもよりピンと伸びている。
「久方ぶりじゃのー、確か桜が十二の時かの」
「最後に会ったのが、ですか?」
毎日理人に会っている牡丹は信じられない。あまり人前に姿を現さなかった理人の過去を彼女は知らない。
「うむ。桜が十二で、葉太が九。それで……」
理人がなにか言いかけたとき、葉太が思いきり力をこめて玄関の扉を開けた。日頃の鬱憤をこめているかのようだった。
「葉太ちゃんじゃない!どう?元気?」
「まあな」
「風邪とかひいてない?」
「まあな」
桜の質問に対して葉太はなあなあに返す。
「事前に連絡しろ。社会人なんだから報告、連絡、相談をしろよ」
「社会人じゃない葉太ちゃんに言われたくないわ」
桜が不満げな顔をする。すぐにその顔は笑顔になり、牡丹のほうに爪先が向いた。
「あ、あなたが牡丹ちゃん?」
「えっと、はい!牡丹と申します」
ぺこりと牡丹が頭を下げる。葉太の姉、夏目桜は二十四歳。一つにくくって垂らした髪は綺麗な焦茶色をしている。背は高く、どことなく葉太に似た伏目がちな瞳が印象的だ。
「コート、ハンガーにかけますから貸してくださいな」
「かわいい……!」
「え?」
「かわいい!なにこの子!本当に私の親戚?」
頭撫でていい?なんてキラキラ輝く目で言われたものだから、牡丹はつい了承してしまった。かわいい犬にでも会ったかのような反応である。もっとも、牡丹は悪い気はしていないようだった。
「落ち着け姉さん、そうでもないぞ。よく見ろ、普通の顔だ」
「……」
「いってえ!蹴りやがったな」
牡丹はむすっとした顔で葉太のすねを蹴った。最近彼女の足癖が悪くなっている。葉太は牡丹を睨んだ。
「葉太ちゃん?」
気がつけば笑顔の桜が恐ろしいほどの殺気を放っているではないか。
「いや、ね?夫婦間の戯れっていいますか」
「女の子をいじめないの!」
「痛い痛い、地味に痛い!俺をいじめるのはいいのかよ!」
桜が葉太にヘッドロックをかける。
「いじめじゃない!これは制裁よ!」
葉太は牡丹に助けを求めたが、牡丹はニコニコしているだけで、なにもしようとしない。とりつく島もない。
「それに葉太ちゃん、髪の毛切ったんでしょ!?なに電話口で誇らしげに言ってんのよ!警察行きよ!今すぐ出頭しろ!」
「それに関してはすんませんでした、痛い離せよ痛い」
兄弟喧嘩が勃発する玄関口に、風が吹き込んだ。白いおかっぱが飛び込んできた。桜は葉太を離し、ひざまずいた。急に腕を離された葉太がつんのめる。牡丹がそれを支えた。
「桜よ!久しいのう、こうして対面するのは久しぶりじゃあ!」
「ご無沙汰しておりました。主様のお顔を拝見できて光栄です」
綺麗な所作で理人に話す桜は美しい。
「ちょっと、あんたも」
「いや、こいつに対して敬う気持ちはもはや不要だよ」
「はぁ!?こいつ呼ばわりって、あんた殺されるわよ!?ぷちっ、って」
「効果音つけんな」
焦る桜をよそに、葉太は頭を掻きながら理人を招き寄せた。
「だって俺、こいつの形式上の父親だし。そしたら姉さんは叔母じゃんか。なぁ、理人?」
「理人?誰それ」
「そうなのじゃー。叔母なのじゃー」
「ええっ!?主様!?」
真にうけられない、といった様子だ。現実をうまく咀嚼できない。
「主様に人間の名前つけるとか、ふざけてるでしょ」
「別にいいじゃん。牡丹が言い出したんだし俺悪くない」
嫁に責任転嫁。桜は口をぱくぱくさせている。
「理人、桜姉さんだぞ」
「桜姉さんなのじゃー。我のことは理人と呼ぶのがいいのじゃ」
桜は唖然としている。大丈夫ですか、すみません、と言う牡丹に大丈夫じゃない、と返すのが精一杯だった。
「理人、様?」
「様は要らぬ」
「ですが……」
どこからか風が吹き、全員の髪を荒らした。
「夏目の者が我を拒むと言うのか?」
「いえ、そうではなく……」
「なら対等に話せ」
息と痰をごくんと飲み込んだ。そして、桜が目線を合わせるためしゃがむ。一言、口を開いた。
「じゃあ、理人くん」
「よろしい!」
「驚くべき順応性」
葉太は呆気に取られている。牡丹は微笑ましく思っている。
「桜はなんの用でここまできたのじゃ?」
「牡丹ちゃんについて、直談判にきたのよ」
桜が理人に向き直る。凛とした目は威嚇しているようだった。
「牡丹ちゃんと葉太ちゃんの婚姻、取り消して欲しいの。……牡丹ちゃんのために」
えっ、という声が牡丹からあがる。好都合。葉太は思いもよらない機会に口角を上げた。
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